第八話 父の釣り竿
9月8日の夕方、ベランダに出た。
赤い布が、風に引っぱられて、ばたばたと鳴っている。煙突の出口のまわりでは、雪が湯気になって、灰色の空にほどけていく。
雪の積もり具合を撮っておこうと、ポケットからスマホを出した。
画面が、真っ黒だった。ボタンを長押ししても、何も映らない。
さっき見たときは、電池が60%残っていたのに。
スマホをダウンの内側にしまって、赤い布を目印に、二本の笠の雪を払う。手袋の中で、指先がもう言うことを聞かない。
急いで壕へ戻った。
ストーブの前でスマホを手のひらに包んでいると、10分ほどで、画面に白い光が戻ってきた。
ラジオが、外の気温を伝えている。
「――浦篠市では、午後5時現在、−60度を観測しました。屋外での作業は、短時間であっても命にかかわります」
タブレットを開く。
見守りカメラのアプリは、ぐるぐる回る輪の下に、一行だけを出していた。
『デバイスに接続できません』
再読み込みを押しても、同じ一行が戻ってくる。
住民LINEグループには、短い投稿が続いていた。
『停電しました』
『うちもです。エアコン止まった』
『エレベーター、誰も乗ってないですよね?』
『窓の外、街灯も全部消えてます』
『桑野です。電力会社に問い合わせていますが、つながりません。復旧の時刻は、私のほうでは確認できていません』
アプリを閉じた。
画面の向こうの部屋で、今、何が起きているのか。私にはもう、見る手段がない。
*
その夜は、スマホをモバイルバッテリーにつないだまま、ニュースばかり読んでいた。
『自衛隊、浦篠市など県内各地に災害派遣』
『消防、救急要請に対応しきれず 119番は受付後に順次出動』
『市職員、避難所の開設作業を徹夜で継続』
『ボランティア団体、除雪の協力者を募集』
『電力会社の作業員、電線の復旧作業中に十数人が死亡・行方不明』
最後の見出しで、指が止まった。
記事には、雪の中で電柱に登る人の写真が付いていた。
顔は見えない。ヘルメットと、凍りついた作業着の背中だけ。
喉の奥が熱くなった。
画面が滲んで、見出しの文字が読めなくなる。袖で拭っても、すぐにまた滲んだ。
今日の夕方まで、私はあの部屋ばかり覗いていた。夏布団の上の、あの二人の顔ばかり。
カメラのアプリを長押しして、ホーム画面のいちばん奥のフォルダに移した。
代わりに、地域防災オープンチャットを探す。笹尾地区、参加者62人。
参加のボタンを押した。
『はじめまして。笹尾山の麓に住んでいる宇佐美です。何か手伝えることがあれば』
『よろしくお願いします。明日の朝、各自で家の前から道を掘ってみませんか。少しずつでもつなげれば、救助の車が入れるかも』
『賛成です。うちは70代の夫婦二人なので、若い人がいると心強い』
『7時からってことで、どうでしょう』
『了解です』
その夜は、夢を一つも見なかった。
*
9月9日の朝。
冷凍庫から作り置きの餃子を出して、10個焼いた。ガスは、まだ使える。
皮の端がちゃんと焦げるまで待って、全部、熱いうちに食べた。
腹に力を入れて、ベランダへ出る。
腰にロープを巻いて、もう一方の端をベランダの柵に結んだ。梯子を伝って、庭の雪の上に降りる。
除雪スコップを、雪に差しこむ。
掘って、横に捨てる。掘って、捨てる。
崩れてきた雪を、またすくう。
30分たって振り返ると、ベランダの下から0.5m進んだだけだった。
雪の壁は、私の背丈よりずっと高い。門までは、まだ15mある。
ポケットのスマホは、まだ生きていた。
『無理です。掘ったそばから崩れてきます』
『家の前すら出られない。二階の窓から見てるだけ』
『自衛隊の人たち、板を雪の上に敷いて歩いてるらしいです』
『かんじきとか、スノーシューとか、持ってる人いませんか』
かんじきも、スノーシューも、この家にはない。
薪なら、ある。
壕から薪を4本運びだして、ロープの余りで格子に縛った。靴の裏に、それを括りつける。
雪の上に、一歩、踏みだした。
二歩目で、足元が抜けた。
体ごと、真下に沈む。
雪が顔を覆って、口に入る。目の前が、白いだけになる。
両腕を振りまわして、頭の上の雪を掻きだした。かすかに光が見えて、口を開ける。
冷たい空気が、喉に刺さった。
腰のロープが、ぴんと張っている。
それを両手でたぐって、少しずつ体を引きずりあげた。柵の下まで戻って、梯子に足をかける。
ベランダに転がりこんで、しばらく仰向けのまま動けなかった。
靴の裏の薪は、片方しか残っていない。
*
息が戻ってから、梯子で屋根に上がった。
町は、屋根だけになっていた。雪の中から、灰色の三角が、ぽつぽつと突きだしている。
「誰かいますか」
声が、雪に吸いこまれた。
「誰か、いますか」
しばらくして、西隣の家の二階の窓が、細く開いた。
「小夜ちゃんか。何やってる、そんなところで」
江波さんだった。
「江波さん。大丈夫ですか」
「早く中に入れ、危ないぞ」
窓が閉まりかけて、途中で止まった。
「……婆さんが熱を出して、薬がない」
「熱、何度ですか」
「38度ちょっと。昨日からだ。家にあった風邪薬は、もう飲みきった」
この雪の中で、熱。
屋根の端まで這っていって、江波さんの家との間を目で測った。ベランダからベランダまで、20mくらい。
歩いて渡れる距離じゃない。
「薬はあります。江波さん、中で待っていてください」
壕に戻って、棚から常備薬の箱を下ろした。解熱剤と、風邪薬。
どちらも箱を開けずに、説明書が入ったまま。
それを、ジッパー付きの袋に二重に入れる。
壁の釣り具掛けから、父の遠投竿を外した。
リールの糸は、まだ使えそう。道具の手入れだけは、父は一度も欠かさなかった。
針は付けない。糸の先に、袋の口を結ぶ。
屋根に戻ると、風が少しだけ弱まっていた。
江波さんが、ベランダに出てきている。どてらの前を、両手で押さえて。
「江波さん、下がっててください。今から、そっちに投げます」
「投げる? 何を」
「薬です。袋に入れて、竿で飛ばします。昔、父に教わったので」
「竿って、親父さんの釣り竿か」
「はい。ちょっとだけ、窓から離れててください」
肘を伸ばしたまま。腕で投げるんじゃない、竿のしなりで飛ばす。
一投目は、ベランダの手前の雪に落ちた。
リールを巻いて、袋を引き寄せる。もう一度、竿を後ろに倒した。
二投目。
白い空の中を、透明な袋が弧を描いて飛んで、江波さんのベランダの柵の内側に落ちた。
江波さんが、袋に飛びつく。
「解熱剤と、風邪薬です。箱の説明書を、奥さんと一緒に読んでください。合わなかったら、飲まないで」
「わかった。わかった」
糸をほどいた江波さんは、袋を胸に抱えて、窓の内側に半分体を入れたところで振り返った。
「小夜ちゃん」
「はい」
「あんたは命の恩人だ」
その顔が、くしゃくしゃに歪んでいた。窓枠をつかんだまま、江波さんは声を出さずに泣いていた。
「早く、奥さんのところに」
窓が閉まるのを見届けてから、竿を抱えて屋根を下りた。
*
壕に戻って、ストーブの前でダウンを脱いだ。
電気のスイッチに手を伸ばしたところで、天井の明かりが、ぷつりと消えた。
停電。こっちにも、来た。
江波さんの家は、ストーブがあっただろうか。
ソーラーランタンを一台点けた。雪の前に、窓際で満充電にしておいたものだ。
調理兼用ストーブで湯を沸かして、冷凍の餃子を15個、茹でた。
全部、食べた。
オープンチャットの通知が一件。
『この雪、いつまで続くんですか』
誰も、返事を書かなかった。私も、書かなかった。
それから2日、同じことを繰り返す。
ベランダに出て、赤い布を確かめて、通気口の笠を払って戻る。ストーブに薪を足して、ラジオを聞く。
10日の夜、ラジオは−70度と言った。
ランタンを消して、ストーブの火明かりだけにする。
毛布を膝に掛けて、ソファの前の敷物に座り、文庫本を開いた。小口のところだけ、中のページよりも黄ばんでいる。
おこげが、私の腰に背中をつけて丸くなった。
何ページか読んで、あくびを一つ。
本を閉じたところまでは、覚えている。




