第二話 鉄扉の向こう
8月19日の朝、慎也はいつもどおり8時に家を出た。
「じゃ、不動産屋の件、頼んだぞ」
「うん。いってらっしゃい」
ドアが閉まる。エレベーターの音が遠ざかるのを、玄関で待った。
10時に、予約しておいた回収業者が来た。
作業は1時間ほどで終わり、トラックは角を曲がって見えなくなる。
最後に、リビングの棚の上にある見守りカメラの向きを、少しだけ直した。ソファとテーブルが、画面の真ん中に収まるように。
キャリーバッグを助手席に固定して、エンジンをかける。
車で40分。
浦篠市の外れ、笹尾山の麓に、両親の家がある。
木造の二階建てに、地下室が一つ。事故のあと、私はここで一人で眠れなくなって、市街地のマンションを借りた。
玄関を開けると、こもった空気と、古い木の匂いがした。
居間のソファには、母の膝掛けが畳んだまま載っている。食卓の端に、父の老眼鏡。
三年前の朝、二人が車で出かけていったときの位置のままだ。
窓を開けて、風を通す。
二階の廊下の突きあたりは、両親の寝室だった。ドアノブに、うっすらと埃が積もっている。
私はその前を通りすぎて、自分の昔の部屋の窓を開けた。
*
地下室の奥の壁に、鉄の扉がある。
錆の浮いた取っ手を両手で引くと、ひんやりした空気が顔に当たった。
旧海軍の地下壕だ。
父がこの家を建てたとき、地下室を掘っていた壁の一部が崩れて、この穴が出てきた。父は市に届け出て、土地の権利の手続きまで済ませてから、ここを収蔵庫にした。
幅4m、奥行き50m。山の腹に向かって、まっすぐ伸びている。
懐中電灯で照らしながら、入口の柱に掛けたままの温湿度計を読む。
15度。
スマホのメモに打ちこむ。8月19日、地下壕、15度、湿度は低め。
外は蝉がうるさいのに、ここだけ季節が抜け落ちている。
入口のそばに、父の薪ストーブがあった。黒い鋳物で、煙突は壁の通気口へ抜けている。
その前に、色の褪せたキャンプ椅子が一脚。
小学生の夏休み、家族三人でここに布団を並べて寝た。
「ここ、夏は天国だなあ」
「冬は寒いのよ、きっと。お父さん、冬もここで寝るって言い出さないでね」
「電気代が浮くわねえ」と母は笑って、父はストーブの前のその椅子で、釣り竿の手入れをしていた。
壁の釣り具掛けには、今もその竿が掛かっている。投げ釣り用の、長い遠投竿。
中学のころ、浜でこれを借りて、父に投げ方を教わった。
「肘を伸ばしたまま。腕で投げるんじゃない、竿のしなりで飛ばすんだ」
何度も言われて、何度も足元に落とした。
父は、屋根の補強も自分で業者を呼んでやらせた人だった。雪なんか降らない町なのに、と母に呆れられながら。
懐中電灯を消すと、15度の暗闇が、肩のあたりまで降りてきた。
*
翌日から、業者が順番に来た。
最初は清掃業者だった。家の前に停まった軽トラのタイヤに、乾いた泥がこびりついている。
壕の中の古い棚を運び出し、床を掃いて、壁を石灰で塗り直していく。白くなった壁は、懐中電灯の光をよく返した。
地下室の、父の工具が並んだ棚にだけ、作業員さんの手が伸びかけた。
「すみません、その棚は動かさずにお願いできますか」
「あ、はい。じゃあ、ここは養生だけしときます」
帰りぎわ、清掃業者のリーダーの人が、白くなった壕の奥を振り返った。
「ここ、何に使われるんですか。倉庫にしては、きれいにしすぎかなって」
「父の倉庫だったんです。ちょっと、住めるようにしたくて」
「へえ。夏は涼しくていいですね」
2日目は板金屋さん。
壕の通気口は3本ある。2本はベランダ側の山腹に、1本は山の上へ抜けている。
「上のは道がないんで、無理ですね。下の2本なら、ステンレスの管を足して、笠も付けられますけど」
「お願いします。長めにしてください」
「長めって、どのくらい」
「雪が積もっても、埋まらないくらい」
板金屋さんは、ははっと笑った。
「雪ねえ。この辺で積もったの、俺が子どものころに一回あったかどうかですよ」
それでも、管は私の背丈より長いものを付けてくれた。
薪ストーブの店には、調理もできる型をもう1台、特急で頼んだ。
煙突は、既存の通気口の通り道を使う。出口は通気口の開口部から1m離して、金具で固定。
「一酸化炭素の警報器、電池式のを2つ付けときます。煙突があるからって、油断しないでくださいね」
設置に来た店員さんは、排気と給気を三度確かめてから帰っていった。
大工さんには、玄関とベランダの扉を、内開きに替えてもらう。
「内開き? 玄関をですか。雨の入りが面倒になりますよ」
「それでも、お願いします」
屋根裏の、父の補強の上から、支柱を何本か足す工事も頼んだ。こちらは月末までかかるらしい。
いちばん時間がかかったのは、井戸だった。
地下室の土間に機械を据えて、打ち抜きで3日。最終日に、井戸屋さんが首をかしげた。
「普通は庭に掘るんですけどね。なんでまた、家の中に」
「化粧品の研究をしてて。日の当たらない水が、要るんです」
「……はあ。化粧品」
「肌に優しい水って、光を嫌うんですよ」
もちろん、そんな話は聞いたこともない。
井戸屋さんは手押しポンプのハンドルを二度動かして、出てきた水をコップに受け、電球の光に透かした。
「たしかに、きれいな水ですね。検査の結果は、来週お持ちします」
*
24日までに、薪が2トン届いた。
乾いた広葉樹を、壕の奥の、壁際の乾いた一角に積みあげていく。ストーブからは十分に離して、通り道は空けたまま。
木炭は200kg、別の棚へ。物置の奥には、新しい七輪の箱を一つ入れた。
新しく買ったキャンプ椅子を父の椅子の隣に広げると、おこげがすぐに飛び乗って、丸くなった。
「そこ、私の席なんだけど」
焦げ茶の背中は、少しも動かない。
スマホが鳴った。慎也だった。
「小夜、会いたいよ。家のほうはどうなった?」
「まだ。不動産屋さん、何社か回ってるとこ」
「そっか。急がなくていいけどさ、相場とか、わかったら教えてよ。瑠璃も気にしてたし」
「うん」
「あ、それと、あのマンション、来月には別の人に決まるかもって。早いほうがいいかもな」
「わかった。頑張るね」
通話は、3分で終わった。
荷物のことも、私がいつ帰るのかも、一言も聞かれなかった。
私は父の椅子の脇にしゃがんで、ノートを開く。
備蓄の計画表。1ページ目のいちばん上に、日付の欄を作ってある。
開始、9月7日。
終了の欄に、ペン先を置いたまま、しばらく動けなかった。
前の私は、9月7日の夜に死んだ。そのあと雪がいつまで降って、いつ止んだのか、私は知らない。
空欄のまま、注文リストのページをめくる。
米の欄の40kgに線を引いて、横に60kgと書き直した。




