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8 霧(下)


 ーー霧(中)から続き。




 耳の痛い静寂が道場の中に満ちる。


 ため息をついて、壁の弓立てに置かれた榊先輩の弓を手に取る。

 何の変哲もないカーボン製の一寸伸び。紫地に白い矢絣の真新しい握り革。俺が握ると細くて、ああやっぱり女子なんだと思った。弦の中仕掛けは毛羽立ちなく、丁寧に作られている。

 微かに水道の蛇口を捻る音。水が流れる気配がした。矢道近くの水場は消えていなかったらしい。


 弓を持ったまま、そわそわと玄関で待っていると、榊先輩が帰って来た。良かった、早かった。

「戻ったぞ」

 どうだ、という顔で榊先輩が鼻を鳴らす。

「無事で何よりです」

「心配性。北原に似てきたぞ」

 袴の裾に絡みついてきた霧を蹴り飛ばし、榊先輩が道場に上がる。


「そう言えば握り革、変えたんでしたっけ」

「そう。前のもお気に入りだったけど、微妙に革が薄かったから」

 榊先輩の弓を丁重に弓立てへ戻した。

 畳の上、文机の前に座った榊先輩が墨を磨る。嗅ぎ慣れた墨の匂いに、ほっと安心する。

 冊子の頁を開いて確認すると、榊先輩は紙片に何やら書き付けた。


「何ですか、それ」

「声のもと。喋れるようになるらしい」

 書き上げた紙片を持って、榊先輩が道場の縁に立つ。どうするのかと見ていたら、ぽいっと霧に向けて投げた。扱いが雑。紙片は白い霧に紛れ、すぐに見えなくなった。

「これで本当に喋れるようになるんですか?」

「訊いてみたほうが早い」

 おーい、と榊先輩が声を張った。

「何か、言ってみろー」


 霧がぐねぐねと動き出す。薄まったり、濃くなったり。縮まったり、大きくなったり。形のないものが形を取ろうと蠢いている。

 やがて、ぼんやりとした白い人影となった。

 見上げるほど大きい。弓道場の軒先よりも大きな白い影が、矢道に立っている。

「でかいな」

「でかいですね」

 目も鼻も口もない、のっぺりとした人影がゆらゆらと揺れている。

 …………シイ。

 声を聴いた途端、ぞわっと全身が総毛立った。


 ……欲シイ。

 幾重にも重なった男女の声、霧の声。遠くなったかと思うと、耳元で聞こえたりする。掴みどころなく、ぼわぼわ漂っている。

 ……欲シイ。

 頭の中で警鐘が大音量で鳴り響く。

 これは、やばい。

 具体的に何がやばいのかわからないが、それでもやばいことはわかる。直感。本能。これは理屈抜きで危険だ。心臓が悲鳴を上げている。体は凍りついて動かない。


「何が欲しいんだ?」

 淡々と、榊先輩が訊ねた。その横顔に怯えも恐怖もない。

 ……色ガ欲シイ。

「色?」

 榊先輩が訊き返す。霧はまた、欲シイ欲シイと繰り返した。

「……色、ねぇ」

 確かに霧は真っ白だ。色がないと言えばその通りだが、白じゃだめなのか。


「何色が欲しいんだ?」

 ……赤色ガ欲シイ。

 榊先輩が眉をひそめた。

「赤か。生憎とないな。代わりに黒はどうだ? 欲しくないか」

 ……欲シイ、欲シイ。

「青は?」

 ……欲シイ、欲シイ。

 思いの外、強欲だ。

 榊先輩が次々に色の名前を挙げていく。そのすべてに霧は欲しいと答える。


「鳴海、筆と紙片を持ってこい」

 霧と対峙したまま、榊先輩は視線を外さずに小声で命令した。

 霧は音もなく、するすると近づいて来る。ぼんやりとした大きな手が、道場の縁に立つ榊先輩へ伸ばされる。


「若草色はどうだ? 初々しくて可愛いぞ」

 ……欲シイ、欲シイ。

 色を訊くと、ぴたりと霧の手が止まった。

「鼠色は?」

 ……欲シイ、欲シイ。

「早くしろ鳴海」

 榊先輩の凛とした声に金縛りが解ける。慌てて文机の上から筆と硯と紙片を取った。

 霧の手が近づく。


「鳶色はどうだ?」

 ……欲シイ、欲シイ。

 伸ばされた霧の手がぴたりと止まる。

「朱鷺色は?」

 ……欲シイ、欲シイ。


 榊先輩の足元に筆などを置いた。邪魔にならないよう、すぐに後ろに下がる。ひとつ頷くと、榊先輩はその場に正座した。俺は立ったまま、そのぴんと伸びた背中を見守る。

「烏羽色は?」

 ……欲シイ、欲シイ。

 さらさらと紙片へ筆を走らせる。

「よし。では、色をくれてやろう」


 ぼわぼわと、霧の人影は震えた。不気味だった。悦んでいるのか。するすると霧の手が榊先輩へ迫る。

「そら、受け取れ」

 正座したまま、榊先輩が紙片をひゅっと投げた。


 宙を切り裂くように紙片は真っ直ぐ飛んで行き、霧に呑まれる。ぐねぐねと霧の人影が蠢く。濃くなり、薄まり、大きくなり、縮まる。

 霧が榊先輩へ手を伸ばした。目前に迫る霧の手を、榊先輩は身動ぎせず見返す。

 伸ばされた霧の手は、榊先輩に届く前にぼろりと崩れた。


 しん、と静まり返った矢道の向こうに、垜小屋が見える。

「……消えた?」

「消えたな」

 何でもない、普段の風景が広がっていた。


 冬の早朝の光が、白々と周囲を照らしている。どこかでキジバトが鳴いた。

 ふう、と息をついて榊先輩が足を崩した。胡坐をかいて、時計を見る。その視線につられて時計を見ると、長針が動き出していた。


「今から的を出す時間はないな」

 あーあ、と残念そうに呟き、榊先輩が大きく伸びをした。

「紙に何て書いたんですか」

「うん? あぁ」

 後ろから声を掛けると、榊先輩は腕を伸ばしたまま後ろに倒れた。床の上に寝転がる。行儀が悪い。


「気になる?」

「気になります。結局、何色をあげたんですか」

 霧は最初、赤が欲しいと言っていた。

「赤をあげるって言うと、血を一滴残らず絞り取られたからなぁ。嫌な流れだった」

 耳を疑った。


「……マジ、ですか」

「マジマジ。言っただろ、やばいって」

 榊先輩のやばいは本当にやばかった。

 ――では、何色をあげたのか。

 寝転がったままの榊先輩と目が合う。にやりと彼女は嗤った。

「さぁな」


『霧』


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 榊先輩のドラ◯もん的収納力。 鳩サブの缶に団扇が入っただろうか。 [一言] 蝋梅の頃に霧はあっただろうかと怪しんだら、あやしい霧でした。 色は何をあげたのでしょうか。 黒ではないと思っ…
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