13 にじ(上)
冊子を開く。
一年生の、風が立つ頃だった。
「にじを書くものを探して来い」
午前中に部活を終えて、午後の自主練に入る前。白く渇き始めた垜に水を撒きながら、榊先輩が言った。
「はぁ……?」
濡れないよう少し離れた場所で、外した的と的串を持ったまま考える。
「何だ、その間抜けな返事は」
榊先輩はホースの口を指で潰し、見事な扇状に広げて水を撒く。慣れた手つきで、満遍なく垜を湿らせていくが、弓道着の袴は濡らさない。水の扇に成り損ねた水滴と、霧のような細かな水滴が陽光を分散させ、小さな虹が生まれた。
「にじを描くものですか」
七色の光を数えながら、榊先輩の意図を汲み取ろうとする。が、さっぱりわからない。
「どんなものですか」
「さぁな。これ、と思ったもの。何でもいい」
何でもいいと言われても、困る。にじは何に描けるのか。やっぱり七色描かないと駄目か。
「紙でもいいですか?」
榊先輩が目を見張る。束の間、何か思考を巡らせたようだったが、すぐに表情を変えた。
「悪くは無いが、面白くない。却下」
何でもいいって言ったのに。何でもよくはないではないか。
不服が顔に出ていたのか、榊先輩がにやりと嗤う。
「書記係として見つけられないと、な」
直感した。
これは試験だ。
書記係になるための、見習いとしての第一歩。
その証拠に、嗤っている榊先輩の目は笑っていない。触れれば、すぱりと切れてしまいそうな、鋭く冴えた光を宿している。
「……わかりました」
垜はしっとりとした暗茶色に湿り、土の匂いがする。
ついでとばかりに、榊先輩が垜小屋の西側に生える草たちにも水を撒いた。草丈高く群生したシロザ――若葉が赤紫色ではなく、代わりに白い粉が付いているからシロザ――が嬉しそうに葉を揺らす。水道に巻きついていたヤブガラシが、涼しげに水滴を弾く。その下に生える、見慣れた黄色い花が水滴を受けてお辞儀をした。
ふと、閃く。
「後は、よろしく」
水を撒き終えた榊先輩は、使ったホースを片付けると弓道場へ戻って行った。
的を垜に掛け直し、そのまま垜小屋の裏へと回る。日当たりが良くなくても、野草たちは好き勝手に生えている。〈紫苑の森〉の領域。
「野襤褸菊」
そう呟くと、背後で気配がした。振り返れば、茶色い髪を後ろで引っ詰めた、細目の男が立っていた。纏う着物は相変わらずボロボロだ。
野襤褸菊が頭を下げる。
「ご無沙汰をしております」
腰をきっちり九十度に折る。雀の尻尾のように束ねた短い茶髪。その毛先だけが黄色い。
「悪いが、顔を上げてくれ。俺は最敬礼を受けるほどの者じゃない」
「そうでしょうか」
「そうだとも」
逡巡の沈黙があった。
「……そう仰るのなら、失礼致します」
ゆっくりと野襤褸菊が体を起こした。ほっと胸を撫で下ろす。貴人のように扱われるのには慣れていない。
「聞いていたかもしれないが、頼みがある」
「何なりと」
「にじを描くものを探している。何か心当たりないか?」
ぱちくりと野襤褸菊が目を瞬かせた。そうして、微笑む。
「〈紫苑の森〉へお入りになるのですね」
「〈あっち〉の方の、な」
普段の〈紫苑の森〉だったら、グランドとほぼ等しい広さ。決して平坦ではないが、それでも迷うことはない。だが、探しものは現の場所には無い気がする。狭間とでも言おうか、少し理が違うところに有ると思う。何せ、書記係見習いの課題だ。そうであれば、案内役がいないと間違いなく迷う。
本当の〈紫苑の森〉は、果てし無く広い。
「ご案内いたしましょう」
野襤褸菊が頷いた。
「よろしく頼む」
頭を下げると、野襤褸菊は驚いたようだった。
「どうした?」
「いえ、そんな。競べ弓で藤の翁様に勝たれたお方が、頭を下げないでくださいませ」
「頼みごとをしているんだ。礼儀だろ」
「……矢の君は、真っ直ぐな人柄でいらっしゃいますね」
何故だか、微笑まれた。意味がわからない。
参りましょう、と野襤褸菊が〈紫苑の森〉へと歩を進める。その後に続く。
ざあっと風が立ち、一斉に野草たちが葉を裏返した。
景色が一変する。
凛とした森気が体を包む。
大木が立ち並び、枝葉が遥か頭上を覆う。暗いわけでもなく、かと言って、人の手が入った明るさもない。枝打ちや間伐がされていないのに、適度に光と風が通る。小さな羽風を感じて顔を向けると、薄い翅の、細長い何かが飛んでいた。
「藤の翁様に、ご挨拶なされますか」
「え、ああ。会えるのか?」
うかうかと会える存在ではない気がするが。
「お望みとあらば」
「頼む」
「承知いたしました」
野襤褸菊が先導する。下草が揺れる。
ぽつりぽつり、足元に野襤褸菊の黄色い花が咲いている。ひとつ、ふたつ、小高い丘のような勾配を越え、みっつ、苔むした大岩の前を通り過ぎた。
「ほっほっほ。これは、これは」
磐座、と表現するしかない巨石を抱くようにして、藤の古木が生えていた。曲がりくねった幹に、藤色の直衣を着た翁がちょこんと座っている。
「矢の君が来るとは。亦楽しからず乎」
ほっほっほ、と藤の翁が笑う。葉が茂り、垂れた枝がさわさわと揺れる。
「お久しぶりです。競べ弓の時は、ありがとうございました」
うんうん、と藤の翁が目を細めて頷いた。
「また、やりましょうぞ。いつでもお待ちしておりますぞ。……して、何用かな? 野襤褸菊を案内に、矢の君自らお出でになるとは」
「探しものをしています」
「ほう」
「にじを描くものを探しています」
「ほほう」
「どんなものか、心当たりありますか?」
「ほっほっほっほ」
高らかに藤の翁は笑った。藤の古木全体がふるりふるりと揺れた。
「知っているんですね?」
「嬉しいですなぁ。矢の君が次代となるのですなぁ。途絶えるとばかり思うておりました。嬉しいですなぁ……のう、野襤褸菊よ。これほど嬉しいことは無い」
はい、と野襤褸菊が頷く。
ほっほっほ、と藤の翁が笑い、ぽんっと座っている藤の古木を叩いた。
「矢の君よ。我が藤へ、にじを書いていただくこともできるが、如何かな」
「えっ、できるんですか」
「お主がそう望めば」
如何かな、と藤の翁が訊ねる。
「どうかと言われても……」
判断付きかねる。天然記念物に指定されそうな、立派な藤の古木に七色を描いてもいいのか。バチが当たりそうな気がする。
「ほっほっほ。残念じゃ。矢の君は、藤ではなさそうじゃ」
あっさりと諦めた藤の翁に慌てる。即急過ぎる。
「まだ、何も言っていません」
「そういうものじゃよ」
そういうものなのか。意味がわからない。
「相応しいものは、すぐにわかる。求めれば、求められる。行きなされ。探しなされ。きっと見つかる」
ほっほっほ、と藤の翁が笑う。
「行くって、何処に? 何処へ行けば、何処を探せば、見つかるのですか?」
「それはもう、矢の君ご自身がわかっておりまするよ」
ほっほっほっほ、と笑い声を残し、磐座を抱いた藤の古木の姿が、すぅっと消えた。
ーーにじ(中)へ続く。




