9 今昔の季節(こんじゃくのきせつ)
冊子を開く。
いつかの、季節の途中だった。
部活はなく、自主練に当てられた土曜日。
ほどほどに朝寝をして、ほどほどの頃合いで弓道場へ向かった。
「おはようございます」
返事はなかった。
雨戸がすべて開け放たれ、見える垜には的が二つ掛かっている。居るだろうと思っていた人の姿がない。
カバンを下ろす。靴を脱いで道場に上がる。
神棚へ一礼してから、壁に掛った名札をひっくり返した。先客の名札も在部の朱文字になっている。
「……ん、鳴海か?」
小さな声に振り返る。
畳の上に片膝を立てて座り、壁に背を預けた榊先輩が目を瞬かせていた。靴箱が死角になって見えなかった。気付かなかった。
「そんなところで寝たらだめですよ、榊先輩」
弓道着の上から黒のジャージを羽織っていても、風邪を引いてしまう。
うーん、と榊先輩は強張った節々を伸ばすように両腕を突き上げる。
「良い陽気だからなぁ」
ふわあぁ、と大きな欠伸をした。滲んだ涙を長い指で拭う。
確かに、今日は暖かい。
日差しも麗らかで、大気が穏やかに澄んでいる。
時折、吹く微風が木々の葉を揺らす。さわさわと葉擦れの音が聞こえる。どこかでキジバトが鳴いている。
〈紫苑の森〉の端に建つ弓道場はいつも静かだったが、今日は特別な気がする。単なる無音の静寂ではなく、弓道場を取り巻くものが、気負う様子もなく自然体で在る。
奥の壁に立てかけられた弓袋から弓を出す。
弦を張って、軽く三回弾く。ビィン、ビィン、ビィン、と高く響く弦音。弓も格段に機嫌が良い。
「そこで二度寝しないでくださいよ」
「さぁねぇ」
榊先輩は壁に背を預けたまま、足を畳の上に伸ばす。だらん、と猫のように伸びている。行儀が悪い。
「北原先輩が見たら説教されますよ」
「今日は来ないから大丈夫」
勘か事前リサーチか。どちらにせよ、榊先輩が来ないと言ったのなら、部長である北原先輩の不在は確実だ。
とりあえず、着替えよう。
鍵掛けから男子部室の鍵を取る。
ちりん、と付けられた鈴が鳴った。
ふわりと、神棚の下に掲げられた紫苑色の横断幕が風に翻る。
白抜きの『平常心』の文字が宙を泳ぐ。同じ風に、さやさやと神棚の紙垂が鳴った。
「何してるんですか?」
道場の中央、板張りの床に先生用の座布団を勝手に敷いて、榊先輩が胡坐をかいていた。
ぴん、と背筋が伸びている。ひどく姿勢が良い。だったら何故、正座しないのか。
「季節を見ている」
真っ直ぐに垜へ視線を向けたまま、榊先輩は答えた。
「季節? 風景ではなくて?」
ちょいちょい、と榊先輩が手招きする。
俺が傍に立つと、床を手の平でとんとん、と叩いた。大人しく正座する。
「鳴海。今日の陽気をどう感じる?」
「なんだか、みんな機嫌が良いですね」
そうだろう、と榊先輩が頷いた。
白く澄んだ陽光に、磨き込まれた床板が温められ、仄かに甘い木の匂いが漂っている。
静かで、穏やかで、開かれた空間。
すべてのものの輪郭が、陽の温もりに、ほろほろと解けていく。
「こんな日はな、季節が見えるぞ」
「季節って、春とか、夏とか、秋とか、冬のことですか」
「大体はそうだが、もっと面白い」
面白い。
そう言った榊先輩の目が、きらきらと輝いていた。
「ほら、見えるぞ」
榊先輩が指差した。
雨戸をすべて開け放った道場が、額縁のように風景を切り取っている。
弓道場の外。矢道とその先に、的が六つ掛かった垜が見える。
「ん?」
小さな違和感は、吹いた風に押し流された。
ざあっと水が流れ落ちるような音がして、視界一面が薄紅色に染まる。
花吹雪だ。
ソメイヨシノだろう大部分の薄紅色に、圧倒的な紅色がちらほら混ざっている。寒緋桜だ。微かに桜葉の匂いがする。
「……どういうことですか」
こんな華やかな春は見たことがない。
ふふん、と機嫌良さそうに榊先輩が鼻を鳴らした。
「そういうことだよ」
「いや、意味がわかりません」
風に舞い踊る薄紅色の花弁はどれも不規則で、はらはらと舞うものもあれば、ひらひらと舞うものもある。すっ、と視界を横切る紅色もあれば、くるくると惑うように落ちる花弁もある。すべての花弁に意志が宿っているようだ。
幾千億もの花吹雪に、的が霞む。
今まで見たことのない、幻想的な春。
ぼーっと見惚れていたら、桜は一瞬にして消えた。
代わりに、矢道がタンポポだらけになっていた。
ライオンの鬣にも似た黄色い花が、風に揺れている。
うちの矢道は芝生ではなく、タンポポを始め多くの野草で形成された緑の絨毯だ。オオバコ、オオイヌノフグリ、ホノケノザ、シロツメグサ、チドメグサ。などなど。
何故か道場内にあるハンディー植物図鑑のおかげで、大体の野草の名前がわかるようになった。垜へ目を向けると、相変わらず野襤褸菊は、時期関係なくちょこちょこと咲いている。
ゲコゲコ、と水場にいる蛙石の鳴き声が聞こえた。
むわっとした湿気が体を包む。
ふっと日が陰り、囁くように雨粒が降り出した。
「え、雨っ!」
思わず腰を浮かしかけた。
「大丈夫だ」
横に座る榊先輩は動じていない。
瞳を輝かせたまま、じっと道場の外を見つめている。
さーっと細い銀線のような雨が降る。
徐々に雨粒の質量が増す。空気が冷える。
とたたたたっ、とたたたたっ、とリズミカルに軒先を叩き、矢道を湖に変える。
「この時期に掃矢になると、悲惨なんだよなぁ」
榊先輩の呟きに頷いた。
失速した矢は地を這い、的へ届く前に水溜りへダイブする。矢羽根がびしょびしょに濡れ、ちゃんと乾かさないと剥がれてくる。
「榊先輩は掃矢なんて経験ないでしょう?」
恐ろしく美しく、静かで、正しい射型だ。
正射必中。
その言葉をそのまま体現している。
「一年の時だっけ。ひどい掃矢地獄にはまって、苦労していた」
「えっ本当ですか?」
初耳だ。
「北原が」
「……悪意のある倒置法はやめましょうよ」
立ちに入る回数こそ少ないが、安定した的中を誇る北原先輩にそんな経験があったなんて想像できない。
「騙されるほうが悪い」
ふふん、と榊先輩が鼻を鳴らした。次に北原先輩に会ったら、こんなこと言っていましたって言ってやろう。悪意を持って騙すほうが悪い、と北原先輩なら叱ってくれるはず。
ゲコゲコ、と蛙石が鳴く。
雨の帳が上がる。
日差しは強さを増し、白く灼熱になる。ゆらゆらと地面から陽炎が立ち上る。
と思ったら、轟音が鳴り響いた。
びりびりと腹の底から震える。
「何が……っ」
「いつだったか、雷が落ちたんだよ。奥にあった榊の木に」
榊先輩の静かな声に、思い出す。
聞いたことのある話だ。
垜小屋の西側、離れた場所に二股に分かれた榊がある。
いつも神棚に供える葉を採る木。放っておけば小高くなる木だが、分かれた幹の片方が傾いているお蔭で、脚立を出さなくても葉を摘むことができる。
「空鳴りだった。雨が降る前だったから、外に部員がいたんだ」
嫌な予感に背筋が凍る。
「被害は……」
「なかったよ。全部、あの木が引き受けてくれた」
雷撃を受け、身を引き裂かれた榊の木。
その木を見つめる、静かな眼差し。何を思っているのか、横顔だけではわからない。
榊の木は何も語らず、ただそこに在る。
ごろごろごろ、と獣が喉を鳴らすような音が、やがてやかましい銅鑼の音に変わった。幾重にも打ち鳴らされる銅鑼は、蝉の大合唱。
青空に入道雲が浮かぶ。むっとする熱風が吹きつける。
遠く、お囃子が聴こえる。
「大社の祭りってさ、どこかの日で必ず雨が降るって知ってた?」
榊先輩の言葉に記憶を手繰る。
「あー、聞いたことあります」
去年は最終日が雨だったらしい。
「でも、奉納試合がある時間は降らないんでしたっけ。何でですか?」
「そういうものだから」
「いや、意味がわかりません」
「そういうものだからなぁ。昔から」
昔から。
ぽんっと投げられた言葉は、軽そうで重い。
一年や二年の話ではないだろう。榊先輩が言うのは、どれくらい昔なのか。
カナカナカナカナ、といつの間にかヒグラシが鳴いている。
涼しくなった大気に金木犀が香る。大社の御神木だろう。四方八里に渡る、甘い香気。
茜色した陽光に、金色が舞う。
ざっ、と巻き起こる旋風に銀杏の葉が巻き上げられた。はらはらと、金色が天から降ってくる。銀杏の葉を敷き詰めた矢道を、馬の群れが駆け抜ける。さすがに驚いた。
「高校の前は陸軍の敷地。馬場があった場所。その前は、士族、武士の屋敷」
視界を銀杏の葉が覆い尽くす。馬が走る。長い尾が靡き、嘶きが鼓膜を震わせる。
「では、その前は何か」
「その前?」
投げ掛けられた質問に、首を傾げる。この土地の一番古い記録は、武士の屋敷があったということではないのか。
漆黒と目が合う。
ひとではないものを見つめ続ける、冴えた眼差し。
脳裏に閃光が走った。
「……〈紫苑の森〉。人が住む前から、ずっと昔から、森はあった」
今もだよ、と榊先輩が呟く。
ふっと夜の帳が下りた。
青白い闇に包まれる。
凛とした気配に天を見上げると、大きな満月が座していた。
りんりんと大気が凍る。銀色に夜風が光る。
耳を澄ませば、パキパキと霜柱が育つ音がする。
しん、と辺りは静まり返っている。
「いつか。ここも、なくなる日が来るんだろうな」
榊先輩の声が氷となって、背筋を凍てつかせた。
「そんなこと……」
ない。
とは、言い切れない。
「弓道場だったそのあとは、何になるんだろうか」
道場内で影が動いた。
射位に並んで、弓を引いている。放たれた矢が的に中る。
だが、音はしない。
ぼんやりとした影は道場内にいくつもあった。
皆、弓道着を着ていて、それとなく男女の区別はついたが、顔はぼやけてわからない。
立射、座射。黒板の前で記録を付けるもの、弓を張るもの、中仕掛けを直すもの。すっと歩く影が俺を通り抜けた。突然のことで驚いたが、ただ通り抜けただけだった。冷たくもなく、不快でもない。単なる影だ。
何人居るのだろうか。
影に影が重なる。
動作に動作が重なる。
何年分なのだろうか。
「前は、六人立ちで会、打起しでも、一人三立ちが精一杯だった。たくさん居たんだ」
榊先輩が振り返って道場の一辺、その壁を見上げた。
俺も同じように見上げる。壁の上部一面に並ぶ、たくさんの名札。いつもより多い。探すと、北原先輩の母親、祖母の名前があった。俺のばあちゃんの名前もある。
「……ぎゅうぎゅうだったんですね」
「おされて泣くくらいには」
おしくらまんじゅうか。思わず笑ってしまう。
月の光の中で、ぼんやりとした影――歴代の先輩たちの姿が動き回る。
「いつか。私の名札も、あの壁へいくんだろうな」
しみじみと呟く声に頷いた。
「俺より先に。確実に上へあがるんでしょう」
「後輩たちを見下すのも面白そうだ」
「いやいや。そこは見守りましょうよ」
えー、と榊先輩は不服そうだ。
「知るか。自分の身は自分で守れ」
おおう、理不尽。
「榊先輩だって、その上着。先代から守ってもらっているんでしょう? 後輩の役に立っても、バチは当たらないと思います」
「形あるものは、いつかなくなる。使える物は使えるとしたら使える内に使い倒さないと」
何だその理屈は。
「屁理屈ですね」
「それでも理のひとつだ」
呆れを通り越して、榊先輩らしいと思う。
青闇の中でも、沈むことのない紫苑色が揺れた。白抜きの文字が静かに光る。
――平常心。
在るものが、在るように在ること。
かたちを変えても、たぶん、きっと、どこかに在るのだろう。
何となく、わかるようになった。
弓道とは違う、摩可不思議な道を突き進む榊先輩にくっついて、いくつもの怪異を見てきた。偏った知識と、妙な勘と、変な度胸が身に着いた。
それらすべてが判じている。
「……これは、弓道場が見続けてきたものなんですね」
榊先輩がにやりと嗤う。
「ご明察」
ふっと、全てが夢のように消えた。
『今昔の季節』




