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第三話  やっかいな客

フロントから大きな怒声が聞こえてきた。

「いつまで待たせるんだよ。早くしてくれよ。」

チェックインをしているその男は、立ったまま激しく貧乏ゆすりをしている。


「お客様、お待たせして申し訳ありません。こちらがお部屋のキーになります。」

男は差し出されたキーを乱暴に奪い取り、吐き捨てるように言った。

「対応が遅いんだよ。こっちは疲れているのに、もたもたしやがって。」


様子を見ていた宝玉館の女将がすかさず近寄る。

「まあまあ、お客様、この度は宝玉館にお越し下さり、ありがとうございます。お部屋にご案内いたします。お部屋は“桔梗の間”になります。」

そう言うと、男の客を先導した。

「こちら段差になっておりますので、足元お気を付けくださいまし。」

男は相変わらずイライラした様子で、

「見ればわかるよ、いちいちうるさいね。」

と、嫌味を吐く。


「こちらが、“桔梗の間”でございます。」

女将は部屋に誘導し、手際よくお茶を用意した。

「お客様、お茶をいれました。熱いのでお気を付けください。こちらは宝玉館特製温泉饅頭です。どうぞお召し上がりくださいませ。」

「いい、いい。甘い物なんて食べないんだよ。もういいから、出ってってくれ。」

相変わらず、感じの悪い物言いである。

「かしこまりました。ではこれで失礼いたします。ご夕食は食事処になります。時間になりましたらお電話でお知らせいたします。」

女将は深く一礼し、部屋を後にした。


女将がフロントに戻ると、フロントの従業員と中居がひそひそと話をしていた。女将の姿を見かけると、

訴えるような目で話しかけてきた。

「女将さん、なんですかあの客。フロント対応は別に遅くありませんでしたよ。それなのに、あんなに怒って文句言って。」


フロントの従業員は眉間にしわを寄せて、くやしそうにそう言った。

「やっかいな客が来ちまったね。あの手の輩は、何にでも文句をつけるんだから。この後もまた難癖つけてくるに決まってるよ。」

中居も、苦虫をかみつぶしたような顔になっている。


そんな二人に対して、女将は全く動じていない様子で、

「まあ、大丈夫よ。心配することはないわ。」

涼しい顔でそう言いながら、控室へと去って行った。


日が落ちて、廊下に灯が灯り始めた。

プルルル、プルルル、と桔梗の間の電話が鳴った。

男の客、矢島良助は面倒そうに電話を取った。

「お客様、お食事の用意が整いましたので、食事処までおいでください。」

「はい、はい。」

返事まで横柄で感じが悪い。

食事処に矢島が現れた。従業員たちはまた何かクレームを言われるかと、ピリピリしている。

「矢島様のお席はこちらになります。」

中居が声をかけ誘導するが、返事もしない。


「何かお飲み物は召し上がりますか?」

「飲み物と言ったら、ビールに決まっているだろう。早くしてくれ。」

中居の顔も見ずにそう言い放った。

「かしこまりました。少々お待ちください。」


すぐに冷えたビールが運ばれてきた。運んできたのは先ほどの中居ではなく、女将である。

「お待たせいたしました。ビールでございます。お注ぎ致します。」

「いい、いい。自分でやるから。早くメシ、持ってきてくれよ。」

自分でビールをコップに注ぎながら、矢島はイライラした様子でそう言った。

「かしこまりました。ではお料理をお持ちします。」

矢島の忌々しい態度にも、女将は全く動じていない。むしろ鼻歌がでそうなほど朗らかな様子だ。


「お客様、こちらは八寸になります。山菜の白和え、ふきの味噌煮、桜鯛の…」

料理の説明をさえぎり、矢島が大きな声で言った。

「いい、いい。もういいから、次の料理を、さっさと出してくれ。」

「かしこまりました。では次のお料理もお持ち致します。」

女将は落ち着いた様子で、調理場に戻っていった。


「こちらは椀物になります。料理の説明は、よろしいですか?」

「いい、いい。食えればいいんだよ。次ももう持ってきて。」

どこまでも嫌味な態度の客である。調理場は慌ただしいが、その中でも中居や従業員が矢島の文句を言っている。

「本当に、嫌な客よね。どうしてあんなのが来ちゃったんだろう。」

「今すぐにでも、帰ってほしいわ。」


そんな中、女将だけ余裕があるのは不思議だ。

「女将さん、あんな客の対応していて、大丈夫ですか?」

「平気よ。ここは宝玉館ですから。」

意味深な言葉を残し、女将は出来上がった料理をまた運んで行った。


「こちらはデザートの“湯上り牛乳プリン”でございます。本日のお料理、以上になります。」

女将は丁寧に一礼した。


「どれもこれも、いまいちの料理だったな。料理長にそう言っといてくれ。」

「左様でございますか。それは失礼いたしました。ご満足いただけるよう、今後も精進いたします。」

矢島は捨て台詞を残し、部屋に戻っていった。



その晩のことである。矢島は枕元に気配を感じ目が覚めた。眠い目をこすりながら起き上がり、後ろを振り向いてみると、そこに立っていたのは一人娘の由子だった。

肩まで伸びた髪、細面でクルリとした目。8歳で亡くなった時の姿、

そのままだ。

矢島は、息が止まり、同時に心臓がドクドクと高鳴った。

「由子。」

そうつぶやくと、枕元にたった由子はこくりと頷いた。

「これは、夢なんだな。夢に由子が出てきてくれたんだな。」

矢島はひざまずいて由子に向き合い、そう言った。


「由子、夢でも由子に会えて、お父さん嬉しいよ。出てきてくれてありがとう。ありがとう。」

そう言いながら、矢島は胸がいっぱいになり涙があふれた。


しかし、よく見ると、由子はすこし寂しそうに見える。

「由子、何だか寂しそうに見えるけど、そうなのか?」

すると、由子はこくりと頷いた。

「何か困っているのか?困っているんだったら、何かお父さんに出来ることはあるか?

お父さん、由子のためなら何でも、何でもしてやる。」


8歳で病気のために他界してしまった娘。目に入れても痛くない程可愛がっていた一人娘。

由子が亡くなってから、矢島の世界は全てが狂ってしまった。

かわいい盛りの一人娘を亡くし、矢島も妻も心が病んでしまった。苦しいのは自分だけではないのに妻を思いやる心はなくなり、毎日が諍いになった。結局離婚して、もう20年になる。

矢島は世の中のすべてがどうでもよくなった。いつの時も世の中が腹立たしく、そのイライラを周りの人間にぶつけた。矢島の周りからは人がどんどん離れていった。

それでも、関わる人たちに矢島は自分のやるせない不満をぶつけ続けたのだ。


由子は首を横に振って言った。

「由子は、お父さんのことが心配で困ってる。」

「えっ。」

思いがけない答えに矢島は固まった。

「お父さんは、いつも優しいお父さんだった。でも今のお父さんは優しいお父さんじゃない。」


返す言葉がなかった。由子の言うとおりだ。

今や矢島は皆から嫌われるクレーマーだ。

「そうだな。お父さん、変わってしまったな。」

矢島はうなだれた。

今までとってきた他人へのひどい態度が走馬灯のように、頭に浮かんだ。


「由子、優しいお父さんが好き。」

由子は少し表情を和らげてそう言った。

「そうか。そうか、由子。」

娘にさとされ、懺悔と後悔の気持ちからまた涙がこみ上げてきた。一瞬手のひらに落ちる涙に視線を落とし、再び顔を上げると、もう由子はいなくなっていた。

「由子、由子、」

矢島の悲しい呼び声だけが、部屋に響く。


体中の水分が無くなるのではないかというほど、矢島は泣いた。涙を流したのは、娘が亡くなった20年前以来だった。涙が出る程に、娘がこの世からいなくなってしまったことへの悲しみ、8歳の子供が死ななくてはならなかった世の中への恨み、元気な子供を育てている人へのひがみ、そういったものが、どんどん体から流れ出ていった。そしていつの間にか泣きつかれて眠っていたようだ。


辺りが明るくなり、矢島は目が覚めた。昨夜泣きすぎたせいで、目がパンパンに腫れている。

そして、今まで鉛のようだった心が、すっかり軽くなっていることに気がついた。

胸の辺りがすっきり、スースーしている。こんな感覚は20年ぶりだ。


ああ、自分はずっと、由子が亡くなってしまったあの時から、大きな寂しさを一人で持ち続けていたんだなと気づいた。元妻や友人、自分の両親、自分を支えてくれる人はたくさんいたのに、その人たちに弱音や寂しさを聞いてもらって、辛さを分け合えたら、もっと違った20年だったのかもしれない。

そんな父親を心配して、昨夜は由子が来てくれたんだな。

そんなことを考えていると、部屋の電話が鳴った。


プルルル、プルルル。

「おはようございます。朝食の用意が出来ました。食事処までお越しください。」

「はい。わかりました。」

自然とそう答えた。そして、この宿に来てからの、従業員への態度を思い返し、申し訳ない気持ちで一杯になった。

食事処に行くのがバツ悪く感じたが、迷いはなかった。


「おはようございます。昨夜はよくお休みになられましたか。」

女将がにこやかに声をかけてきた。

「おはようございます。お陰様でゆっくり休めました。」

女将がその返答を聞いてニコニコしていると、矢島は襟元をただし

「昨日は、大変失礼な態度をとってしまい、申し訳ありませんでした。お詫びのしようもありません。」

そう言って、深々と頭を下げた。


「まあまあ、矢島様。頭を上げて下さい。どうぞお気になさらずに。」

女将は優しく返した。

「さあ、美味しい朝食を用意いたしました。矢島様はこちらのお席になります。どうぞどうぞ、おかけくださいまし。」

そういって、矢島を席に誘導した。


席にはすでに何品かの料理が用意されている。

女将が汁物やご飯、焼き魚などを運んできた。

「汁物はまだ熱いので、お気をつけ下さいまし。では料理の説明をさせていただきます。

焼き魚は山女魚の一夜干し、だし巻き卵は料理長特製でございます。温川の湧水で作った湯豆腐、小鉢はひじき煮、山菜の醤油漬け、なめことお豆腐のお味噌汁に、宝玉館のぬか漬け、お米は地元のササニシキでございます。」

「どれもこれも、うまそうだな。ご飯はお代わりできますか。」

「もちろんでございます。たくさん食べて下さいまし。」

女将は嬉しそうに口元をほころばせた。


出立の時刻になった。

フロントでも矢島は謝っている。

「こちらでも、昨日は失礼なことをいって、すみませんでした。」

深々と頭を下げている。

「とんでもございません。ぜひまた、宝玉館にいらしてください。」

従業員も気分よくお見送りが出来た。


「女将さん、あのお客様、別人みたいになりましたね。」

フロントの従業員が感心しながら言った。

「本当よね。昨日はとんだクレーマーが来ちまったと思ったら、すっかり良いお客さんになって。」

中居も驚いている。

「そういえば、女将さんは昨日から大丈夫って言ってましたよね。何か知ってたんですか?」

従業員が何かに気が付いたように言った。


女将は何も答えず、ただ笑っている。

「この宝玉館には、悪いお役様はいらっしゃらないことになっているのよ。」

「さあ、仕事、仕事」


そうして、今日も宝玉館は新たなお客様を迎える準備に取り掛かる。

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