第九話 食べたい?
9月11日の夜。
ストーブの天板で、作り置きの煮物を温めなおしていた。冷凍庫から出しておいた袋には、母の字に少し似た、家事代行のおばさんの字で「9/2 煮物」と書いてある。
壁の時計が21時を回ったとき、ローテーブルの上の小さな常夜灯が、ぽっと点いた。
天井の明かりも点く。一階の納戸のほうで、冷凍庫のモーターが唸りはじめた。
電気が、戻ってきた。
雪が降りだしてから、5日目の夜。
スマホを充電器につないで、Xを開く。
『電気来た』
『うちも復旧した。泣いてる』
『電力会社の人、ありがとう。本当にありがとう』
トレンドの一番上に、一つの投稿が上がっていた。
『この電気の代償は、忘れないでおきたい』
『とりあえず今夜は、凍えずに寝られる』
引用の数が、見ているあいだにも増えていく。
ラジオが、気象庁の発表を読みあげた。
「気象庁は先ほど、寒気は峠を越えたとの見方を示しました。ただし、厳しい寒さは当面続く見込みです。引き続き、屋外での活動は控えてください」
「また、自衛隊は主要道路の除雪を進めるとともに、孤立した地域へのヘリコプターによる物資の投下を始めています」
スマホを、膝の上に置いた。
置いたまま、持ちあげられない。
目の奥が熱い、と思ったときには、もう顔がぐしゃぐしゃになっていた。
声が出る。止めようとしても、喉が言うことを聞かない。
ストーブの上で、煮物の鍋がことことと鳴っていた。
泣きやんだのは、鍋の汁が煮詰まりかけたころだった。
火から鍋を下ろして、焦げつく手前の里芋を一つ、箸でつまむ。
あの二人を、許す気はない。それでも、明日もここで朝ごはんを食べる。
*
翌日、雪は、ひらひらと舞う程度になった。
台所のコンロは、つまみを何度ひねっても、かちかちと鳴るだけ。
ガスが、止まった。
ラジオは、まだ−70度と言っている。
オープンチャットにも、同じ報告が並んでいた。
『ガス止まりました』
『うちもです。カセットコンロのボンベ、あと1本』
『下水も凍ってます。トイレ、みなさんどうしてますか』
『袋のやつ、ドラッグストアでも雪の前に売り切れてたって』
私は返信を打ちかけて、消した。うちのやり方を書けば、うちに何があるかまで書くことになる。
地下室の井戸のポンプを押す。ハンドルを二度、三度。
冷たい水が、ちゃんと出てきた。
その水で顔を洗って、歯を磨く。洗面器の水を流しに空けると、排水口で渦を巻いたまま、いつまでも引いていかない。
排水管が、凍っている。
汚れた水をバケツに移して、二階まで運んだ。ベランダの下の、決めておいた場所へ捨てる。
戻る階段の途中で、バケツの取っ手が、手のひらに赤い線を残していた。
*
昼過ぎ、冷凍庫から肉を出した。下味をつけて、小分けにしておいたカルビとロース。
物置から七輪の箱を出して、ガムテープを剥がす。8月に入れたまま、一度も開けていなかった箱だ。
珪藻土の匂いがした。
壕の入口の集気フードの下に、七輪を置く。炭を熾して、フードのスイッチを入れると、排気管のファンが低く回りだした。
警報器のランプは、緑。フードの下の換気口から、外の冷気が細く吸いこまれてくるのを、手のひらで確かめた。
網に並べたカルビから、脂が炭に落ちる。じゅっと音が立って、煙はまっすぐフードに吸いこまれていく。
たれの小皿は、縁の青い模様が、少しだけずれて印刷されていた。
スマホで、新しいグループを作った。
メンバーは、あの人と、瑠璃と、私。グループ名の欄は、空けたまま。
網の上の肉を撮って、送る。
炭の赤と、脂の光る肉と、網の目だけ。壁も床も写らない近さで。
それから、音声メッセージを一つ。
「食べたい?」
送信して、焼けたカルビを一枚、たれにつけて口に入れた。
脂が、舌の上で溶ける。ご飯が欲しくなって、炊飯器の蓋を開けた。
既読が、二つ付いた。
*
3枚目の肉を裏返したとき、スマホが鳴った。瑠璃だった。
スピーカーにして、網の横に置く。
ストーブの前では、おこげが前足を思いきり伸ばして、お腹を火のほうへ向けていた。
「……小夜ちゃん」
声が、かすれていた。
「どういうつもり。あの写真、何」
「焼き肉だよ。上手に焼けてるでしょ」
「ふざけないで。ねえ、どこにいるの。どこの家にいるの。今から行くから」
「家だってば。それに、来られないでしょ。この雪じゃ」
「慎也、昨日から変なの。ずっと電卓見てて、話しかけても返事しないの。あの写真も、今、隣で見てる」
「そう」
「そうって……。あたしたち、もう3日、水しか飲んでないんだよ。小夜ちゃん、わかってる?」
「うん。わかってるよ」
息を吸う音。
それから、長いあいだ、何も聞こえなかった。
「……全部、知ってたの?」
網の上で、脂がはぜた。
私はトングで肉の端をつまんで、焼き色を確かめた。
「今日の焼き肉、特別においしいんだよね」
「小夜ちゃん、答えて。慎也とのこと、いつから」
「お肉、焦げちゃう」
「ねえ、答えてよ。答えてってば」
肉を一枚、ご飯の上に取った。
「冷めちゃうから、切るね」
通話を終える。
すぐに、音声メッセージが届いた。
一通、二通。少し間があいて、三通目。
一通目を再生した。
「……ごめん。慎也と、付き合ってた。小夜ちゃんの彼氏だってわかってて、ずっと。ごめん。ほんとに、ごめんなさい。お願い、返事して」
鼻をすする音で、メッセージは終わった。
「……小夜ちゃんのこと、ずっと、何も気づかない子だって思ってた。ごめん」
最後の一言だけ、録音の終わりぎりぎりに入っていた。
グループのほうに、あの人から一行だけ届いていた。
『ふざけんな』
それきり、あの人からは何も来ない。
二通目。
「小夜ちゃん、大学のときから一緒だったでしょ。お願い、あたしを助けて。寒いの。3日、何も食べてないの。お兄ちゃんのことも、小夜ちゃんにしか言えなかったじゃん。少しでいいから。ねえ、お願い」
二通目が終わると、壕の中に残ったのは、七輪のはぜる音だけ。
大学二年の冬、学食の隅で、瑠璃はお兄さんの話をしながら二時間泣きつづけた。閉店の放送が流れるまで、私は隣でポケットティッシュを一枚ずつ渡していた。
三通目の横には、まだ再生していない印の、小さな青い点。
肉が、焦げはじめている。
網から下ろして、私は三人のグループのほうに、音声を一つ吹きこんだ。
「二人は本気で愛し合ってるんでしょ。一緒に死ねるなら幸せじゃない」
送信の表示が出る。
既読が、二つ付いた。
冷凍庫から出しておいた海老を、網にのせる。殻の色が灰色から赤に変わったところで、一枚撮って、グループに送った。
ストーブの前で、おこげが寝返りを打つ。
もう、二人に聞きたいことはない。
青い点の付いた三通目を開かないまま、私はトーク画面を閉じて、海老の殻をむきはじめた。




