↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷点下の終末が来ると知っていたので、私を凍死させた恋人と親友の分の布団は全部捨てておいた  作者: 空の異変


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/10

第八話 父の釣り竿

9月8日の夕方、ベランダに出た。


赤い布が、風に引っぱられて、ばたばたと鳴っている。煙突の出口のまわりでは、雪が湯気になって、灰色の空にほどけていく。


雪の積もり具合を撮っておこうと、ポケットからスマホを出した。


画面が、真っ黒だった。ボタンを長押ししても、何も映らない。


さっき見たときは、電池が60%残っていたのに。


スマホをダウンの内側にしまって、赤い布を目印に、二本の笠の雪を払う。手袋の中で、指先がもう言うことを聞かない。


急いで壕へ戻った。


ストーブの前でスマホを手のひらに包んでいると、10分ほどで、画面に白い光が戻ってきた。


ラジオが、外の気温を伝えている。


「――浦篠市では、午後5時現在、−60度を観測しました。屋外での作業は、短時間であっても命にかかわります」


タブレットを開く。


見守りカメラのアプリは、ぐるぐる回る輪の下に、一行だけを出していた。


『デバイスに接続できません』


再読み込みを押しても、同じ一行が戻ってくる。


住民LINEグループには、短い投稿が続いていた。


『停電しました』


『うちもです。エアコン止まった』


『エレベーター、誰も乗ってないですよね?』


『窓の外、街灯も全部消えてます』


『桑野です。電力会社に問い合わせていますが、つながりません。復旧の時刻は、私のほうでは確認できていません』


アプリを閉じた。


画面の向こうの部屋で、今、何が起きているのか。私にはもう、見る手段がない。


    *


その夜は、スマホをモバイルバッテリーにつないだまま、ニュースばかり読んでいた。


『自衛隊、浦篠市など県内各地に災害派遣』


『消防、救急要請に対応しきれず 119番は受付後に順次出動』


『市職員、避難所の開設作業を徹夜で継続』


『ボランティア団体、除雪の協力者を募集』


『電力会社の作業員、電線の復旧作業中に十数人が死亡・行方不明』


最後の見出しで、指が止まった。


記事には、雪の中で電柱に登る人の写真が付いていた。


顔は見えない。ヘルメットと、凍りついた作業着の背中だけ。


喉の奥が熱くなった。


画面が滲んで、見出しの文字が読めなくなる。袖で拭っても、すぐにまた滲んだ。


今日の夕方まで、私はあの部屋ばかり覗いていた。夏布団の上の、あの二人の顔ばかり。


カメラのアプリを長押しして、ホーム画面のいちばん奥のフォルダに移した。


代わりに、地域防災オープンチャットを探す。笹尾地区、参加者62人。


参加のボタンを押した。


『はじめまして。笹尾山の麓に住んでいる宇佐美です。何か手伝えることがあれば』


『よろしくお願いします。明日の朝、各自で家の前から道を掘ってみませんか。少しずつでもつなげれば、救助の車が入れるかも』


『賛成です。うちは70代の夫婦二人なので、若い人がいると心強い』


『7時からってことで、どうでしょう』


『了解です』


その夜は、夢を一つも見なかった。


    *


9月9日の朝。


冷凍庫から作り置きの餃子を出して、10個焼いた。ガスは、まだ使える。


皮の端がちゃんと焦げるまで待って、全部、熱いうちに食べた。


腹に力を入れて、ベランダへ出る。


腰にロープを巻いて、もう一方の端をベランダの柵に結んだ。梯子を伝って、庭の雪の上に降りる。


除雪スコップを、雪に差しこむ。


掘って、横に捨てる。掘って、捨てる。


崩れてきた雪を、またすくう。


30分たって振り返ると、ベランダの下から0.5m進んだだけだった。


雪の壁は、私の背丈よりずっと高い。門までは、まだ15mある。


ポケットのスマホは、まだ生きていた。


『無理です。掘ったそばから崩れてきます』


『家の前すら出られない。二階の窓から見てるだけ』


『自衛隊の人たち、板を雪の上に敷いて歩いてるらしいです』


『かんじきとか、スノーシューとか、持ってる人いませんか』


かんじきも、スノーシューも、この家にはない。


薪なら、ある。


壕から薪を4本運びだして、ロープの余りで格子に縛った。靴の裏に、それを括りつける。


雪の上に、一歩、踏みだした。


二歩目で、足元が抜けた。


体ごと、真下に沈む。


雪が顔を覆って、口に入る。目の前が、白いだけになる。


両腕を振りまわして、頭の上の雪を掻きだした。かすかに光が見えて、口を開ける。


冷たい空気が、喉に刺さった。


腰のロープが、ぴんと張っている。


それを両手でたぐって、少しずつ体を引きずりあげた。柵の下まで戻って、梯子に足をかける。


ベランダに転がりこんで、しばらく仰向けのまま動けなかった。


靴の裏の薪は、片方しか残っていない。


    *


息が戻ってから、梯子で屋根に上がった。


町は、屋根だけになっていた。雪の中から、灰色の三角が、ぽつぽつと突きだしている。


「誰かいますか」


声が、雪に吸いこまれた。


「誰か、いますか」


しばらくして、西隣の家の二階の窓が、細く開いた。


「小夜ちゃんか。何やってる、そんなところで」


江波さんだった。


「江波さん。大丈夫ですか」


「早く中に入れ、危ないぞ」


窓が閉まりかけて、途中で止まった。


「……婆さんが熱を出して、薬がない」


「熱、何度ですか」


「38度ちょっと。昨日からだ。家にあった風邪薬は、もう飲みきった」


この雪の中で、熱。


屋根の端まで這っていって、江波さんの家との間を目で測った。ベランダからベランダまで、20mくらい。


歩いて渡れる距離じゃない。


「薬はあります。江波さん、中で待っていてください」


壕に戻って、棚から常備薬の箱を下ろした。解熱剤と、風邪薬。


どちらも箱を開けずに、説明書が入ったまま。


それを、ジッパー付きの袋に二重に入れる。


壁の釣り具掛けから、父の遠投竿を外した。


リールの糸は、まだ使えそう。道具の手入れだけは、父は一度も欠かさなかった。


針は付けない。糸の先に、袋の口を結ぶ。


屋根に戻ると、風が少しだけ弱まっていた。


江波さんが、ベランダに出てきている。どてらの前を、両手で押さえて。


「江波さん、下がっててください。今から、そっちに投げます」


「投げる? 何を」


「薬です。袋に入れて、竿で飛ばします。昔、父に教わったので」


「竿って、親父さんの釣り竿か」


「はい。ちょっとだけ、窓から離れててください」


肘を伸ばしたまま。腕で投げるんじゃない、竿のしなりで飛ばす。


一投目は、ベランダの手前の雪に落ちた。


リールを巻いて、袋を引き寄せる。もう一度、竿を後ろに倒した。


二投目。


白い空の中を、透明な袋が弧を描いて飛んで、江波さんのベランダの柵の内側に落ちた。


江波さんが、袋に飛びつく。


「解熱剤と、風邪薬です。箱の説明書を、奥さんと一緒に読んでください。合わなかったら、飲まないで」


「わかった。わかった」


糸をほどいた江波さんは、袋を胸に抱えて、窓の内側に半分体を入れたところで振り返った。


「小夜ちゃん」


「はい」


「あんたは命の恩人だ」


その顔が、くしゃくしゃに歪んでいた。窓枠をつかんだまま、江波さんは声を出さずに泣いていた。


「早く、奥さんのところに」


窓が閉まるのを見届けてから、竿を抱えて屋根を下りた。


    *


壕に戻って、ストーブの前でダウンを脱いだ。


電気のスイッチに手を伸ばしたところで、天井の明かりが、ぷつりと消えた。


停電。こっちにも、来た。


江波さんの家は、ストーブがあっただろうか。


ソーラーランタンを一台点けた。雪の前に、窓際で満充電にしておいたものだ。


調理兼用ストーブで湯を沸かして、冷凍の餃子を15個、茹でた。


全部、食べた。


オープンチャットの通知が一件。


『この雪、いつまで続くんですか』


誰も、返事を書かなかった。私も、書かなかった。


それから2日、同じことを繰り返す。


ベランダに出て、赤い布を確かめて、通気口の笠を払って戻る。ストーブに薪を足して、ラジオを聞く。


10日の夜、ラジオは−70度と言った。


ランタンを消して、ストーブの火明かりだけにする。


毛布を膝に掛けて、ソファの前の敷物に座り、文庫本を開いた。小口のところだけ、中のページよりも黄ばんでいる。


おこげが、私の腰に背中をつけて丸くなった。


何ページか読んで、あくびを一つ。


本を閉じたところまでは、覚えている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。