↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷点下の終末が来ると知っていたので、私を凍死させた恋人と親友の分の布団は全部捨てておいた  作者: 空の異変


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/10

第五話 夏布団しかない

9月6日。


朝のうちにベランダへ出て、山腹の通気口を見に行った。ステンレスの管も笠も、手で揺すってもびくともしない。


風は生ぬるく、空は薄い雲が一枚かかっているだけだった。


夜、最後のお風呂に長めに浸かってから、水道の元栓を閉めた。家じゅうの蛇口を開けて、管の水を抜く。


トイレの脇には、袋式の簡易トイレと凝固剤の箱を積んでおいた。


壕の入口側のベッドに、新しいシーツを掛ける。布団カバーのファスナーが、途中で布の端を噛んで止まった。


指で布を外して、もう一度、端まで引く。


壕の奥は、照明を消すとどこまでも暗い。


ホームセンターで買ってきた木の屏風を、ベッドの足元に立てた。これで、奥の暗がりは目に入らない。


一人で寝るには、ここは長すぎる。子どものころは、父と母の寝息が、暗がりとのあいだに挟まっていた。


おこげが、ベッドの横の猫用ベッドに潜りこんだ。毛布の端から、耳だけが出ている。


タブレットを開くと、マンションのリビングでは、二人がまた揉めていた。


瑠璃がテーブルの上のスマホを指で弾いて、慎也のほうへ滑らせる。


「電話、何回かけても出ない。メッセージも未読のまま」


「だから言っただろ。あいつ、逃げたんだよ」


「逃げた? あの小夜が?」


瑠璃はソファの背にもたれて、天井を見上げた。


「あの女、あんなに腹黒かったなんて、何年も気づかなかった」


「今さら言うなよ」


「ていうか、あんたもあんただよ。家を売るって言われて舞いあがって、言われるままに動画まで撮られて。あんた豚なの?」


「騙されやすいって、お前が言ったんだろ。俺だけ悪いことにするなよ」


「言ったよ。だって、ずっとそうだったじゃん。お人好しで、何でも先回りして片付けて」


瑠璃が、急に体を起こした。


「ちょっと待って。その1000万、あなたが借りたの?」


「は?」


「小夜が言ってるやつ。借用書、あるんでしょ。慎也のサインの」


「借りてねえって、何回言わせんだよ」


「じゃあ、なんでサインがあるの。なんで、あたしに黙ってたの」


慎也は答えなかった。缶ビールを握りつぶして、床に投げる。


私はタブレットを伏せて、屏風の木目を見ながら目を閉じた。


    *


目が覚めたのは、3時だった。


鼻の先が冷たい。布団から腕を出すと、空気が肌に刺さった。


カーディガンを羽織って、地下室から一階へ上がる。階段の途中で、吐く息が白くなった。


居間のカーテンを開ける。


窓の外は、真っ白だった。街灯の光の中を、大粒の雪が斜めに落ちつづけている。


スマホが震えた。緊急速報。


『浦篠市 現在の気温 −30度 不要不急の外出を控えてください』


一階の床から、冷たさが靴下ごしに這いあがってくる。


窓ガラスの内側に、もう霜の花が咲きはじめていた。前の人生の私なら、この時間はまだ、何も知らずに眠っていたころだ。


壕に戻って、夏掛けを羽毛布団に替えた。その上に、毛布をもう一枚。


重さが、体の上に落ち着く。


タブレットを点けると、マンションのリビングは煌々と明るかった。エアコンの風で、カーテンの裾が揺れている。


ソファの上で、二人がタオルケットにくるまっていた。夏用の肌掛けを二枚重ねて、その上からバスタオルまで掛けている。


「ねえ、温度、もっと上げてよ」


「上げてる。これで最大なんだよ」


瑠璃の歯が、かちかちと鳴っている。


「厚い布団が一枚もないの、どうして」


「知らねえよ。冬物は全部、小夜が片付けてたから」


「片付けてたって、どこに」


「押し入れだろ。上の段の」


慎也が立ちあがって、寝室の押し入れを開ける。


カメラの端に、空っぽの棚板が映った。圧縮袋も、毛布も、何もない。


「……ない」


慎也は隣のクローゼットも開けた。ハンガーだけが、からからと揺れる。


「何が」


「小夜の服。小夜のもん、全部ねえ」


瑠璃が、肌掛けから顔だけ出した。


「今ごろ?」


「うるせえな。お前だって気づかなかっただろ」


「あたしの家じゃないもん」


瑠璃は肌掛けを頭までかぶって、スマホの明かりだけを中で光らせた。


「ねえ、コンビニ行こうよ。毛布くらい売ってるでしょ」


「この雪でか。歩いて15分だぞ。外、−30度って出てんだろ」


「じゃあ、どうすんの」


慎也は答えずに、エアコンのリモコンをもう一度押した。表示は、さっきと同じ数字のままだった。


今ごろ、だ。私が出ていってから、19日たっている。


    *


5分後、スマホが鳴った。慎也だった。


スピーカーにして、枕元に置く。


最初は、何も聞こえなかった。荒い息を吸って、吐いて、また吸う音だけ。


カメラの中で、慎也はスマホを耳に当てたまま、ソファの肘掛けに額をつけていた。


「……小夜」


「うん」


「お前、何をしたいんだ」


怒鳴り声じゃなかった。息を整えて、わざと低くした声。


「何って?」


「家を売るって話も、嘘だったんだろ。荷物も全部持って出て。最初から、戻る気なかったんだろ」


「家を売る気がないのは、本当。戻る気がないのも、本当だよ」


「……戻ってこいよ。話せばわかるだろ。金のことも、ちゃんと話そう。な」


最後の「な」だけが、昔の慎也の声に似ていた。家を売る話をしていたときの、甘い声。


「話すこと、ないよ」


カメラの中で、慎也がスマホを顔から離した。


画面を何度か叩いて、もう一度耳に当てる。手元に、電卓アプリの数字がちらりと映った。


「……月いくら返せば、いいんだよ」


「返すって、私に?」


「金融の180万と、その利息と。お前の言ってる、残りの820万と。年15%って、お前……月いくらになると思ってんだよ」


彼の指が、画面の上で止まる。また動いて、また止まる。


瑠璃が、彼の肩越しに数字を覗きこんでいた。


「ねえ」


「何だよ」


「一週間の休みはもう過ぎたのに、聞かなかったよね」


「……は?」


「私、一週間お休みもらったって言ったでしょ。8月19日から。とっくに過ぎてるのに、いつ帰ってくるのって、一回も聞かなかったよね」


電話の向こうで、息が止まった。


「売れたかどうかは、毎日聞いてきたのにね」


「お前……そんな女だったのか」


「黒川慎也さん」


付き合ってから、フルネームで呼んだのは初めてだった。


画面の中で、あの人が顔を上げる。


「私、もうそっちには帰らないから」


通話を切って、スマホを消音にした。


タブレットの中で、あの人はまだ、電卓の数字を見下ろしている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。