第六話 赤い布まで
次に目を開けたら、10時だった。
スマホには、あの人からの着信とメッセージが、画面に収まりきらないほど並んでいる。どれも開かずに、Xを開いた。
『9月に雪とか、何これ #浦篠市』
『会社行けない。電車全部止まってる』
『玄関のドアが開かないんだけど、どうすればいいの』
『気温−30度って、表示バグってるでしょ』
まだ、ベランダの雪を撮って載せている人がいる。雪だるまの写真に、いいねが2000ついていた。
一階の台所でコンロのつまみをひねると、青い火がついた。ガスは、まだ生きている。
乾麺のうどんを茹でて、湯を切った丼に卵を落とす。醤油をひと回し。
丼の高台に、小さな欠けが一つある。指に引っかかる位置をよけて、持ちあげた。
おこげの皿にキャットフードを入れて、水を替える。
かりかりと噛む音を聞きながら、私も箸を取った。熱いうどんが、喉を通って腹に落ちていく。
「ごちそうさま。おこげは、今日は留守番ね」
皿から顔を上げもしない背中に言って、丼を流しに置いた。
*
居間のテレビをつけると、どのチャンネルも雪だった。
「――東海地方の沿岸部を中心に、観測史上例のない大雪となっています。気象庁は、命を守る行動を」
食べ終えて、居間の窓に目をやった。
ガラスの向こうが、白い壁になっていた。
一階の窓は、下から1.5mほどが雪に埋まっている。カーテンを開けても、朝なのに部屋は薄暗い。
通気口。
壕の空気は、山腹の2本と、山の上の1本でつながっている。上の1本には行けない。
残りの2本が埋まったら、壕の中で火は焚けない。息もできない。
壕のベッドの脇から、着るものを順番に引っぱりだした。
厚手の下着に、フリース。その上からダウン。
帽子、マフラー、ゴーグル。防水手袋は二重にして、長靴の口をテープで巻く。
鏡に映った自分は、目しか出ていなかった。
壕の鉄扉をきっちり閉めて、まず玄関へ行った。
扉の取っ手を、内側に引いてみる。
開いた。目の前に、私の胸の高さまで、雪が詰まっている。
外開きのままだったら、この扉はもう、ただの壁だった。
玄関からは出られない。二階へ上がる。
ベランダの扉も、内開きに替えてある。
開けると、吹きだまりが顎の下まで来ていた。1.3mくらいある。
除雪スコップを、雪の壁に差しこんだ。
雪はまだ軽い。すくって、ベランダの柵の外へ放る。
もう一度。もう一度。
「……これ、毎日やるの?」
誰も答えない。雪だけが、ゴーグルに当たって溶けていく。
腕が上がらなくなるころ、ようやく柵の手前まで道ができた。
山腹側の2本の通気口は、ベランダの柵から身を乗りだせば届く位置にある。ステンレスの笠の上に、雪がこんもりと乗っていた。
手袋の甲で、それを払い落とす。
それから、梯子を屋根に掛けた。
父がこだわった屋根は、雪の重さをまだ受けとめていた。
それでも、足を乗せると、どこかでみしっと木が鳴る。
父の補強と、大工さんが足した支柱。その上に、いったいどれだけの雪が乗っているのか。
「お父さん、あとちょっとだけ、持ちこたえてよ」
声に出したら、マフラーの中が少しだけ温かくなった。
軒先に近いところから、雪を下へ落としていく。
ダウンの中で汗をかいているのに、手袋の指先から感覚が消えていく。小指、薬指。
屋根の半分を終えて振り返ると、最初に落としたところに、もう足首まで積もっていた。
降る量のほうが、私の腕より速い。
屋根から下りて、ベランダの柵に掴まった。
ダウンのポケットで、スマホが短く震える。手袋を片方だけ外して、画面を見た。
『【大雪特別警報】浦篠市 ただちに命を守る行動をとってください』
命を守る行動。今、まさにやっている。
壕の物置から持ってきた赤い布を、ポケットから出す。
通気口の笠の根元の、支柱の一本に結んだ。煙突の金具からは、手のひら二つぶん離して。
風が布を引っぱって、ばたばたと鳴らす。
白一色の中で、そこだけが目に痛い。
「よし。……見える」
ゴーグルの曇りを指で拭いて、もう一度、布の位置を確かめた。
*
壕に戻って、鉄扉を閉める。
ダウンを脱ぐと、湯気が肩から上がった。
父の薪ストーブの扉を開けて、焚きつけと細い薪を組む。マッチを擦る。
火が回るまで、扉の前にしゃがんで待った。
鋳物の肌が、少しずつ温まっていく。手をかざすと、指先に血が戻ってきて、じんじんと痛んだ。
太い薪を二本足して、空気の調整を絞る。
煙突は、通気口の通り道を抜けて外へ出ている。
しばらくして二階からベランダを覗くと、通気口から1m離れた煙突の出口のまわりだけ、雪が溶けていた。
降ってくる雪が、出口に触れる手前で湯気に変わって、灰色の空に消えていく。
ベランダの扉を閉めて、また壕へ戻った。
警報器のランプは、緑。
棚から白茶の缶を下ろして、ポットに茶葉を入れた。奥のもう一つの缶は、封をしたまま、元の位置に戻す。
ストーブの天板にポットを置いて、フリースも脱いだ。
壕の入口のあたりが、ようやく、人の住む温度になる。
白茶をひと口飲んでから、Xを開いた。
『屋根がずっとミシミシいってる。寝られない』
『カーポート潰れた。車ごと』
『実家の母と連絡つかない。浦篠の山のほうの人、誰か様子わかりますか』
『雪かきって、どこに雪を捨てればいいんですか。捨てる場所がない』
朝の雪だるまの写真は、もうタイムラインのどこにも見当たらなかった。
*
カップを両手で持ってソファに沈み、タブレットを開いた。
マンションのリビングは、まだ明るい。エアコンが、聞いたことのない音で唸っている。
夏用の肌掛けにくるまった瑠璃が、あの人の腕を引っぱった。
「お腹すいた」
あの人は、スマホの画面を見たまま答えない。
「ねえ、お腹すいたってば」
「出前が来ないんだよ。どこに頼んでも、受付停止って出んだよ」
「コンビニのデリバリーは?」
「全部同じだ。配達員がいないって」
「冷蔵庫は?」
「見てみろよ。炭酸水とビールしかねえ」
「明日になったら、出前、来るよね」
「来るだろ。明日には」
瑠璃が冷蔵庫を開けて、閉めて、もう一度開けた。
「なんで米もないの。パスタも。カップ麺の一個も」
「知らねえって。全部、小夜が……」
あの人は言葉を切って、空っぽの冷蔵庫の棚を見つめた。
瑠璃は、紅茶のペットボトルを一本抜いて、そのまま床に座りこんだ。
スマホが震えた。瑠璃からだった。
『小夜ちゃん、元気? すごい雪だね。今どこにいるの?』
画面の中で、送信したばかりの瑠璃が、あの人の耳に何か囁いている。
通知の一行目だけ読んで、私はスマホを伏せた。
ベランダのほうから、風の音がした。
さっき払った笠の上に、もう雪が乗りはじめている頃だ。
カップを置いて、ストーブの前に干しておいた手袋を取った。まだ、指の股が湿っている。
それを、もう一度はめた。




