第五話 夏布団しかない
9月6日。
朝のうちにベランダへ出て、山腹の通気口を見に行った。ステンレスの管も笠も、手で揺すってもびくともしない。
風は生ぬるく、空は薄い雲が一枚かかっているだけだった。
夜、最後のお風呂に長めに浸かってから、水道の元栓を閉めた。家じゅうの蛇口を開けて、管の水を抜く。
トイレの脇には、袋式の簡易トイレと凝固剤の箱を積んでおいた。
壕の入口側のベッドに、新しいシーツを掛ける。布団カバーのファスナーが、途中で布の端を噛んで止まった。
指で布を外して、もう一度、端まで引く。
壕の奥は、照明を消すとどこまでも暗い。
ホームセンターで買ってきた木の屏風を、ベッドの足元に立てた。これで、奥の暗がりは目に入らない。
一人で寝るには、ここは長すぎる。子どものころは、父と母の寝息が、暗がりとのあいだに挟まっていた。
おこげが、ベッドの横の猫用ベッドに潜りこんだ。毛布の端から、耳だけが出ている。
タブレットを開くと、マンションのリビングでは、二人がまた揉めていた。
瑠璃がテーブルの上のスマホを指で弾いて、慎也のほうへ滑らせる。
「電話、何回かけても出ない。メッセージも未読のまま」
「だから言っただろ。あいつ、逃げたんだよ」
「逃げた? あの小夜が?」
瑠璃はソファの背にもたれて、天井を見上げた。
「あの女、あんなに腹黒かったなんて、何年も気づかなかった」
「今さら言うなよ」
「ていうか、あんたもあんただよ。家を売るって言われて舞いあがって、言われるままに動画まで撮られて。あんた豚なの?」
「騙されやすいって、お前が言ったんだろ。俺だけ悪いことにするなよ」
「言ったよ。だって、ずっとそうだったじゃん。お人好しで、何でも先回りして片付けて」
瑠璃が、急に体を起こした。
「ちょっと待って。その1000万、あなたが借りたの?」
「は?」
「小夜が言ってるやつ。借用書、あるんでしょ。慎也のサインの」
「借りてねえって、何回言わせんだよ」
「じゃあ、なんでサインがあるの。なんで、あたしに黙ってたの」
慎也は答えなかった。缶ビールを握りつぶして、床に投げる。
私はタブレットを伏せて、屏風の木目を見ながら目を閉じた。
*
目が覚めたのは、3時だった。
鼻の先が冷たい。布団から腕を出すと、空気が肌に刺さった。
カーディガンを羽織って、地下室から一階へ上がる。階段の途中で、吐く息が白くなった。
居間のカーテンを開ける。
窓の外は、真っ白だった。街灯の光の中を、大粒の雪が斜めに落ちつづけている。
スマホが震えた。緊急速報。
『浦篠市 現在の気温 −30度 不要不急の外出を控えてください』
一階の床から、冷たさが靴下ごしに這いあがってくる。
窓ガラスの内側に、もう霜の花が咲きはじめていた。前の人生の私なら、この時間はまだ、何も知らずに眠っていたころだ。
壕に戻って、夏掛けを羽毛布団に替えた。その上に、毛布をもう一枚。
重さが、体の上に落ち着く。
タブレットを点けると、マンションのリビングは煌々と明るかった。エアコンの風で、カーテンの裾が揺れている。
ソファの上で、二人がタオルケットにくるまっていた。夏用の肌掛けを二枚重ねて、その上からバスタオルまで掛けている。
「ねえ、温度、もっと上げてよ」
「上げてる。これで最大なんだよ」
瑠璃の歯が、かちかちと鳴っている。
「厚い布団が一枚もないの、どうして」
「知らねえよ。冬物は全部、小夜が片付けてたから」
「片付けてたって、どこに」
「押し入れだろ。上の段の」
慎也が立ちあがって、寝室の押し入れを開ける。
カメラの端に、空っぽの棚板が映った。圧縮袋も、毛布も、何もない。
「……ない」
慎也は隣のクローゼットも開けた。ハンガーだけが、からからと揺れる。
「何が」
「小夜の服。小夜のもん、全部ねえ」
瑠璃が、肌掛けから顔だけ出した。
「今ごろ?」
「うるせえな。お前だって気づかなかっただろ」
「あたしの家じゃないもん」
瑠璃は肌掛けを頭までかぶって、スマホの明かりだけを中で光らせた。
「ねえ、コンビニ行こうよ。毛布くらい売ってるでしょ」
「この雪でか。歩いて15分だぞ。外、−30度って出てんだろ」
「じゃあ、どうすんの」
慎也は答えずに、エアコンのリモコンをもう一度押した。表示は、さっきと同じ数字のままだった。
今ごろ、だ。私が出ていってから、19日たっている。
*
5分後、スマホが鳴った。慎也だった。
スピーカーにして、枕元に置く。
最初は、何も聞こえなかった。荒い息を吸って、吐いて、また吸う音だけ。
カメラの中で、慎也はスマホを耳に当てたまま、ソファの肘掛けに額をつけていた。
「……小夜」
「うん」
「お前、何をしたいんだ」
怒鳴り声じゃなかった。息を整えて、わざと低くした声。
「何って?」
「家を売るって話も、嘘だったんだろ。荷物も全部持って出て。最初から、戻る気なかったんだろ」
「家を売る気がないのは、本当。戻る気がないのも、本当だよ」
「……戻ってこいよ。話せばわかるだろ。金のことも、ちゃんと話そう。な」
最後の「な」だけが、昔の慎也の声に似ていた。家を売る話をしていたときの、甘い声。
「話すこと、ないよ」
カメラの中で、慎也がスマホを顔から離した。
画面を何度か叩いて、もう一度耳に当てる。手元に、電卓アプリの数字がちらりと映った。
「……月いくら返せば、いいんだよ」
「返すって、私に?」
「金融の180万と、その利息と。お前の言ってる、残りの820万と。年15%って、お前……月いくらになると思ってんだよ」
彼の指が、画面の上で止まる。また動いて、また止まる。
瑠璃が、彼の肩越しに数字を覗きこんでいた。
「ねえ」
「何だよ」
「一週間の休みはもう過ぎたのに、聞かなかったよね」
「……は?」
「私、一週間お休みもらったって言ったでしょ。8月19日から。とっくに過ぎてるのに、いつ帰ってくるのって、一回も聞かなかったよね」
電話の向こうで、息が止まった。
「売れたかどうかは、毎日聞いてきたのにね」
「お前……そんな女だったのか」
「黒川慎也さん」
付き合ってから、フルネームで呼んだのは初めてだった。
画面の中で、あの人が顔を上げる。
「私、もうそっちには帰らないから」
通話を切って、スマホを消音にした。
タブレットの中で、あの人はまだ、電卓の数字を見下ろしている。




