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7 霧(中)


 ーー霧(上)から続き。




 榊先輩が滅多なことでは口にしない言葉。やばい――矢場い。矢を射る場所が由来という説があるが、つまりは危険な状況。


「マジですか」

「マジマジ」

団扇(うちわ)で霧を晴らせなかっただけで、どうしてそんな判断になるんですか」

「あぁ、これ? 簡易版芭蕉扇(ばしょうせん)


 ほれ、と榊先輩が俺に向けて団扇を扇いだ。びょう、と一陣の風が巻き起こり、窓がガタガタガタッと音を立てて震える。思わず腕で顔を庇う。どこが簡易版だ。

「何で、そんな物を持っているんですか……」

「経緯はいろいろあるが、それはまた別の話だ。これで消えないとすると、ただの霧じゃない。しかも、閉じ込められた」

「はぁっ?」


 耳を疑った。閉じ込められた?

「時計の針が進んでいない」

 柱に掛った時計を見る。長針が文字盤の一点を指して痙攣していた。

「……電池切れとか」

「先週交換したばかりだろ」

「……古いから壊れたとか」

「さぁねぇ。精神衛生上、そう思っておけば?」

 そうしよう。そうでないと、心臓がいくつあっても足りない。


 霧は相変わらずゆらゆらと揺れている。それでも一応は芭蕉扇の効果があったのか、揺れの幅が大きくなった。濃くなったり、薄くなったり。

「榊先輩の鳴弦で祓えないんですか?」

「やだ。うっかり何かを射たらやだからやだ。そう言うなら鳴海がやってみればいい」

「俺なんかじゃ無理ですよ」

「どうかな」

 榊先輩は団扇を黄色い缶に戻し、畳の上で胡坐をかいた。


「アレでやってみれば?」

 榊先輩の視線の先、神棚に祀られた一張の弓。注連縄のように横へ掛けられ、白い紙垂(かみしで)が下がっている。

「無理無理、それこそ無理ですよ! バチが当たる!」

 俺如きが畏れ多い。そもそも引けるかどうかもわからない。

「冗談だよ。アレは本当に最終手段だ。本当に」

 さぁてどうしたもんかねぇ、と榊先輩が呟く。


「なんでもかんでも、力任せに打ち祓えばいいってもんじゃない。ただ原因がわからないと、解き方もわからないな」

 なんでもかんでも力任せに打ち祓ってきた人の言葉とは思えない。

 榊先輩が眉を寄せた。

「今、失礼なこと考えただろ」

「いえっ、まさか」

 慌てて首を横に振る。榊先輩は勘が鋭い。

「まぁいい。ほら、鳴海も考えろ」

「何をですか」

「ここから出る方法」


 時計を見ても、針はやっぱり動いていなかった。

 霧はゆらゆらと揺れている。

「普通に弓道場を出たらだめなんですか?」

「たぶん、ここ以外はもう消えている。部室も(あづち)小屋も。(くら)べ弓の時もそうだったろ」

 野襤褸菊(のぼろぎく)に〈紫苑の森〉へ案内された際に経験済みだった。その時は自分が居た垜小屋以外きれいさっぱり消えていて、代わりに野原が広がっていた。


 外を見る。

 霧はゆらゆらと揺れている。

 そうして気付く。

「道場内に、霧は入ってこれないんですか?」

 雨戸は全開にしてある。それなのに、霧は流れ込んでこない。弓道場と外が硝子で仕切られているように見えるが、現実にはそんなことはない。


「弓道場には幾つか〈結び〉が在るから。中に居れば基本的には安全」

 思いの外、榊先輩はあっさりと答えてくれた。

「〈結び〉って何ですか」

「乱暴に言えば結界。こっちとあっちの境界線。矢を射る場所、矢場だからちゃんとしておかないと危ない」

 例えば、神棚。

 例えば、道場内での約束事。

 目に見えるものと、見えないもので構成されているそうだ。


「勿論、道場の外にも〈結び〉は在るが……どうやら全部、この霧には効かなかったらしい。厄介だな」

 だから、やばい。

 意識した途端、ざわっと総毛立った。

 ただ、そこに在るだけの霧。

 言葉も敵意も感情もなく、ただ在るだけ。それでも、ひたひたと危険が近づいてくる気がする。何が潜んでいるのか、暗い深遠を覗き込んだ時のような底知れない恐ろしさ。きゅっと心臓が縮み上がる。


 霧には色、音、匂い。すべてがない。

 怖い。

 ないのに、霧はそこに在る。

 怖い。

 覆い被さるように在る。

 怖い。


「死みたいだな」

 ぽつりと榊先輩が言った。

「やめてくださいよ……」

 情けなく語尾が震える。冗談でも笑えない。


「どう足掻いても、防ぐことができないもの。誰も逃れられないもの。ただ在るもの。色も音も匂いもない。在るけど、ないもの。こわいもの」

 冴えた光を宿して、榊先輩は静かに霧を見つめている。


「……榊先輩も、死は怖いですか」

 怪異とも呼べる、人の理屈が通じないものと対等もしくはそれ以上で渡り合う彼女。学年はひとつしか離れていないのに、踏んで来た場数が違う。幾度も危ない目に遭ってきたはずだ。

「さぁ?」

「さぁって……」

 特に気負う様子もなく、榊先輩は首を傾げた。

「死んだことがないから、わからないな」

 ――それは、そうだ。


「榊先輩は……、そもそも、こわいものあるんですか」

「あるさ」

「何ですか」

「さぁねぇ」

 はぐらかされた。


「あっ、すず屋のどら焼きが怖いかな」

 特に今限定の蜜柑餡が怖いなぁ、と榊先輩がにやにや笑う。

「饅頭じゃないんですね」

「何だ、知っていたのか。饅頭でもいいぞ。草月庵の蓬饅頭」

「後輩にたからないでください」

「弟子にならいいのか」

「やめてください」


 霧はゆらゆらと揺れている。

 時計の針はぴくりとも動かない。

 霧が晴れなかったら、どうなってしまうのか。

 膨らみ始めた不安に体が震えた。

「榊先輩」

「何?」

 胡坐をかいた足の上で、榊先輩は取り出した冊子を開いていた。いつの間に。


「ずっとこのままってことはありえますか?」

「ありえるな」

 ありえるのか。マジか。

 真綿で首を絞められるような、じわじわとした恐怖に居ても立ってもいられなくなる。


「俺じゃ考えつきません。榊先輩はどうなんですか」

「今、探してる」

 ぱら、ぱら、ぱら。

 古びた和紙が長い指によって捲られていく。その度に、墨で書かれた文字が身をくねらせる。歴代の書記係が書き綴った冊子。読めるのは書記係だけらしい。

 ぱら、ぱら、ぱら。ぱたん。

 榊先輩が冊子を閉じた。


「見つけたんですか?」

「なかった」

「え……」

 絶望で目の前が暗くなる。

「慌てるなよ。この巻にはなかっただけだ」

 榊先輩が壁の棚の下をじっと見つめた。黄色い缶が入っていた下段。缶は榊先輩の横にあるので、そのスペースには何も入っていない。


「どこだっけな」

 トントンッ、と榊先輩が指でこめかみを叩く。冊子を持ったまま、畳から立ち上がり棚の前へ移動する。しゃがみ込んで下段の奥を覗いた。

「読んだ覚えがあるんだけどなー」

 両腕を下段に突っ込んで、ごそごそと奥を漁る。一見何もない空間だが、その実、何十冊もの冊子が詰め込まれているらしい。どういう理屈かは知らない。


「あ、これか」

 別の冊子を取り出して、榊先輩が頁を捲る。ところどころに銀杏の葉が挟まっている。

「あった、あった」

 トンッ、と榊先輩の指がある章を示す。俺も板張りの床にしゃがみ、冊子を覗き込んだ。


 ――骨から声を聴く(こと)


「骨?」

 不吉だし物騒だし意味がわからない。

「どういうことですか?」

「そういうことだよ」

「いや、わかりません」


 榊先輩が立ち上がり、道場の隅から文机を引っ張り出す。文机の上に黄色い缶から出した墨と筆と硯と水差しと紙片を並べる。

「脱出方法がわからなければ、訊けばいい」

「誰に」

「霧に」

 にやりと榊先輩が嗤う。水差しを持って、玄関で雪駄を履く。


「外に出る気ですか!」

「水がないのに墨が磨れるか」

「それはそうですけど……」

 危険ではないのか。

「平気平気。上着があるから寒くないし、ちゃんと洗ってるし」

 そういう問題ではない。

 着ていれば、良くないものを寄せ付けないという何故か黒い上着。確かにその効果は知っているが、それでも不安は残る。


「俺も行きます」

「だめだ」

 あっさりと却下された。

「道場内なら安全だから、ここにいろ」

「でも」

「師匠の言うことは?」

 絶対だ。


 それでも不服を全面に押し出して、榊先輩を見る。不貞腐れてる、と榊先輩がけらけら笑った。

「それなら私の弓を持って待ってろ。何かあっても、弓があれば帰って来れるから」

 そう言って、榊先輩はさっさと外へ出て行ってしまった。霧が彼女の存在を避けるように一瞬千切れ、また再び白く揺蕩(たゆた)う。




 ーー霧(下)へ続く。



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