第5話 旅の試練
オーサ村を出てから十日が過ぎていた。
旅はルカが思っていたよりもずっと厳しかった。
歩けば目的地へ着く。
最初はそんなふうに考えていた。
だが現実は違う。
道は長い。
夜は寒い。
食料は限られている。
そして何より。
一人だった。
旅立ちから三日目。
ルカは森の中で野犬の群れに遭遇した。
最初に気付いたのは唸り声だった。
低く不気味な音。
木々の間から五匹の野犬が現れる。
黄色い目がルカを見つめていた。
背筋が凍る。
逃げようとしても足が動かない。
父が生きていた頃なら笑って追い払っていただろう。
村一番の猟師だった父なら。
だが今は違う。
ルカは一人だった。
震える手で父の短剣を抜く。
「来ないで!」
必死に叫んだ。
近くに落ちていた枝を拾い、何度も振り回す 。
野犬達は警戒するように距離を取った。
だが去らない。
喉が渇く。
足が震える。
怖かった。
情けないほど怖かった。
父なら平気だったのに。
自分はまだ父ほど強くない。
その現実を突き付けられる。
しばらく睨み合いが続いた後。
野犬達は興味を失ったように森の奥へ消えていった。
ルカはその場へ座り込む。
全身から力が抜けた。
「はぁ……」
生きている。
ただそれだけで安堵した。
旅は始まったばかりだった。
旅立ちから六日目。
小さな宿場町へ辿り着いた。
そこで親切そうな男に声を掛けられる。
「旅人か?」
「はい」
「若い娘が一人とは大変だな」
男は笑顔だった。
だがルカは違和感を覚えた。
男の目が何度も革袋へ向いている。
銀貨の入った袋へ。
その時だった。
「おい!」
宿屋の主人が大声を上げた。
「また旅人を騙そうとしてるのか!」
男は舌打ちすると足早に去っていった。
ルカはようやく理解する。
世の中には親切な人ばかりではない。
旅人は自分の身を守らなければならない。
父もそうやって生きてきたのだろう。
そして十日目。
山道で道に迷った。
地図など持っていない。
目印もない。
二日近く人に会えなかった。
食料も少なくなる。
夜になると不安が押し寄せてきた。
焚き火の前で一人座る。
聞こえるのは風の音だけ。
暗闇の向こうには何がいるか分からない。
「帰りたいな……」
思わず呟いてしまう。
すると胸元の首飾りが目に入った。
父の形見。
ルカはそれを握りしめる。
今ならまだ戻れる。
オーサ村へ。
母の元へ。
暖かな家へ。
そう考えた瞬間。
ルカは首を振った。
「駄目」
母を救うと約束した。
まだ何も始まっていない。
ここで帰れば一生後悔する。
焚き火の炎を見つめる。
旅立ちの日。
母が見送ってくれた姿を思い出した。
『必ず帰ってくるのよ』
あの言葉が耳に残っている。
「絶対に帰るから」
小さく呟く。
そのためにも。
まずは前へ進まなければならなかった。
翌朝。
ルカは再び歩き始めた。
その後も旅は続く。
十六日目。
ある小さな村へ立ち寄った。
そこでルカは忘れられない光景を見る。
家の前に人だかりができていた。
すすり泣く声が聞こえる。
嫌な予感がした。
近付く。
家の中では一人の男が寝台に横たわっていた。
腕は黒く変色している。
黒炭病だった。
傍らでは妻が泣いている。
小さな娘が父の手を握っていた。
「お父さん……」
少女は何度も呼びかける。
「お父さん、起きて」
返事はない。
「お父さん……」
その声を聞いた瞬間。
ルカの足が止まった。
五年前の記憶が蘇る。
父。
黒炭病。
最後の言葉。
東へ飛んでいった灰。
気付けば拳を握り締めていた。
何も変わっていない。
今も誰かが苦しんでいる。
今も誰かが家族を失っている。
ルカは静かに家を離れた。
夕暮れの街道を歩く。
東の空が赤く染まっていた。
「絶対に見つける」
小さく呟く。
世界樹を。
病を治す方法を。
母を救うためだけではない。
もうそれだけではなかった。
黒炭病で苦しむ人を、これ以上見たくなかった。
旅立った時よりも、その決意は強くなっていた。
そして旅立ちから二十日目。
景色が変わり始める。
森が減り。
岩山が増える。
風も冷たくなる。
旅人から聞いた話では、この先がナゴル地方だった。
古代の遺跡が眠る土地。
夕日が遺跡を赤く染めている。
ルカは遠くの山々を見上げた。
その向こうに世界樹への手掛かりがあるかもしれない。
そう思った時だった。
遠くで雷鳴が響いた。
ゴロゴロと低い音が山々に反響する。
見上げると、いつの間にか黒い雲が空を覆ってきていた。
冷たい風が吹き抜ける。
どこか嫌な気配だった。
まるで何かが始まろうとしているような。
ルカは無意識に胸元の首飾りを握った。
そして東を見つめる。
黒い雲の向こう。
まだ見ぬ世界。
まだ知らない運命。
その全てが、すぐそこまで迫っていた。
ルカは歩き続ける。
東へ。
世界樹へ。
運命の出会いが待つとも知らずに。
――第5話 旅の試練 終――
【次回】
第6話 嵐の夜




