第五話 常連客
「ふぉふぉふぉ、今年もまた来てしまったよ。」
そう言ってタクシーから一人の老人が降りてきた。
五代目当主の良彦、女将、中居が玄関先で出迎える。
「まあまあ佐藤様、今年もお越しいただきありがとうございます。」
女将がそう言うと、皆が一堂に頭を下げた。
「またしばらくお世話になりますよ。よろしくね。」
佐藤老人はいつも明るく朗らかだ。昔からこの宝玉館に泊まりに来ているが、その人柄はずっと変わらない。
「ではこちらが本日のお部屋のキーになります。どうぞごゆっくりお過ごしください。」
フロントの従業員が丁寧にお辞儀をする。
「今年も皆さんに会えて嬉しいねえ。」
佐藤老人の朗らかさは皆をホッとさせる。この宝玉館の人間は皆佐藤老人のことを好ましく思っている。
「では、お部屋へご案内いたします。」
そう言って女将が部屋へと案内する。
「こちら段差があります。足元お気を付け下さいまし。」
「ふぉふぉふぉ、よく知ってますよ。何てったって慣れてますから。」
つられて女将も笑う。女将と佐藤老人の笑い声が廊下に流れ、宿の空気が柔らかくなったようだ。
「本日は百合の間になります。さあ、どうぞ。」
「今年は百合の間ね。これで百合の間は何回目かな。8回くらいかな。」
この老人、宝玉館に始めてきたのが20代の頃。もう60年近くこの宿に通う常連客だ。
女将がお茶を入れる。
「佐藤様、お茶が入りました。熱いのでお気を付けください。温泉饅頭もよかったらどうぞ。」
女将は嫁いだ時から佐藤老人に毎年会っている。いつ会っても変わらない穏やかさ朗らかさ、一年ぶりに会うと佐藤老人には懐かしささえ感じる。特別なお客様だ。
「おー、ありがとう。またここの饅頭が食べられるな。この間はどうしてもここの饅頭が食べたくなって送ってもらったんだよ。最近は買いに来なくたって電話一本で送ってもらえるんだから、便利になったもんだ。」
そう言って佐藤老人はお茶をすすった。
「この度も1週間お泊りいただけるようで、ありがとうございます。」
「ここに来るのが楽しみで生きているようなもんです。せっかく来たからには宝玉館を満喫していかないとなりませんから。ところで、」
佐藤老人はやや声をひそめた。
「宝玉も変わりなく、ですか?」
つられて女将も声をひそめる。
「この間主人が何やらドタバタやっていましたが、変わりないようですよ。今年も佐藤様がいらして下さって、きっと喜んでいますよ。」
そう言って女将はふふふと笑った。
ではごゆっくり、と言って女将は部屋を出て行った。
荷ほどきが済み、佐藤老人は温泉へと向かった。
汗を流し、外の露天風呂へとドアを開ける。いつもと変わらず、ごつごつした岩風呂に乳白色の湯がこんこんと湧いている。少し熱めのお湯にゆっくりと足から入り肩までつかると、
「あーっ、」
と思わず声が漏れる。今年もこの宝玉館に来られて、この露天風呂に入れて幸せだな、としみじみ思う。佐藤老人は今年八十三歳になる。いよいよ平均寿命の年になり、この宿にも後何回来れることかと考える。
佐藤老人が初めてこの宝玉館に来たのは、まだ二十代の働き始めた頃のことだ。働いて給料をもらい、自分の稼いだ金で旅行をしようと思い立った。一人で静かな宿に泊まりたいと思い、この宝玉館を見つけた。
あの時もこの露天風呂に入っていた。ふと気が付くと露天風呂の奥の方におかっぱ頭の子供が二人いる。幼稚園かそこらの年齢だろう。こんな子供だけで大丈夫なのか、親はいないのかと辺りを見回したが、それらしき大人はいない。佐藤は子供に近づき声をかけた。
「君たち、お父さんかお母さんはいないの?」
子どもたちは振り向くと佐藤の顔を見てにっと笑い、佐藤にお湯をかけてきた。
思いがけず顔にお湯をかけられ、佐藤は少し楽しくなり応戦して子供たちにお湯をかけ返した。そこからお湯掛合戦が始まった。幸い他に客はいない。
子どもたちはきゃっきゃと声をあげて喜んでいる。まだ若い佐藤も童心に帰ったようで楽しかった。
しばらくすると、他の客が温泉に入ってくる音が聞こえた。すると不思議なことに、フッと二人の子供は姿が見えなくなった。佐藤は二人がおぼれたのかと慌ててお湯の中を確認したが、どこにも姿がない。お湯の中を手で探っていると何やら丸いものが二つ手に触った。拾い上げてみると、それはピンポン玉くらいの大きさでピンクと水色の玉だった。
誰かが温泉に落としてしまったのかと思い、佐藤はそれをフロントに持って行った。
「露天風呂で、こんなものを見つけたのですが。」
そう言って佐藤は二つの玉を差し出した。ちょうど通りかかった女将が玉に気が付き、小走りでフロントにやって来た。
「お客様、どこでこれを?」
女将はだいぶ動揺している。
「実は露天風呂で、おかっぱ頭の双子のような子供を見かけたんですが、急にいなくなって、その後お湯の中でこの玉を見つけたんです。おかっぱ頭の子供が二人、今日泊まっていますか?」
「本日はお子様のお泊りはありませんね。」
宿帳を見ながらフロントの従業員が答える。
「確かに見たんだけどな。」
お湯の掛け合いをしたんだから間違いないのだが、自分は夢でも見ていたんだろうかと考えていると、
「お客様、この玉を見つけて下さりありがとうございました。大事な物なんでございます。何とお礼を言っていいか。本当にありがとうございます。」
そう言って女将は何度も頭を下げ、大事に玉を持って控室へと去って行った。
その後、佐藤はもう一度気持ちよく温泉に浸かり、美味しい夕食をお腹いっぱい食べ、部屋に戻るとふかふかの布団に寝転んだ。気持ちよくうとうとした時、どこからともなく子供の歌声が聞こえてきた。
「かごめかごめ、かごのなかのとりは~」
佐藤が思わず口ずさむ、
「いついつでやる~」
子どもがまた続きを歌う。
「うしろのしょうめんだーれ」
最後は合唱となった。
くすくす、くすくすと子供の笑い声が聞こえる。声は明るくかわいらしく、佐藤は怖がるどころかまた楽しいと思った。今度は佐藤が歌い始めた。
「かごめかごめ、かごのなかのとりは」
「いついつでやる~」
佐藤に合わせて子供も歌う。
「うしろのしょうめんだーれ」
最後に合唱すると、二人の子供はまたくすくすと嬉しそうに笑った。
佐藤は楽しい気分のまま眠ってしまった。
気が付くと外は既に明るくなっていた。佐藤は昨夜のことを思い出していた。昨日は不思議で楽しい思いをしたな。あれは露天風呂で見た二人の子供が歌っていたんだろう。旅の良い思い出になったと佐藤は思った。
プルルル、プルルルと電話が鳴った。
「おはようございます。朝食の用意が整いましたので、食事処までお越しください。」
「伺います。」
佐藤は身支度を整えて、部屋を出た。
食事処では既に数組の客が食事をしている。
焼き魚が焼けた香ばしい香り、ご飯の炊きあがった甘い香り、みそ汁のふくよかな香りがただよい食欲をそそる。
「おはようございます。佐藤様のお席はこちらになります。」
女将が愛想良く席に案内する。
「よくお休みになられましたか。」
にこやかに女将が聞く。
「おかげさまで、朝まで熟睡でした。」
寝ぐせを気にしながら佐藤が答える。
「それはようございました。ではご飯とお味噌汁をお持ち致します。」
そう言って女将は調理場へと去って行った。
「お待たせいたしました。」
女将がご飯とみそ汁、焼き魚を運んできた。
「ご飯とお味噌汁はおかわりがございますので、どうぞたくさんお召し上がりください。」
そう言うと女将はにこやかに一礼して調理場に戻って行った。
食事が終わると、女将が新しいお茶を運んできた。
「佐藤様、熱いお茶をお入れしました。」
そう言って、佐藤の前にお茶を置いた。他の客は皆食事を済ませ部屋に戻ったようで、食事処には佐藤しかいない。
女将は少し顔を近づけると小声で、
「昨夜は何もございませんでしたか。」
と聞いた。なぜそんなことを聞くのだろうと、佐藤は思わず顔を上げ女将の顔を見た。
女将は何事もないように微笑んでいる。昨夜と言えば、子供の歌声と合唱したくらいだが、もしかして女将はこのことを言っているんだろうか。
「もしかして、子供の歌声のことですか。」
佐藤は思い切って言ってみた。
女将は、まあという顔をして、
「歌が聞こえましたか。」
そう言って頷いた。
「お客様は、大丈夫でしたか。」
女将は佐藤が怖がらなかったか少し心配しているようだ。
「楽しかったです。」
思わず言ってしまってから、変な客と思われたかと佐藤がドギマギしていると、
「それは、ようございました。こんなことを言ってはあれですが、お客様はどうやら気に入られたようでございます。何も悪いことはございませんからご安心ください。」
そう言って何度も頷いた。
本当は、あれは幽霊だったのか何だったのかといろいろ聞きたかったが、何だかそれ以上聞いてはいけないような気がして、話はそこで終わってしまった。
ただ、佐藤にとって初めての宝玉館は不思議で楽しくて、何とも居心地の良い思い出となり、その後も毎年のようにこの旅館を訪れている。
いつも朗らかな佐藤老人は、その人柄故人生の苦労を感じさせないが、世の中に苦労のない人などいない。
佐藤老人にも幾多の困難はあった。あれはちょうど三十代になったばかりの頃、念願かなって入社した大企業で仕事に邁進し出世コースをひた走っていた。しかし努力が必ず報われるわけでもなく、佐藤はコースから脱落し地方都市にある子会社へと移動することになった。子会社と言っても社員が一万人以上いるような大きな会社だが、佐藤にとっては思ってもみない大きな挫折であった。気を取り直し、当時付き合っていた彼女に、これを機に一緒に移動先についてきてほしいと結婚を申し込んだところ、地方には行けないとあっけなく振られてしまった。踏んだり蹴ったりとはこのことだ。佐藤の心は粉々に砕け散り、あんなにキラキラしていた自分の未来が真っ暗闇になってしまった。自分の人生はもう終わりだと毎日鬱々と過ごした。そんな時、ふと宝玉館のことを思い出した。そして気分転換に宝玉館に行って温泉にでも浸かってみようと、そんな気持ちになった。
「まあまあ、佐藤様、今年もようこそおいで下さいました。」
女将の変わりない笑顔を見て、佐藤はほっとして涙がでそうだった。
「またお世話になります。」
佐藤はそう言って頭を下げた。佐藤にいつもの明るさが見られないことに女将や従業員はすぐに気が付いたが、皆はそっと見守ることにした。
チェックイン後ひとっぷろ浴びた佐藤は、玄関奥にあるラウンジで外の景色を眺めながらコーヒーを飲んでいた。すると客が到着し女将が出迎えているようで、話し声が聞こえてきた。
「まあまあ、今年もいらしていただいてありがとうございます。新天地はいかがですか。」
なじみの客らしく女将が近況を聞いている。
「いや、思ったよりも良い所で良かったです。地方なんて最初はどうなるかと不安でしたが、何よりごみごみしていないのが良い。ちょっと車を走らせれば自然も豊かで、かえって移動になって良かったと思うくらいですよ。」
客はそう言って嬉しそうに笑っている。声の感じから自分と同じくらいだなと佐藤は思った。
「それは何よりでございます。ようございました。」
客が機嫌よく女将も嬉しそうだ。
「食べ物も美味しくてね。移動前にここで散々愚痴を言って皆さんに心配をかけてしまって。行ってみたら実は良い所だったとわかって早く報告したくてね。」
盗み聞きをしていた佐藤は、何だか自分の状況と似ているなと思い後ろを振り返った。するとそこには誰もいない。ずいぶん歩くのが早いんだな、もういない。さっきの客とは後で食事処で会うかもしれないなと思った。
日も沈み、佐藤は食事処にやって来た。
「佐藤様のお席はこちらになります。」
そう言って女将が案内する。佐藤は先ほどの客がいないかと辺りを見渡すが、自分と同じくらいの一人客は見当たらない。食事処にいるのは夫婦や家族連ればかりだ。
「お飲み物はいかがいたしましょう。」
「まずはビールをお願いします。」
承知しました、と女将は調理場に去って行く。
「お待たせいたしました。ビールをお持ちしました。お注ぎ致します。」
そう言って女将がとくとくとコップにビールを注ぐ。
「お料理の説明をさせていただきます。こちら八寸になります。若鮎の一夜干し、茗荷と胡瓜の酢の物、湯葉の山椒煮、空豆の塩蒸し、蛸の柔らか煮、新じゃがの味噌田楽、鰯の梅煮です。」
「うまそうだな。」
思わず声が出る。それを聞いて女将が嬉しそうに笑っている。
「まだまだお料理がでますから、たくさん召し上がってくださいまし。」
そう言って女将は調理場へ消えて行った。
蛸を一口食べてはビールを飲み、空豆を食べてはまたビールを飲み、嫌なこともいろいろあるけど、今は幸せだなと佐藤は気持ちを切り替えている。
すると後ろから他の客と中居の話が聞こえてきた。
「まあ、ご結婚が決まったんですか。それはおめでとうございます。」
常連の客なのか、中居の声はことのほか嬉しそうだ。
「まさか、こんなにスムーズに進むとは思わなかったんだけど。」
客は照れながらも嬉しそうに中居と話し込んでいる。
「移動先で知り合ったんですよね。」
「ええ。新しい職場の同僚で、思いのほか話が合う人がいて。気が合うなと思っていたらトントン拍子に話が進んで。」
その客がにやけている様子が目に浮かぶ。これは先ほどの客かなと思い、佐藤はゆっくり後ろを振り返ってみた。ところが驚いたことに、そこには誰もいなかったのである。客も中居も、誰も後ろにはいなかった。佐藤は驚いて辺りを見回したが、それらしい客は他にいない。しかし、さっき聞いた会話は佐藤の空耳などではなくはっきり聞こえたのだ。これはどういうことだろう。ちょうどそこへ女将が料理を運んできた。
「お待たせいたしました。こちらお造りになります。この近くで捕れました岩魚、それから本鮪、烏賊の細造りでございます。」
女将がにこやかに料理の説明をする。
佐藤は一瞬ためらったが、
「あの、さっき後ろで話し声が聞こえたのに振り向いたら誰もいなかったんです。」
困惑を押さえきれず、佐藤は女将に話した。
「そうでございましたか。」
女将は驚く様子もなく続けた。
「ここ宝玉館にはいろいろと不思議がございます。佐藤様もご存じですね。起こる不思議には必ず意味があります。きっと佐藤様に何かを知らせるための不思議でございましょう。」
優しくそう言うと、また調理場に戻って行った。
不思議には意味があると言われ、佐藤は合点がいった。ラウンジで聞いた話も、今この食事処で聞いた話も、佐藤の現在の状況に似通っている。これは佐藤の未来の話なのではないか。地方都市への転勤で気をもんでいるが、行ってみたら思いのほか良い所だった。そしてその移動先で出会いがあり結婚した。さっきから聞こえていたのは、ちょっと未来の佐藤が話している
、その場面だったのではないか。
そういうことかとわかったら、はあーと大きなため息が漏れた。同時に胸がジーンと熱くなった。自分は思い描いた未来にこだわるあまり、そうでない未来を否定して自分で大きな苦しみを作り出し不安に苛まれていたのだ。想定外の地方都市への移動を未来の佐藤はむしろ良かったと言っていた。しかも結婚相手まで見つけられたようだ。“人生万事塞翁が馬”ということわざを、佐藤は今頭、心、体全てで理解できたと思った。
食事が終わり、佐藤は露天風呂に入ることにした。時計を見ると既に十時を回っており、露天風呂に他の客はなく貸し切り状態だ。
「ふー、」
肩までお湯につかると思わず声が漏れた。
今回この宿に来てからの不思議な出来事と女将の話を聞いて、佐藤の気持ちはもう十分回復していた。今回もこの宿に来て良かったなと星空を眺めていると、また後ろから声が聞こえてきた。
「お父さん、お星さまはどうしてあんなに光っているの?」
まだたどたどしい言葉の子供である。
「お星さまはな、宇宙の遠い遠い所で燃えているんだよ。それがここからは光って見えるんだ。」
よく聞けば、お父さんの声に聞き覚えがある。
「燃えているの。じゃあ熱いね。」
そうだね、と父親は嬉しそうに笑っている。
ぽちゃんとお湯の跳ねる音がした。
「おっ、やるか。」
そう言ってお湯の掛け合いが始まったようだ。親子の幸せな笑い声が辺りに響く。それを聞きながら佐藤は胸がいっぱいになり涙が頬を伝った。自分にはこれからこんなに幸せな未来がやってくるんだ。ならばこの先起こることにふてくされたり不安になったりすることなく、楽しみに待つことにしようと思えた。
翌日の朝、フロントには佐藤と女将の姿があった。
「佐藤様、昨夜はゆっくりお休みいただけましたか。」
女将は佐藤がいつもの明るい人柄に戻ったことに気が付いている。
「おかげさまで久しぶりに良く眠れました。やっぱり宝玉館は良いですね。今回もここに来て正解でした。」
そう言って佐藤は晴れ晴れとした顔で微笑んだ。
「そう言っていただけて何よりでございます。」
付きものが取れたような佐藤の顔を見て女将もホッとしている。
「実は会社から移動の辞令が出たんです。それでちょっと落ち込んでいたんですが、宝玉館に慰められました。来年は新天地の様子を報告しに、またこちらに来させてもらいます。」
そう言って佐藤は深々と頭を下げた。
「そうでしたか。私たちスタッフもこの宝玉館もいつも佐藤様を応援しております。是非また来年その後のお話をお聞かせください。皆楽しみにお待ちしております。」
女将はにこやかにそう言って佐藤を見送った。
「お父さん、いっつも一人で行っちゃってずるい。」
そう言って頬をふくらませているのは次男の実だ。
佐藤は毎年宝玉館を訪れているが、結婚後もこれだけは続けさせてくれと年に一度だけ一人で宝玉館に泊まっている。それに子供が喰いついてきた訳だ。
子どもにまで言われてしまっては仕方がない。今年は初めて家族で宝玉館に行くことになった。
「まあまあ、佐藤様。この度はご家族でお越しいただいてありがとうございます。」
女将と中居がにこやかに出迎える。
初めて家族を連れてきた佐藤はすこし照れくさそうだ。
「今年もお世話になります。子供連れなんで、ご迷惑をかけないか心配なんですが宜しくお願いします。あ、こちら妻の聡子です。」
「主人がいつもお世話になっております。」
そう言って聡子が頭を下げる。清楚で穏やかそうな聡子は人当たりも良く、佐藤とお似合いの夫婦だ。子供たちも人なつこく、あっという間にスタッフの人気者になった。
「では佐藤様、お部屋に案内いたします。」
女将が佐藤一家を部屋に案内する。
「本日はこちらの桔梗の間になります。」
女将が部屋に入り、お茶の用意をする。
「お茶が入りました。熱いのでお気を付け下さい。宝玉館特製の温泉饅頭もお召し上がりくださいまし。砂糖が少なめなので、お子様にも好評なんですよ。」
女将は子供たちに微笑みかけた。
「いつもお土産で買ってきてくれるお饅頭ね。甘さ控えめで美味しいですよね。それに不思議なんですけど、これを食べると何て言うか落ち着くんですよ。甘いものを食べるとそういうものなんですかね。他のお饅頭ではそんなこともないんだけど。」
聡子が核心をついたことを言う。
「この饅頭は温川温泉のお湯を材料に使っているんですよ。ここのお湯はいろいろと効能がありまして、心にも効果があるのかもしれませんね。」
女将は意味ありげにそう言うと、部屋を出て行った。
「じゃあ、まずは温泉に入ろうか。豊と実はお父さんと一緒の男風呂だ。」
子どもたちは大きなお風呂に入れるとはしゃいでいる。
「お風呂大きい?」
長男の豊が目をキラキラさせながら聞く。
「ああ、大きいぞ。たくさんの人が入れるように出来ているからな。」
「わー、じゃあプールみたいに泳げるね。」
次男の実も嬉しそうに歓声を上げている。
「お風呂はプールじゃないから、泳がないよ。他の人に迷惑をかけないようにな。」
わーい、わーいと喜ぶ子供たち。そんな注意は子供達の耳には届いていないようだ。
佐藤は子供たちを連れて露天風呂に入った。
「下が滑るからな、ゆっくり気を付けて歩くんだぞ。豊、一人で入れるか。実はお父さんが入れてやるから待ってろ。」
ちょうど他の客もいない。子供たちは初めて入る乳白色のお湯にキャッキャと喜んでいる。佐藤が子供たちを見守りながら、ふと湯けむりの向こうに目をやると、そこにはおかっぱ頭の子供が二人いた。
「あっ、」
思わず声が出た。佐藤の声を聞いて子供たちも他の子供の存在に気が付いた。豊と実は躊躇することなくおかっぱ頭の子供に近づいて行った。
「ねーねー、どこから来たの。」
豊が尋ねると、おかっぱ頭の子供はニッと笑って豊かにピチャっとお湯をかけた。
「やったな。」
そう言って、豊はお湯をかけ返した。それを見ていた実も一緒になってお湯の掛け合いが始まった。あの時と同じだ。佐藤は初めてこの宝玉館に来た時のことを思い出した。
子どもたちはしばらくの間楽しくお湯の掛け合いをしていたが、他の客がガラッと扉を開け風呂に入ってくる音が聞こえると、フッとおかっぱ頭の子供たちは消えてしまった。
「豊、実、もう終わり終わり。」
そう言って佐藤は子供たちのところに近づいた。
「あれ、さっきの子は。」
そう言って豊と実は辺りをきょろきょろと探している。佐藤は慌ててお湯の中を手で探った。すると、やはり手に当たるものがある。拾い上げてみるとそれはピンポン玉くらいの大きさのピンクと水色の玉だった。
「お父さん、それ何?」
豊は父親が急に玉を手にしているのを見て不思議に思い聞いてきた。
「これは、この宿の大事な物なんだ。女将さんに渡さないといけないから、そろそろ出よう。」
そう言って佐藤は玉を慎重に持つと子供たちと風呂を出た。
フロントに行くと女将の姿があった。
「女将さん、これ。」
そう言って、佐藤は大事に運んできた二つの玉を女将に手渡した。
「まあ、どこでこれを。」
急に二つの玉を渡され女将は驚いている。佐藤は露天風呂での話を女将に聞かせた。
「そんなことがあったんでございますか。まあ、佐藤様ありがとうございました。玉に何事もなくようございました。お子様たちも宝玉に好かれたのでございますね。」
そう言って女将は微笑んだ。
「そのようですね。光栄なことです。」
佐藤も微笑んだ。
美味しい夕食をいただき、もう一度風呂に入ると子供たちはもうくたくたになったようだ。部屋にはふかふかの布団が敷かれ、家族は川の字に横になった。
「夕飯も美味しかったし、温泉のお湯も本当に良かったわ。日頃の溜まっていた疲れが全部無くなってしまったみたいよ。体が軽く感じるもの。」
聡子は上機嫌だ。
「あなた、こんな素敵な宿に毎年一人で来ていたのね。来年からは毎年家族で来ましょうね…。」
聡子は睡魔に襲われたのか、最後の方は聞き取れなかった。実はもうすやすやと寝息を立てている。その時、
「かごめかごめ、かごのなかのとりは~、」
どこからともなく歌声が聞こえてきた。
「いついつでやる、」
まだ起きていた豊が続けた。
「よあけのばんに~」
子どもの声が続ける。
「うしろのしょうめん、だ~れ」
途中から実も目が覚めて、最後は子供たち皆で合唱となった。
歌い終わると、ふふふふと柔らかな笑い声が部屋に響いた。
「かごめかごめ、かごのなかのとりは~」
今度は豊が歌い出した。
「いついつでやる、」
子どもの声が続ける。
「よあけのばんに~」
「うしろのしょうめん、だ~れ」
最後は佐藤と聡子も加わって、大合唱となった。
またどこからともなく、ふふふふと柔らかな笑い声が響く。
合唱は何度も続き、佐藤の家族は皆夢見心地で眠りに就いた。
気が付くと外は既に明るくなっており、中居や従業員の忙しそうな足音がかすかに廊下から聞こえてくる。
プルルル、プルルルと部屋の電話が鳴った。
「おはようございます。朝食の準備が整いましたので食事処までおいで下さい。」
食事処に着くと、焼き魚の香ばしい香りや卵焼きの甘い香りが漂っている。
「おはようございます。佐藤様のお席はこちらになります。」
女将が席に案内する。
「只今お味噌汁と焼き魚をお持ち致します。掛けてお待ちくださいまし。」
そう言って足早に女将は調理場へと入って行った。
「お待たせいたしました。朝食は鮎の塩焼き、冬瓜と海老の冷やし煮、茄子の揚げ浸し、料理長特製だし巻き卵、胡瓜と若布の酢の物、茗荷と豆腐の味噌汁に胡瓜と茄子の浅漬け、お米は地元のコシヒカリでございます。ご飯とお味噌汁はおかわりがございますので、たくさんお召し上がりください。」
女将は一礼すると、また調理場へ戻って行った。
普段魚料理を嫌がる子供たちも、新鮮で焼き立ての鮎をむしゃむしゃ食べている。
「あ母さん、僕卵焼きもっと食べたい。」
豊が催促する。
「豊がこんなに食べるなんて珍しいわね。お母さんの卵焼きをどうぞ。」
そう言って聡子が豊の皿に自分の卵焼きを移している。
「実も卵焼き食べるか。お父さんのをやるぞ。」
佐藤は自分の卵焼きを実の皿に移した。
佐藤は今回家族をこの宝玉館に連れてきて良かったなと思い返していた。この食事一つとっても佐藤にとっては大切な人生の一コマだ。この他愛もないやり取りは当たり前ではない。今は子育てと仕事をしてこの家族を養っていくことに必死だが、いずれは子供たちも自立していき仕事も終わりを迎える時が来る。その頃自分が歩んできた道を振り返ったら、この旅行はキラキラとまぶしいくらいに輝いているんだろう。こんな思い出を作れてありがたいと胸が温かくなった。
「熱いお茶をお持ちしました。」
女将が頃合いを見計らって代えのお茶を運んできた。
「どれもこれも美味しいお料理ばかりで、子供たちがこんなに喜んでご飯を食べるのも初めてです。」
聡子がそう言うと、女将はそれはようございましたと喜んだ。
「昨日ね、かごめかごめ歌ったんだよ。」
実が急に言い出した。
「そうだよ、合唱したんだよ。楽しかった。」
佐藤と聡子は苦笑いしている。
女将は察したようだ。
「それは楽しくて良かったですね。この宝玉館でかごめかごめが歌るのはラッキーなんでございますよ。」
そう言って、ふふふと笑った。
佐藤一家は宝玉館での一日を満喫し、また来年来ますと言って帰って行った。その後数年間子供たちが大きくなるまで佐藤家の宝玉館への旅行は続けられた。
「佐藤様のお席はこちらになります。」
夕食の時間となり、女将が佐藤を席に案内する。いつものように食事処には焼き魚や料理の美味しそうな香りが漂っている。
「佐藤様、お飲み物はいかがなさいましょう。」
「飲み物はウーロン茶をいただこう。最近ではめっきり酒も弱くなってね。」
そう言って佐藤老人はふぉふぉふぉと笑った。
女将が冷えたウーロン茶を運んできた。グラスはうっすらと結露している。
「今日も美味そうなもんばかりですな。ここは風呂も良いが、飯もいつも最高だ。」
佐藤老人は嬉しそうにウーロン茶を一口飲んだ。
「そう言っていただけて、スタッフ一同何より嬉しいお言葉でございます。」
女将が丁寧に頭を下げる。
「しかし、よく考えたら風呂と食事だけではありませんな。」
そう言って佐藤老人は女将の顔を見た。
「何でございましょう。」
女将は見当がつかず尋ねる。
「それは、この宿そのものとスタッフの皆さんですな。」
そう言ってふぉふぉふぉと佐藤老人は嬉しそうに笑った。
「いつ来ても変わりなく優しく迎え入れてくれるこの宿とスタッフの皆さん。この宝玉館を造っているのは当主や女将さんをはじめ中居さんや従業員の方々だ。宿を綺麗に整え気持ち良く客を迎え入れてくれる。その綺麗はスタッフの手間や気遣いで保たれている。料理が美味しいのは素材は素より、そこに美味しく食べてほしいと思う人の手間暇がかけられているからだ。その手間暇に食べる側は作り手の愛情を感じ、舌だけでなく心で料理を美味しいと感じるのでしょう。」
佐藤老人は遠くを見つめながら続けた。
「この宝玉館は私にとって、私の人生の一部。ここに来た時の記憶をたどれば私の人生の流れが見えてきますのじゃ。この宿に楽しませてもらい、慰めてもらい、癒してもらい。まあ、こんな良い宿に出会えた私は幸せ者ですな。」
そう言って笑う佐藤老人からはいつもの朗らかさに加え、一抹の寂しさが感じられた。
「佐藤様、」
女将は佐藤老人との数々の思い出がよみがえり、目頭が熱くなった。
「お客様あっての宿でございます。宿とスタッフ、そこにお客様がいらして下さって初めて宿が、宝玉館が出来上がるのでございます。佐藤様にとってこの宝玉館が人生の一部であるならば、この宝玉館にとっても佐藤様は大切な一員でございます。」
人の命には限りがあり、必ず終わりの時がやって来る。しかし人の寿命が尽きた後も、この宝玉館をかたち造ってきた女将や佐藤老人の思い出やその時の気持ちは宝玉館の一部となり、この宝玉館と共にあり続けるのだ。
にっこりした女将の目から涙が一粒こぼれ落ちた。女将と佐藤老人はお互いの人生を振り返り、切なく濃厚な余韻に浸った。
佐藤老人を見送るために、当主の良彦、女将、宝玉館のスタッフが玄関先に立っている。
「今年もずいぶんとお世話になりましたね。また来年来ますよ。」
そう言って佐藤老人はふぉふぉふぉと笑った。
「佐藤様、またのお越しをスタッフ一同お待ち申し上げております。」
女将が言い、皆が一斉に頭を下げた。
佐藤老人を乗せたタクシーが見えなくなるまで皆で見送った。
皆が宿に入って行ったが、女将はそこから立ち去れずにいた。もう佐藤老人に会えないような、今回が最後だったようなそんな予感がしたからだ。そして佐藤老人との会話を思い出していた。佐藤老人にとってこの宝玉館は人生の一部、この宝玉館にとっても佐藤老人は一部。しみじみとそんなことを考えていると、
「おーい、女将。俺の前掛けが見つからないんだけど、」
良彦の声が聞こえてきた。
「また、どこかに置きっぱなしにしたんでしょう。」
女将はそう言いながら、この人のこういう抜けたところに救われるわと思った。
今日も宝玉館はお客様を迎え入れる準備に取り掛かる。




