第7話 眠り人
青年の瞼が開いた。
ルカは息を止めた。
目の前で起きていることが信じられなかった。
青年は二十歳前後に見えた。
黒い髪は少し長く、額にかかっている。
肌は驚くほど白かった。
まるで長い年月、太陽の光を浴びていなかったかのように。
整った顔立ちだったが、どこか儚げな雰囲気がある。
そしてルカの目を引いたのは、その服装だった。
上下とも一枚布ではなく、体に合わせて仕立てられた不思議な衣服。
旅人とも村人とも違う。
見たことのない形だった。
けれど派手ではない。
長い眠りの中にあったとは思えないほど傷みも少なかった。
そしてゆっくりと開いた瞳は深い黒色をしていた。
不思議な目だった。
鋭さよりも静けさを感じさせる。
まるで長い夢の続きを見ている人のようだった。
青年はしばらく天井を見つめていた。
やがてゆっくりと視線を動かす 。
そして箱の外にいるルカを見つけた。
二人の目が合った。
地下空間に静寂が落ちる。
その時だった。
シュ…
かすかな音が響いた。
まるで長い年月閉ざされていた扉が、静かに開くような音だった。
青年を覆っていた透明な蓋がゆっくりと持ち上がる。
閉じ込められていた空気が流れ出し、青年の黒髪がわずかに揺れた。
ルカは思わず後ずさる。
だが目を離せない。
青年はゆっくりと上体を起こした。
その動きはぎこちなかった。
まるで生まれたばかりの子鹿のように頼りない。
青年は自分の手を見つめる。
指を握る。
開く。
もう一度握る。
次に足を見る。
そして周囲を見回した。
「ここは……」
かすれた声だった。
長い間、誰とも話していなかった人の声。
青年は額を押さえた。
苦しそうに眉をひそめる。
「どこだ……?」
ルカは少しだけ安心した。
言葉は通じるらしい。
「ナゴル地方の遺跡です」
「ナゴル……?」
青年は首を傾げた。
聞いたことがないような反応だった。
ルカは不思議に思う。
ここにいるのに地名を知らない人間などいるのだろうか。
「私はルカです」
青年はその名前を繰り返した。
「ルカ……」
何かを確かめるように。
そして再び黙り込む。
「あなたは?」
ルカが尋ねる。
青年は目を閉じた。
何かを思い出そうとしているようだった。
「俺は……」
言葉が途切れる。
「俺は……」
苦しそうな表情になる。
長い沈黙の後。
「ハルト」
小さく呟いた。
「たぶん、それが俺の名前だ」
「たぶん?」
ルカは聞き返した。
ハルトは困ったように笑う。
「それ以外が思い出せない」
ルカは目を丸くした。
「何も?」
「ああ」
ハルトは頷く。
「家族も」
「どこから来たのかも」
「どうしてここにいたのかも」
「何も分からない」
本当に記憶がないらしかった。
嘘をついているようには見えない。
むしろ本人が一番困っているようだった。
その時だった。
ぐぅぅぅ……
静かな地下空間に妙な音が響く。
二人とも固まった。
ハルトのお腹だった。
一瞬の沈黙。
そして。
ルカは思わず吹き出した。
「あははは!」
こんな状況なのに。
記憶喪失の謎の青年なのに。
お腹が鳴るなんて。
あまりにも普通だった。
ハルトは少しだけ恥ずかしそうな顔をした。
「すまない」
「謝らなくていいです」
ルカは笑いながら革袋を開いた。
残っていた干し肉を差し出す 。
「食べますか?」
ハルトは少し迷ったが受け取った。
「ありがとう」
一口かじる。
しばらく噛みしめる。
そして驚いたような顔になった。
「美味い」
ルカはまた笑った。
少しだけ警戒心が薄れる。
しばらく二人は無言で食べた。
やがてハルトが立ち上がる。
少しふらついたが倒れはしなかった。
地下空間を見回す 。
「ここから出られそうか?」
「たぶん」
ルカも周囲を見る。
落ちてきた穴は高すぎて戻れそうにない。
別の出口を探すしかなかった。
二人は地下空間の奥へ歩き始める。
すると細い通路が見つかった。
自然にできた洞窟のようだった。
しばらく進む。
やがて前方に光が見えた。
「出口です!」
ルカの声が弾む。
二人は急いで歩いた。
洞窟を抜ける。
外には青空が広がっていた。
嵐は過ぎ去っている。
冷たい風が吹き抜けた。
ハルトは眩しそうに空を見上げる。
そして静かに東の空へ視線を向けた。
山々の向こう。
遥か遠く。
何かを探すように。
「どうしたんですか?」
ルカが尋ねる。
ハルトはしばらく黙っていた。
「分からない」
そう答える。
「でも、あっちへ行かなきゃいけない気がする」
指差した先は東だった。
ルカは少し驚く。
自分もまた東へ向かおうとしているからだ。
「私は東へ行きます」
ルカは言った。
「母を助けるために」
ハルトは静かに聞いていた。
「世界樹を探しているんです」
ハルトは首を傾げた。
「世界樹?」
聞き慣れない言葉だった。
「東にある大きな樹です」
ルカが説明する。
だがハルトは不思議そうな顔をするだけだった。
「分からない」
正直にそう答えた。
「聞いたことはない」
ルカは少し肩を落とした。
だが次の瞬間。
ハルトは再び東を見る。
理由は分からない。
記憶にもない。
それでも胸の奥がざわつく。
懐かしい場所を思い出しそうな感覚。
「でも」
ハルトは小さく呟く。
「東へ行かなきゃいけない気がする」
「どうしてですか?」
「分からない」
ハルトは苦笑した。
「本当に何も分からないんだ」
それでも東だけは気になる。
理由のない確信だった。
ルカはしばらく考えた。
記憶を失った謎の青年。
だが悪い人には見えない。
それに、自分も東へ向かう。
「じゃあ」
ルカは微笑んだ。
「一緒に行きますか?」
ハルトは少し驚いた顔をした。
そして小さく笑う。
「ああ」
それがハルトの最初の笑顔だった。
「よろしく頼む」
こうして。
世界樹を目指す少女ルカと。
長い眠りから目覚めた記憶喪失の青年ハルト。
二人の旅が始まった。
――第7話 眠り人 終――
【次回】
第8話 小さな宿場村




