6 霧(上)
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一年生の、冬の日だった。
駅に着くと、朝の街は霧に覆われていた。
視界は見えなくないが、それでも白くぼんやりとしている。道路を走る車は例外なくヘッドライトを点灯している。霧が音を吸うのか、街はいつもより静かだ。
薄らと白い視界の中、緩やかな上り坂を歩く。高校の正門に近づくにつれ、だんだんと霧が濃くなっていく気がする。早朝のため他の生徒の姿はない。
昇降口には向かわず、校舎とテニスコートの間の小道を通る。ここにも白い霧がじっとりと居座っている。テニス部の朝練も始まっていないので、ぼんやりと見えるテニスコート上には静寂が広がっていた。
学生会館の横も通り過ぎ、やっと弓道場へ続く石階段に辿り着く。何故か、校舎や学生会館など他の施設より低い場所に建っている。〈紫苑の森〉と呼ばれる森の端にあるからかもしれない。
斜面に石を埋め込んだだけの素朴な階段。その両脇に白梅と蠟梅が植わっているが、今日は霧のせいで花の色もわからない。蠟梅の仄かな甘い香りも、今朝は湿気の匂いに負けてしまっていた。
古びた弓道場の屋根だけが、白い霧の海に浮かんでいる。
風がないせいで、弓道場周辺に霧が溜まってしまっている。一メートル先もぼんやりと白い。石の階段を踏み外さないよう慎重に下りた。
弓道場の入り口に辿り着き鍵を開ける。雨戸が閉め切られた真っ暗な道場内に、するりと霧の端が忍びこむ。どうしてか、足元からぞくりと悪寒が這い上がった。
カバンを上がり框に置き、靴を脱いで道場に入る。神棚に一礼。ピシッ、と家鳴りがした。三和土で揺れていた霧が戸口の外へと逃げ出す。
電気を点けて、神棚の壁に掛る自分の名札をひっくり返す。奥の弓掛けに置かれた弓袋から弓を出し、弦を張る。玄関の鍵掛けから男子部室の鍵を取り、カバンを持って外に出た。もし、霧で的が見えなかったとしても、素引きだけはしよう。
部室で弓道着に着替え、弓道場に戻る。雨戸を開けて、後悔した。
一面、真っ白だった。
「的以前に、垜小屋が見えないとは……」
射位から二十八メートル先にあるはずの垜小屋は、すっぽりと霧に飲み込まれていた。残念ながら欠片も見えない。
視界は何メートルあるのか。
恐る恐る、霧の中に右手を伸ばしてみる。ゆらゆらと霧が揺れ、一応は指先まで見えた。が、慌てて引っ込める。霧が腕へ絡みついてきた。
何か、変だ。
視界が閉ざされている不安は勿論あるが、それ以外で。
何かが違う。勘だ。この霧は単なる珍しい自然現象ではない気がする。
壁に掛けられた時計を見た。榊先輩が来るまで、あと十分ぐらい。
いつもだったら、その時間で垜の準備するのだが、今日は無理だ。もしかしたら、その内に霧が晴れるかもしれない。そうしたら、的を出せばいい。希望的観測。
今、弓道場の外に出れば遭難する確信がある。
うっかり〈紫苑の森〉に迷い込んでしまったら、それこそ悲惨だ。普通ならほぼグラウンドと同じ広さの風通しが良い森なのだが、〈向こう〉に迷い込んだら何が起こるかわからない。
時計の針を見る。間を置いていないせいで、僅かしか長針は進んでいない。
それでも、霧が動く気配がした。
石の階段を踏む軽やかな足音。期待を込めて玄関を振り返る。待ち人来る。
「おはよう、鳴海。変な霧だな」
「おはようございます。やっぱり、榊先輩もそう思いますか」
いつもより早く来てくれて良かった。色も音も匂いもしない霧の中にひとりでいるのは、さすがに怖い。
カバンを玄関に置き、榊先輩が弓道場に上がる。ぺこりと神棚に一礼をして、壁に掛った名札をひっくり返した。自分の弓に弦を張って、具合を確かめるように三回弾く。
「的はどうします?」
がたがたと雨戸を開けながら榊先輩に聞いてみた。雨戸を一枚ずつ戸袋へ仕舞う度に、真っ白になった矢道が見える。
「霧の中で射るのも楽しそうだが……出すのはやめておこう。何に中るか、わかったもんじゃない」
「どこに中るか、じゃないんですね」
さらっと怖いことを言う。
普通なら、狙いが外れて垜小屋の壁や柱に中ることを心配する。
「矢道の境がわからなくなるほどの霧だぞ。もし、どこかに繋がっていたとしたら。何がいてもおかしくない」
「そんなことが、あるんですか?」
「さぁねぇ」
榊先輩は肩をすくめると、女子部室の鍵を手に取った。
ちりんちりん、と鍵に付けられた鈴が鳴る。
「見事に何も見えないな」
弓道着の上に黒いジャージを羽織った榊先輩が、弓道場の縁に立っている。雨戸をすべて開け放っても、見えるのは一面の霧。まるで和紙を貼り付けたみたいだ。
冬の朝だが、今日は霧のせいで寒さはそれほど厳しくない。むしろ、肌にじっとりと纏わり付く感じが嫌だ。動かないでいると、霧が身の内にまで沁みてきそうで、俺はずっとストレッチをしている。
霧は弓道場の外でゆらゆらと揺れている。
榊先輩が壁の棚の下から黄色い缶を取り出した。かつては土産のサブレーが詰まっていたが、今では不可思議なものが雑多に詰め込まれている。簡単に言えば混沌。
「どこへ仕舞ったかな……」
蓋を開け、中に手を突っ込んでごそごそとやっていたが、お目当てのものが見付からないらしい。榊先輩は一度蓋を閉めると、ぽんっと黄色い缶を叩いた。再び蓋を開ける。
「お。あった、あった」
榊先輩が取り出したのは、古びた団扇だった。
「何ですか、それ」
「団扇」
それは見ればわかる。何を思ったか、榊先輩は道場の縁に立つと団扇で霧を扇ぎ始めた。
「いや、さすがにそれは無理でしょう」
団扇で霧を晴らす気か。
霧は大きく揺れたが、消えるまでには至らなかった。
「うーん……」
扇ぐのをやめ、榊先輩は団扇を持ったまま腕組みをする。ちらっと柱に掛った時計へ視線を走らせ、もう一度唸った。
「鳴海」
「はい」
「これは、やばいかもしれん」
血の気が引いた。
ーー霧(中)へ続く。




