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12 散水


 冊子を開く。

 いつの頃だったか。



「水を撒くぞ」

 榊先輩の声に、一年生の誰かが垜小屋(あづちごや)の水道まで走った。垜の土を掃いた竹箒を片付けながら、俺も濡れないように離れる。


「水、出しまーす」

「頼む」

 水道の蛇口から伸びるホースを持って、榊先輩が端から垜に水を掛けていく。ホースの口を指で潰し、水を見事な扇形に広げている。的を固定する垜は乾くと崩れてしまうから、適度に湿らせるそうだ。放課後の春の陽光に、水飛沫がきらきらと反射し、小さな虹が生まれた。


 ――絵になる人だな。

 ふと、脈絡なく思った。


 弓道着の袴を濡らすことなく、手早く散水していく。女子にしては背が高く、その背筋は部活中、いつでもぴんと伸びている。長い髪を後ろでひとつに束ねていて、誰かが和製美人と称した。わかる気がする。神社の巫女さんにいそうだ。


 白っぽく乾いていた垜の土が、しっとりとした暗茶色(くらちゃいろ)になる。涼やかな水の匂いと湿った土の匂い。仕上げとばかりに榊先輩は垜前の地面にも水を撒き、ずるずるとホースを水道まで引きずった。


「次、垜を(なら)せよー」

 榊先輩の指示が飛ぶ。




 一年生もゴム弓から素引きに進歩した頃。

 先輩が居れば朝練で素引きをしても良い、という三年の部長から許しが出たので、俺は朝から弓道場に入り浸っていた。今日の朝練参加者は、俺と榊先輩の二人。


「そろそろ時間だな。垜を片付けてくる」

 榊先輩が道場内の柱に掛っている時計を見た。七時三十四分。八時には教室に居なければならない。

「俺も行きます」

「いいよ。的は一つしか出してないし、すぐ終わる。道場の中を頼む」


 言われた通りに、道場内を箒で掃く。塵取りで集めた、有るか無いかの塵を外に捨てる。道場内にごみ箱はない。「どうせ有機物だし、そのうち自然に還る」と榊先輩のお言葉。先輩の言うことは絶対なので、細かいことは気にしない。


 雨戸を閉めようと、弓道場の縁に立つ。

 麗らかな朝の日差しに、矢道(やみち)のタンポポが花弁を広げていた。矢道は芝生が普通だと思っていたが、ここでは青々とした雑草が代わりを務めている。ところどころ剥き出しの地面が見える、野趣あふれた弓道場。


「古いせいもあるが、まあ、いろいろ余所(よそ)と違っている。ここの弓道をうっかり全部鵜呑みにするんじゃないぞ」

 榊先輩にそう言われた。


 ほぼ毎日、朝練に来ていれば、自然と榊先輩と話す機会が増える。初めは、相手が女子の先輩だからと構えてしまっていたが、さっぱりとした物言いのお蔭ですぐに慣れた。


 矢道の向こう。的を外した榊先輩が竹箒で垜を掃き上げていた。そうやって、矢が刺さった穴を直すらしい。竹箒を片付けて、水道でとぐろを巻くホースの口を手に取る。


「水を撒くぞ」

 榊先輩の声が微かに聞こえた。

 その視線の先には、誰もいない。




「ちょっと、不思議なところがある」

 同じクラスの田村が言う。教室で弁当を食べながらそういう話になった。


「部活中……神棚に頭下げる始まりの挨拶から、終わりの挨拶の間は、怖いくらいに凛としてるんだけどさ。それ以外の時、たまにだけど、誰もいない空間をじっと見てたりするよな」

「何かいたんじゃないのか? ほら、この前は草叢に狸がいただろ。〈紫苑の森〉に接しているし、野生動物がいても不思議じゃない」


 開けられた窓から〈紫苑の森〉が見える。グランドほどの広さで、ほどほどに木々が生い茂っている。森の入り口付近には小さな庭園や東屋が整備され、今は弁当を広げる生徒の姿があった。教室は一階にあるため、外のざわめきがよく聞こえる。


「そうかなー。あとさ、妙に勘が鋭くね? 朝練で顔を見た途端、『数学の課題を家に忘れたな。授業で当てられるぞ』って言われたことある。いやいや、ノートはカバンに入れましたよーって余裕こいていたら、授業の時になくてさ。しかも先生に当てられるし。予言かよって思った」

 確かに、榊先輩の勘は不思議とよく当たる。


 電車の定期券を落とすから覚悟しろ、と言われた時は落とす前から落ち込んだ。その二日後の朝、電車に乗ろうとして定期がないことに気づき、慌てて道を引き返して家に戻れば、玄関の外に落ちていた。電車は乗り過ごした。


「三年の先輩たちのお墨付きだよなー。榊先輩が言っていました、って言うと、『じゃあそうだよね』ってなる。何なんだろうなー」

 田村が卵焼きを頬張る。目尻が下がって幸せそうだ。甘い卵焼きが好物だという。


「何なんだろうな。書記係だから?」

 俺が言うと、そうそれと田村が頷く。

「その書記係もさ、他の運動部にはないだろ? あるのは弓道部(うち)だけじゃん」

「他じゃ、あんまり聞かない役職だよなぁ。文化部みたいだ」

「弓道部って実は文化部だったのか」

「馬鹿言うな。弓道は歴とした武道だぞ」

「動かない運動部だけど?」


 そう揶揄されることもある。剣道や柔道と違って、体を動かすことが少ないように見えるから。

 でも、動かないように見えるだけ、見掛けだけということは、俺も田村も十分承知している。


「動きまくる文化部と、どっちが良いんだろうな」

 ぼそりと呟くと、田村は乾いた笑みを浮かべた。

「あー、吹奏楽部。入部して二週間は筋トレだけだったって聞いたな。女子のレベルは高いのに、部活一直線! って感じがもったいないんだよなー。残念」

「何言ってんだ、お前」

 呆れていると、田村がお前こそ何言ってんだと、(なじ)るように睨んだ。


「考えてみろよ、鳴海」

「何を」

「高校生活は三年間しかないんだぞ」

「まぁ、そうだな」

「健全な男としたら、彼女くらいは欲しい」

「まぁ、そうだな」

 ちょっと面倒くさくなってきたので、適当に相槌を打って弁当に集中する。からあげ美味い。


「青春したいだろ。体育祭やら文化祭やらの行事、もし彼女がいたら、どれだけ楽しいか幸せか羨ましいか」

「まぁ、そうだよな」

 昨日の夕飯に出た麻婆豆腐が春巻きにリメイクされていた。美味い。

「男子より女子の人数が多い、神に恵まれたこの環境を存分に利用しないでどうする!」

 田村が力説する。


 確かに、一年生は六クラスある内、二つ女子クラスが存在する。圧倒的に女子の方が人数は多いのは、他の学年も同様だ。

「その恵まれた環境ができた理由、なんとなく知ってるからなぁ」

 不思議そうに田村が目を瞬かせる。


「え、何でだ?」

「駅から近いからだってさ。だから、通学を頑張りたくない女子が多く来るって、姉ちゃんが言ってた」

 それに加えて、姉ちゃんはセーラー服が着たかったらしい。制服なんてどうでもいいと思うが、女子の気持ちはわからない。

 ふーんと田村が呟く。


「そう言えば、此所は陸軍の基地を高校にしたんだか、高校が基地になったんだかで、グランドに幽霊が出るって有名な噂があるよな。意外とそういうのは気にしないんだな」

「人によるだろ」

「……〈紫苑の森〉にも出るらしいぞ」

「まぁ、ありそうな話だな」

「だな。あー、もしかして」

 田村が笑う。


「榊先輩は、幽霊を見てたりして」

 何言ってんだ、お前。

 とは、言えなかった。




 翌日の朝練参加者は三人だった。

 三年生の先輩に道場内をお願いし、榊先輩と垜へ向かう。俺が二つの的を片付け、竹箒で垜の表面を掃き上げる間に、榊先輩がずるずるとホースを伸ばした。俺は垜の横の水道へ走る。


「水、出しますね」

「頼む」

 キュッと水道の蛇口を捻る音に、榊先輩の声が重なる。


「水を撒くぞ」


 数秒の時間差で、ホースの口から水が出る。榊先輩はホースの口を指で潰し、水を見事な扇形に広げて撒く。きらきらと水飛沫がきらめく。

 周囲には誰もいない。


「あの、訊いてもいいですか」

「何?」

 乾きやすい垜の端と天辺(てっぺん)へ重点的に水を撒きながら、榊先輩が俺を見た。大きな目。冴えた光が宿る、漆黒の眼差し。


「水を撒くぞって、誰に注意しているんですか?」

「さぁねぇ」

 榊先輩がにやりと嗤った。含みのある、はぐらかすような、それでいて面白がるような笑み。


「何か、意味があるんですか?」

「鳴海だって、いきなり水を掛けられたら嫌だろ?」

 それは勿論、嫌だ。


「そういうことだ」

 小さな虹を一緒につれて、榊先輩が垜の端から右へ二歩進む。垜の天辺から地面まで、手早く丁寧に湿らせていく。

「見えるかどうかは別だけど」

 付け足された言葉が謎。


 やっぱり田村が言うように榊先輩には幽霊でも見えているのか、などと考えてしまう。


 榊先輩が垜の真ん中辺りに移動した。的を掛けなかった場所まで水を撒く。

 天辺に水が掛かると、垜と地面との境目から灰色の蜥蜴がするりと出てきた。大きい。三十センチほどだが、何故か垜には穴が空いていない。


 蜥蜴は体をうねらせながら、あっという間に矢道へ消えた。

 

『散水』



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― 新着の感想 ―
[一言] 「それ以外の時、たまにだけど、誰もいない空間をじっと見てたりするよな」 榊先輩が猫に思えた。きっと黒猫。(*´ー`*)
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