11 怖いもの(下)
ーー怖いもの(上)より続き
バタン、と女子部室のドアの音がした。
とたとた、と壁越しに物音がする。
榊先輩が着替えているようだ。
北原先輩が単語帳をカバンに仕舞った。俺も慌てて帰り支度を整える。コートを羽織る。
二人で男子部室を出た。闇夜に白い息の花が咲く。
部室の鍵を壁に掛けていると、榊先輩がやって来た。道場内の電気が眩しいのか、目を細めている。突き出された女子部室の鍵を受け取って、同じ鍵掛けに返す。ちりん、と鍵に付けられた鈴が鳴る。
「待たせて……悪かった」
「いえ、大丈夫です」
北原先輩が三人の名札をひっくり返す。
部員全員の名札が墨側――帰宅の表示になっているのを確認して、弓道場の鍵を掛けた。
しん、と辺りは静まり返っている。外灯は道場横、水場に一か所あるだけ。その他は見事に真っ暗闇だった。
「さむい」
榊先輩が歩きながらマフラーを撒き直している。前を見ないと危ないですよ、と声を掛ける間もなく、足元の石に躓いた。
「あ」
危ない。
俺が伸ばした腕は空を切る。
転ぶ。
「おい」
北原先輩が榊先輩の腕を掴んで支えた。
「あー……、ごめん」
「ちゃんと歩け」
はーい、と返事だけは良い。
北原先輩が手を放すと、榊先輩は立ち止まってマフラーを撒き直した。満足したのか、北原先輩の横に並び歩き出す。
「石階段のとこだけ……外灯を設置して……くんないかな」
よいしょ、よいしょと声を出しながら、石階段を榊先輩が昇る。狭いので、俺は後ろから続く。
急な斜面に、無理矢理石を埋め込んで作ったような石階段は、一段一段が高い。昇るのがしんどい上に、外灯がないので真っ暗だ。不確かに見える石の輪郭へ足を乗せる。これが雨の夜だと悲惨だ。つるりと滑る。
榊先輩が足を踏み外した。
「えっ!」
前のめりに倒れる――前に、北原先輩が抱きとめていた。
「お前、半分寝てるだろ」
「……ばれた?」
力無く榊先輩が笑った。暗い中でもなんとなく見える。榊先輩の瞼が半分下りている。
「大丈夫ですか?」
抱えられるようにして階段を昇りきった榊先輩に声を掛ける。
「平気、平気ー」
声だけは元気。たが、ひどく眠たそうだ。ふらふらしながら、歩き出す。
幸い、校舎の横の小道は平坦だ。外灯はないが、それでもテニスコートの脇を通るので見晴らしが良い。駅周辺の街灯りが届くので、夜でも弓道場よりは歩きやすい。
榊先輩を真ん中にして、並んで正門まで向かう。北原先輩が右手テニスコート側。俺は左手校舎側。
「今朝の霧のせいか」
ぽつりと呟いた北原先輩に、榊先輩は声で頷いた。
「……そう」
おい、と北原先輩に促されたので、朝練の顛末を話した。霧に閉じ込められたこと。
「それだけか?」
「えっ? ええ、はい。お蔭で俺も今日ずっと眠かったです。霧に気力を奪われたからだって。寝れば治るって、榊先輩が言ってました」
かくん、と前につんのめった彼女を北原先輩が支える。盛大にため息をついた。
「それだけじゃないだろ」
それだけじゃない?
疑問符が頭の中で大量生産された。
おい、と北原先輩が問い質す。
「……さぁ、ねぇ」
はぐらかされた。冴えた光を宿す漆黒の目が、今はぼんやりとしている。
「寝るなよ。自分で歩いて家まで帰れ」
「……わかってるー。目、見て言って」
左手で眼鏡を外した北原先輩が屈み込み、同じように言葉を繰り返す。お互いの顔が近い。
「……聞き届けたぁ」
今すぐ倒れ込んで寝そうだが、それでも喋ることで若干覚醒したのか、榊先輩の足取りがふらつかなくなった。
「距離感……」
「何だ、鳴海?」
ひょい、と北原先輩が顔を上げた。
「いえっ、何でもないです! 眼鏡外すの、珍しいなって思って! ほら、北原先輩の目って珍しい色だ、か、ら……?」
思い浮かんだことを口にして、違和感に気づく。
「何色だ」
鋼のような北原先輩の声。
すぅっと気温が下がった気がした。
ただでさえ夜で寒いのに、更に。白い息の花が咲く。凍える。かちかちと歯の根が鳴る。思わず立ち止まる。
北原先輩が足を止め、僅かに届く街灯りを背にして俺を見た。
「何色に見えた」
北原先輩が問う。眼鏡越しではない、その瞳の色は。
「……今は、暗いから、黒ですけど。さっき部室で。光の加減かもしれないですが、黄色っぽい琥珀色のように、見えました」
あの時か、と北原先輩は納得したようだった。身に覚えあるのか。
榊先輩が北原先輩のコートの袖を手で引く。
途端に、ふっと冷気が遠ざかる。
北原先輩が長く息をついた。
「光の加減ってことにしておけ」
「はいっ」
ばくばくと心臓が怯え狂っているが、北原先輩がそういうなら、そういうことだ。迂闊に藪へ手を突っ込んだらいけない。部長命令は絶対だ。
くいくいっと、再び榊先輩が北原先輩のコートの袖を引っ張る。
「何だ?」
ぼそぼそと呟く榊先輩の口元へ、北原先輩が屈んで耳を寄せる。その眉間が険しくなった。
「鳴海」
「はい」
嫌な予感がする。
「榊曰く、迷ったらしい」
「はぁ?」
迷うも何も、校舎沿いの一本道だ。迷いようがない。
「ずっと校舎とテニスコートの間を歩いていましたよね?」
「その校舎もテニスコートも、こんなに広かったか?」
だらだら喋りながら歩いても、五分程度で正門に着くはずだ。
五分は五分前に過ぎていた。
恐る恐る、後ろを振り返る。
夜に沈む〈紫苑の森〉が見える。前を向く。真っ直ぐに伸びた小道が闇の中へ続いている。
「ちょ、ちょっと歩いてみませんか?」
「ああ」
正門の方向へ足を進める。榊先輩もこっくりこっくり舟を漕ぎながら、北原先輩の袖を握ってついて来る。ゆっくり歩いていたとしても、そろそろ昇降口ぐらいには辿り着いてもいいだろう。
「なるほど。これは迷ったな」
北原先輩が足を止めた。
歩いたはずなのに、風景がまったく変わらない。
道の丁度真ん中から、動いていなかった。
「狸の仕業とか」
何時ぞや、化かされたことがある。坂の途中、同じように前へ進めなかった。
「おれが居るから、それはない」
そう断言できる理由を知りたい。
眼鏡を掛けないまま、北原先輩が辺りを歩き回る。
右手を真っ直ぐ前に突き出して、校舎へ近づく。当然のように右手が校舎の壁に触れる。
反転して、今度はテニスコートへと近づく。背丈より高い金網にかしゃん、と触れる。その北原先輩の後を、コートの袖を握った榊先輩がちょこちょこついて回る。
「榊先輩、完全に寝てませんか?」
「だから迷った」
意味がわかりません。
そこに居ろと命令して、北原先輩が正門方面へ進む。ぞわっと総毛立った。北原先輩と榊先輩の足は動いているが、前に進んでいない。
「なるほど。囲われてはいないみたいだな」
ふん、と北原先輩が鼻を鳴らす。
「囲われて……?」
「別の話だ。気にするな」
「いや、気になりますよ。何の前振りですか」
「気が向いたら、追々話してやる」
「本当ですか。約束ですよ」
「ああ」
北原先輩が右手を軽く握る。
「どうやって、ここから抜け出しますか?」
北原先輩が舌打ちした。
珍しい。と、同時に。
あ、やばい。
直感が警鐘を鳴らす。
「原因が不明だから、穏便にいきたいところだったが」
その冷たく鋭利な気迫に心臓が飛び上がる。
やばい。
「うちの書記係たちが疲れているのに、帰り道を邪魔するとは良い度胸だ」
はっ、と口元を歪めて北原先輩が嗤った。鋭い犬歯が覗く。その瞳が烔々と、黄色みがかった琥珀色の光を宿している。闇に沈む小道を睨む。
これは、やばい。
かたかたと、寒さではない何かで体が震えだした。増していく重圧に息が吸えない。怖いが、ただ恐怖ではない。やばいと思うのは変わらないが、紙一重で違う感覚。
ぐねり、と前方の闇が揺れた。動いた。慄いた。
「鳴海」
「はいっ」
「目を瞑れ。耳を塞げ」
言われた通りに体が反応した。瞼をきつく閉じて、両手で耳を塞ぐ。体に掛る威圧に耐え切れず、その場にしゃがみ込む。
怖いもの。
絶対的なもの。
遥か高みに在すもの。
畏れ多くも見てはいけないもの。
「――ろ」
北原先輩が何か言ったようだった。
ざあっ、と闇が問答無用に払われていく気配がした。
脳裏に閃いたこの感情の名前は。
――畏怖だ。
「おい」
「はいっ」
肩を叩かれた。
眼鏡を掛けた北原先輩が目の前に立っていた。
「帰るぞ」
しゃがみ込んだ俺を見下ろす目は黒。よく見れば濃い茶色だった。
「置いてくぞ」
北原先輩がさっさと歩き出す。その後をコートの袖を握った榊先輩がちょこちょこついて行く。舟を漕いでいる。完全に寝てる。
慌てて立ち上がると、節々が悲鳴を上げた。痛い。痛いが、ぐずぐずしていると北原先輩に本当に置いて行かれそうなので、体を引きずるようにして後を追った。
「……北原先輩」
「何だ」
「今の動いたやつ、何だったんですか」
「さぁな。わからん」
惚けているようには見えない。本当にわからないようだ。
「何て、言ったんですか」
「さぁな」
これはわざとだ。知らないふりをしている。勘が告げている。
俺の気のせいでなければ。
北原先輩は、消えろと命令した。
「……もし、万が一、俺にも言葉が聞こえていたら、どうなったんですか?」
「ここに居るなら、命令が届かなかった証拠だ。おれは鳴海を見てないし、鳴海もおれを見なかっただろ。あの時」
あの時。
他と隔絶した色。黄色がかった琥珀。
ぞわ、と背筋が凍る。
怖いもの。
絶対的なもの。
遥か高みに在すもの。
畏れ多くも見てはいけないもの。
「おい」
いつの間にか、正門に辿り着いていた。大通りに沿って、外灯が煌々と点いている。明るい。右手、坂を下れば駅。北原先輩と榊先輩の家の方向は左手、坂を上る。
「気をつけて帰れよ」
「は、はい」
俯いて頷く。北原先輩が薄く笑った気配がした。
「こわいか?」
静かな声だった。
「……はい」
すみません、と頭を下げる。どうしても、目を合わせられない。
「正直だな、お前は」
「すみません」
助けてくれたのに。
「すみません」
圧倒的な何かが、身をすくませる。
「すみません」
悔しい。自分の無力が悔しい。怖いと思ってしまう自分に腹が立つ。不甲斐なさに、情けなさに、拳を握る。
「悪かったな」
どうして北原先輩が謝るのか。
「おれのせいで、こわい思いをさせた」
「それはっ、違います」
思わず顔を上げる。
眼鏡越しの、静かな濃茶色と目が合った。
「景眼、というそうだ。借りものだが」
北原先輩が指で目を示す。
「誰から……」
いや、違う。
「何から、借りたんですか」
「さぁな。話すと長くなる。また今度にしよう」
「約束ですよ」
「ああ」
こっくりこっくり舟を漕ぐ、完全に寝ている榊先輩をつれて、北原先輩は坂道を上る。等間隔に並ぶ外灯が、歩道に丸い光の円を描いている。二人の姿が光の円に入り、闇に入る。また光に入り、闇に入る。その背中が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
怖いもの。
絶対的なもの。
遥か高みに在すもの。
畏れ多くも見てはいけないもの。
でも、それは妖しく、かなしく、惹きつけられるもの。
『怖いもの』




