第四話 返した覚えのない金
9月1日。
会社の私の机は、今ごろ誰かの段ボール置き場になっている。
朝のコーヒーを淹れてタブレットを開くと、マンションのリビングでは、ゆうべの続きが始まっていた。
「だから、行ってないって。何回言わせんの」
「じゃあ、なんで小夜があんなこと言うんだよ」
「知らないよ。あの子、あたしのこと嫌いなんじゃないの」
「お前、兄貴の借金のこと、俺には一言も言ってなかったよな」
「言う必要ある? 慎也だって、あたしに言ってないこと、あるでしょ」
瑠璃は膝を抱えて、慎也を下から睨んだ。
「ていうか、小夜の実家ってどこなの。行って、直接聞けばいいじゃん。誰に何を見られたのか」
「知らねえよ。山のほうってことしか」
「三年付き合ってて?」
「お前だって、大学からの付き合いだろ。聞いてないのかよ」
「……聞いてない」
二人とも、知らない。
両親の家の住所を、私は一度も教えなかった。あの二人が知りたがったのは、いつも家の値段のほうだった。
*
同じ日の午後、家事代行のおばさんが3人来た。
一階の北側の納戸には、業務用の冷凍庫を5台並べてある。暖房のない部屋で、壁の温度計は27度を指していた。
「冷凍庫、5台も。業務用じゃないの、これ」
「これ、全部埋めるんですか」
いちばん年上のおばさんが、冷凍庫のふたを一つ開けて、中の冷気に目を細めた。
「はい。おでんと、煮物と、餃子と。あとは冷凍のおかずを、小分けで」
「寄付か何か?」
「養護施設に寄付するんです。冷凍なら、日持ちするので」
おばさんたちは顔を見合わせて、それからエプロンの紐を結んだ。
持ってきてくれたタッパーの一つは、ふたが水色で、本体が黄色だった。
台所に、出汁の匂いが立つ。大根を下茹でする鍋の横で、餃子の皮が次々と閉じられていく。
「最近、北欧のほうじゃ薪が足りないんですってね」
「ヨーロッパはガス代がすごいって、ニュースでやってたわよ」
「日本だって、何かあったら困るわよねえ。うちなんてオール電化だから、停電したらおしまい」
私は餃子のひだを数えながら、口をはさんだ。
「薪や炭、あるだけで安心ですよ。停電しても、お湯くらいは沸かせますから」
「そうねえ。うちも、カセットコンロくらいは出しとこうかしら」
「あたしは炭だわ。夏にバーベキューで余ったのが、物置にあるはず」
「それ、湿気てない?」
笑い声が上がった。
一軒でも、本当に出してくれたらいい。それ以上のことは、私にはできない。
作業は4日に分けた。
冷ました料理を小分けにして、袋に中身と日付を書く。凍ったものから順に、冷凍庫へ。
肉と海老と秋刀魚は、届いた箱のまま、別の1台に詰めた。
最終日、別の業者が地下壕の入口に、七輪用の集気フードと排気管を取りつけて帰った。
スイッチを入れると、ファンが低く回りはじめる。警報器のランプが、緑に光った。
*
9月5日の夜、慎也から電話が来た。
ソファに座ると、おこげが当然のような顔で膝に乗ってくる。私はその背中に手を置いたまま、通話ボタンを押した。
通話の録音は、最初から入れてある。
「小夜、これ、どういうことだよ」
挨拶もなかった。
「何が?」
「何がじゃねえよ。消費者金融から、俺宛てに通知が来てんだよ。180万。借りた覚えなんかねえぞ」
「ああ、それ」
私は、モバイルバッテリーにつないだままのスマホを、反対の手に持ち替えた。
「慎也が返してくれたお金でしょ。私の口座に入ってたよ。ありがとね」
「……は?」
「7月に貸した1000万円。叔父さんの会社のときの。一部返済って、振り込んでくれたじゃない」
「何言ってんだよ。俺、小夜から金なんか借りてないだろ」
「借りたよ。ほら」
写真を一枚、送る。
借用書。金額1000万円、利息は年15%、返済期限は1年。
日付は、7月31日。いちばん下に、黒川慎也の署名。
電話の向こうが、静かになった。
聞こえるのは、息だけだった。短く吸って、吐くのを忘れたまま、しばらく止まる。
膝の上で、おこげが寝返りを打った。私はその背中を撫でつづける。
「……お前、何をしたんだ」
声が、さっきより一段低い。
「何って。貸して、返してもらってるだけだよ。残りは820万円ね。利息は別で」
「借りてない。俺は、借りてない」
「署名、慎也の字だよ」
「知らねえよ、そんなもん。こんなの、訴えるからな。弁護士に見せれば一発だぞ」
「どうぞ」
7月の末、叔父の工務店が職人さんたちの給料を払えなくなった。
私は両親の死亡賠償金から、現金で1000万円を下ろす。札束を抱えて一人で帰る自信がなくて、慎也についてきてもらった。
銀行の窓口で、札束の入った袋を受け取ったのは、慎也の手。
引き出しの記録は、銀行に残っている。あの日の窓口の上には、カメラもあった。
保証書の裏の署名は本物で、中身だけが嘘だ。
犯罪だとわかっている。裁判に勝つ気はない。
「お前、ふざけんなよ。今どこにいる。今から行くからな」
「実家だよ。不動産屋さんと話してるって、言ったじゃない」
「だから、その実家がどこだって聞いてんだよ」
電話の向こうで、何かを蹴る音がした。
おこげが耳を立てて、私の顔を見上げる。
私は答えずに、通話を終えた。
録音のファイルが一つ、画面の一覧に増えていた。
*
雪まで、あと2日。
玄関も、ベランダの扉も、内側に開くようになった。屋根裏には、父の補強の上に、新しい支柱が並んでいる。
大工さんの最後の請求書に判子を押して、私は車で街へ出た。
好きだった店で、いつもの辛いものを食べる。
帰りに花屋に寄って、両腕で抱えるほどの花束を作ってもらった。仏壇に供えるには、少し派手な色ばかり。
スマホには、慎也からのメッセージが40件たまっていた。既読は付けていない。
『金返せ』『どこにいる』『警察行くぞ』『電話出ろ』
通知の一行目だけが、画面の上を流れていく。
信号待ちのあいだ、助手席の花束を見ながら、8月19日の朝のことを思い出していた。
慎也が出ていったあと、私は寝室のクローゼットを開けた。
冬の掛け布団、毛布、圧縮袋の羽毛布団。私のダウン、慎也のダウン。
セーター、マフラー、手袋。押し入れの奥の電気毛布まで。
台所の米とパスタ、缶詰、冷凍庫の中身。調味料以外の食べ物は、全部。
予約していた回収業者さんに、まとめて引き取ってもらった。
冷蔵庫に残したのは、慎也の好きな炭酸水と、缶ビールと、瑠璃が置いていった紅茶のペットボトル。
二人とも、料理はしない。夏のあいだは、冬物の場所なんて誰も気にしない。
飲み物しか入っていない冷蔵庫の扉を、あの朝、私はそっと閉めた。




