第七話 家だよ
夕方までに、ベランダへは三度出た。
通気口の笠を払って、戻って、ストーブの前で手を温めて、また出る。
三度目に出たとき、家の横に積もった雪は、二階の窓の下枠に届きそうになっていた。地面からなら、4mはある。
壕に戻ってスマホを見ると、マンションの住民LINEグループが動いていた。
大家の桑野さんが、ゴミ出しの日と回覧板の代わりに作ったグループだ。あの部屋を借りたとき、桑野さんに誘われて入った。
『水が出ません。うちだけですか』
『うちもです。断水みたいです』
『トイレどうしよう……』
『桑野です。水道局に問い合わせていますが、まだ電話がつながりません。分かり次第、こちらでお知らせします』
私は、前から作っておいた備蓄のチェックリストを、画像にして貼った。
『6階の宇佐美です。役に立つかわからないけど、置いておきます』
『□窓とドアをしっかり閉める □飲み水の残りを確かめる □食べ物は日数で割る □布団・毛布・上着を一部屋に集める □スマホの充電を節約する』
『この雪、いつ止むかわかりません。食べ物と布団は、大事にしてください』
少しして、返信がつきはじめた。
『ありがとうございます。お風呂に水、溜めとけばよかった……』
『カセットボンベ、残り2本でした。大事に使います』
『毛布、押し入れから全部出して、居間に集めました』
『うちは子どもが小さいので、本当に助かります』
画面を閉じた。
前の9月7日、あの外廊下で、誰もドアを開けなかった。
恨んではいない。あの夜は、みんな自分の部屋のドアを守るので精一杯だった。
壕の棚には、水の箱が、天井近くまで積んである。
*
タブレットを開くと、マンションのリビングは、昼より暗く見えた。
エアコンはまだ動いている。それでも、二人は肌掛けにくるまったまま、ソファの両端に離れて座っていた。
瑠璃は、泊まりに来たときの着替えを、Tシャツの上に全部重ねて着ていた。あの人の足には、靴下が二枚ずつ。
テーブルの上には、空になった炭酸水のペットボトルが並んでいる。缶ビールは、もう一本も残っていないらしい。
あの人が、瑠璃のスマホを指さした。
「住所聞けって言ってんだろ」
「聞いてるよ。既読にもならないんだってば」
「もっと聞けよ。雪が止んだら、あいつのとこ行くんだよ。金も、布団も、全部取り返す」
「あんたが自分で聞けば? あの子、あんたの電話には出ないでしょ。嫌われてんだから」
あの人の手が、瑠璃の頬を打った。
瑠璃は頬を押さえて、しばらく動かなかった。それから黙って、スマホを打ちはじめる。
『小夜ちゃん、ほんとに大丈夫? あたし心配で。今、どこにいるの?』
私は、壕の照明を落とした。
父のストーブの扉を開けると、炎の色が、天板のポットと、小皿に載せた羊羹を照らしだす。
そこだけを、スマホで撮った。窓も壁も、何も写らない角度で。
写真を送る。それから、音声メッセージを一つ。
「すごい雪だね。うちに薪ストーブがあって助かった。なかったら、凍えてたかも」
送信して、照明を戻した。
タブレットの中で、瑠璃のスマホが鳴る。画面を見た瑠璃の手が、そこで止まった。
「……何これ」
あの人が覗きこむ。瑠璃は画面を、あの人の顔に突きつけた。
「なんであの女が暖炉の前にいるの、なんであの女に食べ物があるの」
「知るかよ」
「知るかよじゃないよ。あたしたち、夏布団だよ。ご飯もないんだよ。なのに、なんであの子だけ、お茶飲んで、お菓子食べてんの」
「だから住所聞けって」
「聞いてるでしょ!」
瑠璃はスマホを握りしめたまま、ソファの端で動かなくなった。
*
夕飯は、鍋にした。
解凍しておいた鶏ももを、一口大に切る。じゃがいもと人参、ごぼう、こんにゃく。
じゃがいもだけ、先に油で炒めた。表面にうっすら焼き色がついたら、一度皿に取りだす。
煮崩れしないんだよ、こうすると。
父はそう言って、肉じゃがでも煮物でも、いつも最初にじゃがいもを炒めていた。母が横から「また油っこくして」と言うのまで、毎回同じだった。
調理兼用ストーブの天板で、鶏を炒める。醤油と、みりんと、お酒。
水を張って蓋をすると、壕の中に甘じょっぱい匂いが満ちていった。30分。
じゃがいもを戻して、もう10分。
菜箸で一つ刺してみる。角が立ったまま、中まですっと通った。
炊いておいたご飯は、国産の銘柄米だ。普段の私なら、値札を見てそっと棚に戻すやつ。
鍋をローテーブルに運ぶ。コルクの鍋敷きには、前からある丸い焦げ跡が一つ残っていた。
ソファの下から出てきたおこげが、私の膝に、ごつんと頭をぶつける。
「これはだめ。おこげのは、そっち」
彼女は不満そうに尻尾を一振りして、自分の皿のほうへ歩いていった。
湯気の立つ鍋と、ご飯の茶碗を並べて撮る。
『見るだけでも、どうぞ』
送ってから、鶏を一切れ口に入れた。
父の味より、少しだけ甘い。みりんが多かった。
タブレットの中で、瑠璃が声を上げて泣きだした。
喉を開いて、子どもが泣くときの泣き方で。あの人は耳を手でふさいで、ソファの反対側へ移った。
*
20時を過ぎて、あの人がスマホを顔の前に持ちあげた。
「もう警察だ。警察呼ぶ」
スピーカーにしたまま、番号を押す。呼び出し音が、静かなリビングに響いた。
「はい、110番です。事件ですか、事故ですか」
「凍え死にそうなんです、来てください。食べ物も、布団もなくて」
「お怪我をされている方はいますか。お名前と、住所を教えてください」
あの人が、マンションの住所を言う。キーボードを叩く音が、少しだけ聞こえた。
「通報は受け付けました。道路が塞がれていて、今は向かえません」
「は? じゃあ、いつ来るんですか」
「除雪の状況によります。屋内で、できるだけ体温を保ってください。体調が急に悪くなったら、もう一度ご連絡ください」
「いや、だから、体温を保つものが何も」
通話は、そこで終わった。
あの人はスマホを見下ろしたまま、眉間に深い皺を寄せていた。
壕のラジオが、今夜の市内の気温を−50度と伝えている。
瑠璃のスマホが、また光った。
『ねえ、小夜ちゃん。住所教えて。どこの家? お願い』
私は、短く返した。
『家だよ』
それ以上は、何も書かなかった。
カメラの中で、瑠璃が画面を見つめている。
「……家って」
「金のことだろ。あいつ、金を返せって言いたいんだよ。だから居場所を隠してんだ」
「違うよ」
瑠璃が、首を振った。
「あの写真、あたしに送ってきたんだよ。慎也じゃなくて、あたしに。ご飯の写真も、あたしに」
「だから何だよ」
「……あの子、何か知ってるんじゃないの」
「何かって何だよ」
瑠璃はあの人の顔を見て、それから、目を逸らした。
「ねえ、これ、どういう意味なの」




