第8話 小さな宿場村
洞窟を出た後、二人は近くの小川で泥を洗い流した。
嵐はすっかり過ぎ去っている。
青空が広がり、山々の向こうには柔らかな陽光が差していた。
ルカは革袋の中身を確認する。
食料は残り少ない。
干し肉も数日分しか残っていなかった。
「まずは人のいる場所を探さないと」
ルカが言う。
ハルトも静かに頷いた。
二人は山道を下りながら東へ向かった。
歩きながら、ルカは何度もハルトを見てしまう。
見慣れない服。
整った顔立ち。
そしてどこか浮世離れした雰囲気。
不思議な青年だった。
視線に気付いたのか、ハルトがこちらを見る。
「どうかしたか?」
「あ、いえ……」
ルカは少し困ったように笑う。
「その服、やっぱり変わってるなと思って」
ハルトは自分の服を見下ろした。
少し考える。
「そうなのか」
それだけだった。
本人にも分からないらしい。
夕方前。
二人は小さな宿場村へ辿り着いた。
村は思ったより賑やかだった。
行商人の荷車が並び、人々の話し声が響いている。
ルカは周囲を見回した。
果物を売っている薄い鱗を持つ女性。
荷車の修理をしている背の低い男達。
広場を走り回る獣耳の子ども達。
リザード。
ドワーフ。
ビースト。
旅に出てから初めて見る大きな村だった。
ハルトは獣耳の子ども達を見つめていた。
「珍しいですか?」
ルカが尋ねる。
ハルトは少し首を傾げる。
「分からない」
正直に答えた。
「見たことがある気もする」
「でも初めて見る気もする」
記憶を失った彼らしい答えだった。
二人は宿屋へ向かう。
その途中だった。
通りを歩いていたビースト族の女性がルカを見る。
そして隣の子どもの肩をそっと抱き寄せた。
ほんの一瞬のことだった。
だがルカは気付いていた。
少し距離を取られたのだ。
宿屋の前ではリザードの商人が荷物を整理していた。
ルカを見る。
そして何かを考えるような顔をした後、少し離れた場所へ移動した。
露骨ではない。
だが避けられたことは分かった。
ハルトもそれに気付いたらしい。
「避けられているのか?」
ルカは首を横に振った。
「違います」
そう言いながらも、少し寂しそうに笑う。
「たぶん、ヒューマンだからです」
「ヒューマンだから?」
「黒炭病です」
ハルトは黙ったまま話を聞いていた。
「黒炭病はヒューマンだけがかかる病気なんです」
「だから怖がる人もいます」
「うつるかもしれないと?」
「そうです」
本当にうつるのかは誰も知らない。
原因も分からない。
治療法もない。
だから恐れられている。
特に他種族の中には、黒炭病を呪いのように考える者もいる。
「気にならないのか?」
ハルトが尋ねた。
ルカは少し考えた。
「気にならないわけじゃありません」
正直に答える。
「でも仕方ないんです」
旅の途中でも何度か似たような視線を感じていた。
ヒューマンだと分かると少し距離を取られる。
珍しいことではない。
怒る気にもなれなかった。
黒炭病を恐れる気持ちは理解できるからだ。
二人は宿へ入った。
食堂には様々な種族が集まっていた。
ドワーフ達が酒を飲んでいる。
リザードの商人達が静かに話している。
奥では狼耳のビースト族の旅人達が食事をしていた。
ルカ達が入ると、一瞬だけ空気が止まった。
何人かがルカを見る。
ヒューマンだと分かったのだろう。
小さな声も聞こえた。
「ヒューマンか」
「最近また増えてるらしいな」
「黒炭病じゃないだろうな」
「分からん」
「近寄るなよ」
囁くような声だった。
悪意というより警戒だった。
ルカは慣れていた。
気にしないように席へ座る。
だがハルトは周囲を見回していた。
何も言わない。
ただ、その様子を静かに見ている。
そして小さく呟いた。
「生きづらそうだな」
ルカは少し驚いた。
責めるような口調ではなかった。
ただ率直な感想だった。
「慣れました」
そう答える。
けれど少しだけ嬉しかった。
自分を哀れむのではなく、ただ見たままを口にしてくれたからだ。
夕食は野菜の煮込みと硬いパンだった。
豪華ではない。
それでも温かい食事はありがたかった。
食事をしていると、隣の席に座っていた旅人達の会話が耳に入った。
「東で見たって話、あれ本当なのか?」
「ああ、白い影だろ」
「影?」
「山の向こうに、馬鹿みたいにでかい白い巨木が見えたらしい」
ルカの手が止まった。
世界樹。
その言葉は出ていない。
けれど胸が高鳴る。
「本当に樹だったのか?」
「さあな。見た奴は塔みたいだったとも言ってた」
「樹なのか塔なのか、どっちなんだよ」
「だから誰も信じちゃいないんだ」
旅人達は笑った。
「どうせ霧か雲の見間違いだろ」
「東の方じゃ、そういう話は昔から多い」
ルカは思わず身を乗り出しそうになった。
白い巨木。
塔のような影。
それは世界樹のことではないのか。
そう思った時だった。
隣でハルトが動きを止めていた。
パンを持ったまま、じっと一点を見つめている。
「ハルトさん?」
ルカが声をかける。
ハルトはすぐには答えなかった。
「白い……」
小さく呟く。
「え?」
「いや」
ハルトは額に手を当てた。
「分からない」
「でも、その言葉を聞いたら……少し変な感じがした」
「変な感じ?」
「ああ」
ハルトは窓の外を見る。
東の空は、すでに夜の色へ変わっていた。
「何かを思い出しそうになった」
ルカは息を呑む。
「世界樹のことですか?」
「分からない」
ハルトは首を振る。
「そもそも、俺は世界樹を知らない」
そう言いながら。
彼の視線は東から離れなかった。
その夜。
ルカはすぐに眠りについた。
長旅の疲れが残っていたのだろう。
小さな寝息が聞こえてくる。
一方、ハルトは窓際に立っていた。
東の空を見つめる。
星が輝いている。
なぜだろう。
あの方角が気になる。
何かがある。
何かが自分を待っている。
そんな気がする。
だが思い出せない。
ただ一つだけ。
ほんの一瞬。
白く巨大な影が脳裏をよぎった。
樹だったのか。
塔だったのか。
それとも……。
分からない。
次の瞬間には消えていた。
「……なんなんだ」
小さく呟く。
答える者はいない。
夜風だけが静かに吹いていた。
――第8話 小さな宿場村 終――
【次回】
第9話 森の襲撃者




