終話 秋刀魚を焼く
9月13日、雪が止んだ。
ラジオが、市の災害対策本部の発表を読みあげた。
「浦篠市災害対策本部によりますと、昨夜、市内で−80度を観測しました。この数値は――」
日本の最低気温の記録は、旭川の−41度なのだと、ラジオのアナウンサーが付け足した。その倍に近い数字を、彼女はいつもと同じ声の高さで読みあげる。
その日は、ストーブの薪の減りが、いつもより一束ぶん早かった。
それから何日か、私は壕から出なかった。
配信のドラマを、一話ずつ順番に観る。飽きたら、文庫本の続き。
スマホのゲームは、一日でやめた。
電気が来ている時間に、ランタンもバッテリーも、全部を満タンにしておく。
15日の夜、あの人からメッセージが来た。
自撮りの写真だった。茶色い染みの浮いた、醤油色の布団を頭からかぶって、カメラを睨んでいる。
『布団を捨てれば凍え死ぬと思ったか?』
その布団、どこから持ってきたの。その染み、誰の家の醤油。
少しして、瑠璃からも一枚。
男物の、紺の綿入れを着ている。袖が手の甲まで余っていた。
両手で、湯気の立つカップ麺を持っている。
『あなたの思いどおりにはならないから。残念でした』
小夜ちゃん、とは、もう書いていなかった。
写真の背景に、見覚えがあった。
壁に貼られた古い競馬のカレンダー。積みあげた段ボール。
台所の窓の、ひしゃげた格子。
私が借りていた、あの部屋の真下だ。
住んでいるのは菅沼さんという、女性への迷惑行為で何度か通報されたことのある人で、私は前に、勝手に持っていかれた宅配便を取り返しに、あの部屋の玄関まで入ったことがある。
あの人の醤油色の布団が誰のものなのかは、わからない。
私は冷凍庫から秋刀魚を一尾出して、ストーブの天板で焼いた。皮に焦げ目がついたところを、一枚だけ撮る。
文字は付けずに、瑠璃に送った。
*
翌日の夜、住民LINEグループに、瑠璃の投稿が上がった。
『食べ物を分けてください。二人で食べる分がありません。』
綿入れを着て、カップ麺を持った、あの写真が付いていた。
返信は、すぐに来た。
『もう分けてやった。うちで食ってっただろ。』
菅沼さんだった。
既読の数が、見ているあいだに増えていく。
『余っているなら、うちの電池と交換してもらえませんか。』
『お金は払います。少しだけ分けてください。』
『うちの旦那には一粒も渡させない。』
『うちの旦那には近づかせない。うちには来ないで。』
『配る余裕はありません。部屋には来ないでください。』
菅沼さんの名前が、もう一度だけ画面に出た。
『一つやっただけだ、すぐ帰った。』
それきり、瑠璃の投稿の下には、誰も何も書かなかった。
私も、何も書かなかった。
グループの画面を閉じて、残っていた秋刀魚の半身に、醤油を垂らす。
*
17日、また雪が降りだした。
雪かき、停電、天気、ニュース。
それから何日かは、その四つを順番に繰り返して、日が過ぎる。
ベランダの赤い布は、二枚とも端がほつれて、色も少し褪せている。
降りだしてから10日たった昼、電気が来ていた短いあいだに、スマホが鳴った。
あの人からだった。
通話のボタンを押す。モバイルバッテリーのランプが、緑に点いている。
私は何も言わずに、待った。
荒い息。何かを言いかけて、やめる音。
壁を叩くような、鈍い音が一度。
「……小夜」
返事はしなかった。
「頼む。」
それきり、言葉は続かない。
息の音だけが、しばらく聞こえる。私はスマホを耳から離さずに、それが途切れるのを待った。
もう何も来ないのを確かめてから、通話を切った。
*
その夜、住民LINEグループに、写真が一枚上がった。
6階の外廊下。閉まったドアの前に、青いシートが掛けてある。
手すりに、雪が積もっている。
『黒川さんの部屋にいた早乙女さん、昨日のうちに亡くなっていたそうです。寒さと、何も食べられていなかったみたいで。』
『黒川さんは今日の午後、隣の部屋に押し入って、そこの方に殴られて、亡くなったと聞きました。』
『早乙女さんには、何人かがこっそり食べ物を渡してたって聞いたのに』
『黒川さんが早乙女さんの袋を取りあげてるの、私、廊下で二回見ました』
『男の方は元気そうだったのに』
『やめましょう、こういう話。亡くなった方のことなので』
『桑野です。警察と消防には連絡済みです。皆さん、廊下には出ないでください』
写真から、目を離せなかった。
スマホを持つ手が、動かなかった。
画面の上に、水滴が一つ落ちた。
拭っても、また落ちる。
何の涙なのかは、自分でもわからない。
画面が暗くなるまで、私はそのまま座っていた。
*
電気は、それから何日かして途切れなくなった。ガスも、少し遅れて戻ってきた。
水道は、まだだ。市のお知らせには、復旧の見込みは「未定」とだけあった。
鍋に雪を詰めて、ストーブの上で溶かす。顔を洗うのも、食器を洗うのも、その水。
麓の道の入口まで、自衛隊の除雪車が来たらしい。
オープンチャットに上がった写真の中で、オレンジ色の車体の前に立った隊員さんが二人、手を振っている。
江波さんから、電話があった。薬を渡した次の日に、オープンチャットで番号を交換していた。
「小夜ちゃんか。……婆さんが礼を言いたいって」
「熱、下がったんですね」
「ああ。もう、台所に立ってる。電話がつながったら、自分で言うってきかない」
「よかった。奥さんに、無理しないでくださいって伝えてください」
「わかった。……小夜ちゃんも、外に出るときは声をかけろよ。窓から見てるから」
「はい。ありがとうございます」
それだけで、電話は切れた。
一階の居間を通ると、両親のソファには、母の膝掛けが畳んだまま載っている。食卓の端には、父の老眼鏡。
壕に戻って、調理兼用ストーブの天板に網を置いた。冷凍庫から出しておいた、最後の秋刀魚をのせる。
ソファに座ると、おこげが膝に乗ってきた。重い。
脂が落ちて、皮がちりちりと縮んでいく。
菜箸を取った。片方の先だけ、もう片方より色が濃い。
秋刀魚の腹の下に箸を差しこんで、そっと裏返す。
焼き目のついた皮に、もう一度、箸の先を当てる。小さく、鼻歌が出た。




