10 怖いもの(上)
冊子は続く。
霧の朝は散々だった。
集中できなかった居残り練を片付けて男子部室に戻ると、北原先輩が居た。とっくに着替えを済ませたようで、しんしんと冷え込む部室内でコートを着ている。
「あれ、帰らないんですか?」
「ちょっとな」
壁に背を預けて座り、立てた片膝に肘をつきながら英単語帳を広げていた。北原先輩の目は英単語を追っていたが、その意識を一瞬、弓道場へ向けたのが気配でわかった。
弓道場の窓から明りが漏れている。
榊先輩が書記係の仕事をしている。
墨を磨り、筆で冊子に体験した今朝のことを書き記している。
弟子として、その様子を傍で見ていたかったのに、「射込み終えたなら片付けてこい」と言われてしまった。
垜を片付けて戻って来ると、「早く帰れ」と今度は命令された。腑に落ちない。
「長く霧の中にいただろ。自覚症状はないかもしれんが、それなりに気力を奪われたからな。早く休め」
畳の上、文机の前で正座した榊先輩が筆を硯に置いた。
「気力って……」
「珍しく授業中に居眠りしただろ」
それで先生に注意された、という榊先輩の言葉に腹の底が冷たくなる。
「どうして知っているんですか」
学年が違えば、教室がある階も違う。覗き見ることは不可能だ。今日は廊下でも擦れ違っていないはずなのに。いつもの鋭いを通り越した、神懸った勘か。
「そういうものだから」
「意味がわかりません」
「私がそうだからさ」
肩透かしをくらう。榊先輩も寝ていたのか。
「ただ注意はされなかったぞ。まだまだだなぁ、鳴海」
ふふんと榊先輩が鼻で笑う。授業中の居眠りの仕方を未熟と言われても困る。
「さっさと家に帰って、ごはん食べて、早く寝ろ。寝れば治る」
「榊先輩は帰らないんですか?」
時刻はとうに六時半を過ぎている。壁に掛った部員の名札を見ると、在部の朱文字になっているのは三枚だけだった。
「これだけ書いたら帰るさ」
榊先輩が再び筆を手に取る。
冬は夜になるのが特に早い。
〈紫苑の森〉の端に弓道場があるせいか、一際暗く、ひどく静かだ。実はもう丑三つ時ですよ、と言われても信じる。
「残っているのは、あいつだけだな」
ぱら、と北原先輩が長い指で英単語帳を捲った。断言した声に、俺は着替えながら頷く。
「待っているんですね」
「こんな時間に部員をひとり歩きさせて、何かあったら責任問題だ」
責任感ある部長の言葉。
だが、意図的に省略した言葉もある。
「どうせ帰り道が同じだから、ですか」
「おい。勝手に読むな」
北原先輩に睨まれた。眼鏡越しの黄色い琥珀色の目が険しい。
「すみませんっ」
まずい、かなり注意力散漫になっている。普段だったら突きに行かない藪に、自ら手を突っ込むとは。
じっと北原先輩が睨んでいる。
本気で怒らせたかもしれない。やばい。
「鳴海」
「はいっ」
思わず直立不動になる。北原先輩は座ったまま、俺を見上げている。それなのに、遥か高みから見下ろされているような感じがする。
「お前、榊に似てきたぞ」
「……は?」
聴覚が感受した言葉に、脳は混乱した。
俺が榊先輩に似ている?
「え、いや、どこがですか?」
やること成すこと平穏では終わらない榊先輩と、自分との共通点がまったく思い付かない。
「妙に勘が良いところ。久しぶりに他人に思考を読まれたな」
何かがズレている気がしたが、その前に僭越ながら指摘させていただく。
「普通わかりますよ。家が隣りの幼馴染って、みんな知ってるんですから」
そうか、と北原先輩は納得したように英単語帳へ視線を戻した。逆鱗には触れなかったようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
ぽつりと北原先輩が呟く。
「……言った覚えはないんだがな」
「え?」
北原先輩の指がページを捲る。
「高校に入ってから、あいつと家が隣りで幼馴染だなんて誰かに言った覚えはない」
でも、誰かに聞いた気がする。
北原先輩と榊先輩はずっと一緒だと。生まれた時から一緒に居ると。小、中学校はあるとしても、高校とそれに部活まで同じだなんてね。先輩の誰かから聞いたのかもしれない。同期の誰かから聞いたのかもしれない。
誰か。
それは誰だ。
ぞわっと両腕に鳥肌が立った。
「いやっほら、榊先輩が、言ったかもしれないじゃないですか……」
自分で言いながら、その論理が成り立たないことに気づく。
榊先輩が北原先輩との関係を問われた時には、必ず「縁」と答えている。その場面を幾度も目撃している。もしかしたら、幼馴染とも答えたかもしれないが、それならば何故、家が隣同士ということも広まっているのか。
「別にいいんだがな。大方、同じ中学のやつらが言い触らしたんだろ」
「そ、そうですよね!」
小学校から高校まで同じ学校である確率は低くはない。
そもそも、この地区は小学校と中学校、高校、県立大学と銀杏並木の両脇に並んで建っている。近いという理由でそのまま進学することはありそうだ。
ほっと胸を撫で下ろしていると、北原先輩がちらっと俺を見た。濃い茶色の瞳と目が合う。
「鳴海。お前、何か身を守るものを持っているか?」
「えっと、お守りとかですか? ばあちゃんがくれたものならありますが」
小指ほどの大きさの古びたお守り。たぶん大社で授かったものだろう。小さく嵩張らないから制服のポケットにいつも入れている。
北原先輩にそれを見せたら、大真面目に頷かれた。
「妙に勘が良いと、引きずり込まれるから気をつけろ」
有り難い忠告に、ひくりと喉が鳴った。
北原先輩は、俺が榊先輩の弟子になったことを知っている。
「……何に、引きずり込まれるんですか」
今朝の霧の一件が脳裏に甦る。
「さぁな。知らん」
突き放し方も一緒か。幼馴染だからか。二人で似過ぎだ。
「北原先輩は大丈夫なんですか?」
弓道とは違った、不可思議な道を突き進む榊先輩の傍に、昔から居たのだ。怪異の一つや二つ経験があるだろう。
北原先輩が口を開く。
「慣れた」
簡単に言われ途方に暮れる。慣れるものなのか。
「怖かったこととか、危ない目に遭ったとか、ありませんでしたか?」
「昔はいろいろとあったが……今は見えるものであれば、問題ない」
北原先輩の言葉に首を傾げる。意味がわからない。
「それって、『見えれば大丈夫』ってことですか? 普通、逆ですよね」
怖いものでも見えなければ大丈夫、ではないのか。
「視覚で感知できれば、それが少なくとも在るということが、おれの中で確定できる。認知するということは、知らないものが知っているものに変化すること。知っていれば対処法を考えられる。……例えるなら、そうだな。咳も頭痛もないのに、突然体中の関節に激痛が走り、高熱が出たら、鳴海はどうする?」
「病院に行きます」
「何故?」
「何故って……医者に診てもらうためです。何の病気か、自分じゃわからないですし」
北原先輩が頷いた。
「検査を受けて、インフルエンザと言われたら、どう思う?」
「え、そんなことあるんですか?」
「場合によっては、症状が高熱と関節痛だけということもありえる」
そうなのか。知らなかった。
どう思う、と重ねて北原先輩が訊ねる。
「……驚きますけど、冬だからしょうがないかと思います。逆に変な病気じゃなくて良かった、ですかね」
「つまりは、そういうことだ。突然の不可解な病気でも、調べて、原因と病名がわかれば治療できる。安心できる。それが何か知ることができれば、対処できる。怪異も同じだ」
それが何かわかれば怖くない。
へぇ、と得心した。過程をすっ飛ばす榊先輩の説明よりもわかりやすい。
見えるものであれば怖くない。
「じゃあ、北原先輩の怖いものって何ですか?」
北原先輩が英単語帳を閉じた。指で眼鏡のブリッジを押し上げる。
「――戻って来ないこと」
ーー怖いもの(下)へ続く




