第一話 玄関の外、9月7日
ストーブの前で、七輪の網に乗せたカルビが脂を落としている。
慎也と瑠璃、二人だけを入れたグループに、その写真を送る。
「食べたい?」
*
見守りカメラを付けたのは、おこげの前足に、わけのわからない傷が続いたからだ。
平日の昼、そのカメラに映ったのは、私のベッドで寝転がる恋人と親友だった。
音声も、ちゃんと拾えていた。
「保険の受取人、先に慎也にしてもらいなよ」
「入籍してからのほうが自然だろ。急ぐと怪しまれる」
「籍さえ入れちゃえば、慎也が唯一の相続人でしょ。実家も、貸してるマンションも、駅前のテナントも」
「で、そのあとは?」
「そのあとは、いつでもいいじゃん」
瑠璃は笑いながら、私の枕に顔をうずめた。
大学からの親友と、三年付き合った恋人。二人が値札を付けていたのは、私の家と、私の命。
その夜、録画を突きつけた私は、二人がかりで殴られて、外廊下に押し出された。
ドアが閉まって、内側でチェーンの掛かる音がした。
9月7日。廊下の手すりに、雪が積もっていた。
部屋着の半袖から出た腕が、見ているうちに赤くなり、それから白くなる。
ドアの向こうから、テレビの声が漏れてきた。
「――浦篠市の現在の気温は−50度です。屋外には絶対に出ないでください」
スマホも財布も、靴さえ、ドアの内側にある。
向かいの部屋のインターホンを押した。
階段を一つ降りて、真下の部屋のドアを叩いた。
這うようにして、自分の部屋の前まで戻った。
「上着、一枚だけでいいんです。貸してください」
「110だけでも、かけてもらえませんか」
「スマホと財布だけでも、返して」
誰もドアを開けなかった。
指が、自分のものではなくなっていく。頬をつけた床は、もう冷たいとも感じない。
次があるなら。
今度は、あんたたちが、このドアの外に立てばいい。
*
暑い。
最初に来たのは、それだった。
うなじに汗が張りつく。目の前で、ガラスの自動ドアが開いては閉じている。
「宇佐美さん、早くしてよ。後ろ、詰まってるから」
肩を押されて、ようやく足が動いた。
会社のエントランスだ。同じ課の先輩が、怪訝な顔で私を追い越していく。
「宇佐美さん、大丈夫? 顔、真っ青だけど」
「……大丈夫です。暑くて、ちょっと」
握っていたスマホの画面には、8月18日(月)、8時52分。
あの夜まで、20日ある。
喉の奥から、変な音が出た。笑い声のつもりだったのに、途中から嗚咽に変わって、受付の警備員さんがこちらを見た。
トイレの個室に駆けこんで、ハンカチで顔を押さえる。
二人の顔を思い浮かべると、指先がまた震えた。今すぐ部屋に戻って、全部ぶちまけてやりたい。
――違う。順番が逆だ。
あの二人は後回し。先に、雪だ。
9月7日の夜に、−50度が来る。それだけは、骨が覚えている。
始業のチャイムが鳴ってすぐ、課長の席へ行った。
「有給、残っている分を全部使わせてください。退職届も、今日出します」
「……急だね。何かあった?」
「家のことで、少し」
課長は退職届と私の顔を見比べて、それ以上は聞かなかった。
9月1日付けの退職。今日から先、ここへはもう来なくていい。
机の私物を紙袋に入れる。社員証のケースの角に、剥がしきれなかった値札の糊が残っていた。
爪でこすっても取れないので、そのまま袋に落とす。
昼過ぎには、同居しているマンションに戻っていた。
6階の、外廊下に面した部屋。契約者は私で、家賃も半分以上は私が払っている。
通帳、印鑑、実家の権利証。両親の写真が入ったアルバム。
必要なものを一つずつ、ボストンバッグに詰めていく。
家電の保証書の束から、一枚だけ抜き出した。裏の余白いっぱいに、慎也の名前が並んでいる。
新しいボールペンの書き味を試しただけの、意味のない落書き。私はそれを、通帳と同じクリアファイルに挟んだ。
床に広げたボストンバッグに、おこげが勝手に入りこんで丸くなる。
「まだ出かけないよ」
返事のかわりに、焦げ茶の尻尾が一度だけ、鞄の縁を叩いた。
*
夕方、テーブルに料理を並べた。
唐揚げ、ポテトサラダ、冷しゃぶ、だし巻き卵。慎也の好物ばかりだ。
19時過ぎに、玄関の鍵が回った。
「ただいま。……え、何これ。今日、なんかの日だっけ」
「なんの日でもないよ。先にシャワー浴びてきたら?」
「お、おう」
慎也は財布とスマホを靴箱の上に置いたまま、浴室へ消えた。
シャワーの音が続いているあいだに、財布から免許証を抜く。
表と裏を撮り、角度を変えてもう一枚。元の場所に戻すまで、1分もかからなかった。
濡れた髪のまま、慎也がテーブルにつく。
「で、マジで何のお祝い?」
「決めたんだ。実家のこと」
唐揚げに伸びかけた箸が、止まった。
「一軒、売ろうと思って。慎也が前に見てた駅前のマンション、あそこを新居にしない?」
「……本気で言ってる?」
「本気だよ。明日から一週間、お休みもらったの。向こうに泊まって、不動産屋さんと話してくる」
慎也が椅子を鳴らして立ちあがり、テーブルを回りこんでくる。
腰に回りかけた腕を、私は肘で押し返した。
「ごはん、冷めるよ」
「いや、だってさ。ずっと渋ってたじゃん、小夜」
渋っていたんじゃない。売りたくなかっただけだ。
両親が事故で死んで、三年。あの家の家具は、一つも動かしていない。
前の人生の私は、この顔が見たくて、本気で家を一つ手放すつもりでいた。
前世の私、そこで喜ぶな。まだ家を売る話しかしてないよ。
慎也は唐揚げを二つ続けて頬張り、缶ビールを開けた。
「瑠璃にも言っていい? あいつ、ずっと心配してたからさ。小夜が実家に縛られてるって」
心配。そうだね、心配してたよね。
保険の受取人のことを。
「いいよ。でも、ちゃんと決まってからにして」
「わかってるって」
食後、私はスマホを横向きに構えた。
「ね、動画撮ろ。新居決定記念」
「やだよ。俺、撮られるの嫌いなの知ってるだろ」
「今日だけ。ほら、こっち見て」
慎也は渋い顔のまま、それでもレンズのほうを向いた。家を売る女の頼みなら、多少は聞く気になるらしい。
「はい、まばたきして」
「なんでまばたき」
「いいから。……もう一回。今度は首、右に。次、左」
「何これ。なんの儀式?」
「顔が面白くなるアプリなんだって」
彼が笑いながら首を振るたび、画面の隅の小さな表示が、一つずつ進んでいく。
「あー、だめ。うまく撮れない。私、こういうの下手なんだよね」
「バカだな。撮るのに上手も下手もないだろ」
慎也は私の頭を、ぽんと軽く叩いた。
この「バカだな」を、私は三年間、愛情だと思っていた。
その夜、慎也はテレビをつけたまま、ソファで寝息を立てはじめる。
テーブルの上で、彼のスマホが何度か震える。
家計を任されてから、彼のスマホの暗証番号を知らなかった日はない。
銀行アプリを開くと、消費者金融数社からの振込が並んでいた。合計で、180万円。
それを、自分の口座へ移す。入れたばかりのアプリを、一つずつ消していく。
画面が元どおりになったスマホを、テーブルの同じ位置に戻した。
寝返りを打った彼の背中に、テレビの笑い声がかぶさる。
寝室で、クローゼットを開けた。
冬用の掛け布団と毛布。私のダウンと、慎也のダウン。
その下に、セーターの山。
押し入れの上の段には、来客用の羽毛布団が二組、圧縮袋に入ったまま眠っている。
真夏の夜に見るそれは、ただのかさばる荷物だった。
布団は、明日捨てよう。




