第3話 東への決意
診療小屋からの帰り道。
ルカは一人で村外れの丘へ向かっていた。
子どもの頃からよく来る場所だった。
嫌なことがあった時。
悲しいことがあった時。
父に叱られた時。
いつもここへ来ていた。
丘の上からはオーサ村が見渡せる。
小さな家々。
畑。
森。
十七年間暮らしてきた故郷だった。
夕日が西の山へ沈み始めている。
ルカは草の上に腰を下ろした。
頭の中では医師の言葉が何度も繰り返されていた。
世界樹。
病を癒す秘宝。
そして禁忌の地。
「どうしたらいいの……」
誰に聞くでもなく呟く。
母を助けたい。
その気持ちは変わらない。
けれど世界樹は伝説だ。
本当に存在するかも分からない。
もし存在しなかったら。
もし秘宝がなかったら。
旅は無駄になる。
母は助からない。
ルカは胸元の首飾りを握った。
父の形見。
少し傷ついた銀の首飾りだった。
幼い頃、父がくれたものだ。
その時、不意に昔の記憶が蘇った。
まだルカが幼かった頃。
父と二人で森へ入った日のことだった。
獣の足跡を追いながら歩いていた時、父が突然立ち止まった。
「どうしたの?」
幼いルカが尋ねる。
父は木々の隙間から東の空を見ていた。
「いや」
そう言って笑う。
「東には何があるんだろうなって思ってな」
「山?」
「その先だ」
父は楽しそうだった。
「もっとずっと先」
「何があるの?」
「さあな」
父は肩をすくめた。
「世界樹とか」
ルカは笑った。
「おとぎ話じゃん」
「そうかもしれないな」
父も笑った。
けれど今思えば。
父は本当に東の世界へ憧れていたのかもしれない。
「お父さんならどうするかな……」
風が吹いた。
東からの風だった。
草が揺れる。
その時だった。
「そんな顔をしておると、父親そっくりじゃな」
後ろから声がした。
振り返る。
長老だった。
白い髭を胸まで伸ばした老人が杖をつきながら近付いてくる。
「長老」
「話は聞いた」
ルカは苦笑した。
「村中に広まってますね」
「狭い村じゃからな」
長老は隣に腰を下ろした。
しばらく二人は黙って夕日を見ていた。
やがて長老が口を開く。
「迷っておるのか」
「……はい」
ルカは素直に答えた。
「世界樹が本当にあるのか分からないんです」
「そうじゃろうな」
「もしなかったら」
言葉に詰まる。
その続きを言いたくなかった。
長老は静かに頷いた。
「儂も見たことはない」
「え?」
ルカは顔を上げた。
「長老でも?」
「見たことのある者など、この村にはおらん」
老人は笑った。
「おそらくこの国にもな」
ルカは少し驚いた。
長老なら何か知っていると思っていた。
だが違った。
「じゃあ、どうして皆そんな伝説を信じるんですか」
長老は東の空を見た。
夕焼けが少しずつ薄れていく。
「儂の祖父がな」
「はい」
「若い頃に世界樹を探したことがある」
ルカは目を見開いた。
「本当に?」
「本当じゃ」
長老は笑う。
「結局見つからなかったらしいがな」
ルカは少し肩を落とした。
やはり伝説なのだろうか。
だが長老は続けた。
「それでも祖父は死ぬまで言い続けておった」
「なんて?」
長老は遠くを見るような目をした。
「世界樹はある」
「いつか誰かが辿り着く」
ルカは黙った。
風が吹く。
東からの風だった。
父が灰となって消えた日も、確か東から風が吹いていた。
そして。
父の灰は風に逆らうように東へ飛んでいった。
あの光景だけは忘れられない。
黒い灰。
その中に混じっていた小さな光。
世界樹の方角へ消えていった父。
なぜだったのか。
今でも分からない。
だが。
もし世界樹が本当に存在するなら。
あの出来事にも意味があるのかもしれない。
「父さんも同じことを言っておった」
長老がぽつりと言った。
ルカの心臓が跳ねる。
「お父さんが?」
「ああ」
長老は笑った。
「若い頃はよく世界樹の話をしておった」
知らなかった。
父がそんな話をしていたなんて。
「世界樹を見てみたい」
「東の果てまで行ってみたい」
「そんなことばかり言っておったな」
ルカは首飾りを握りしめた。
父の形見。
父の夢。
父が最後に見ていた東。
全てが繋がっていく気がした。
「長老」
「なんじゃ」
ルカは立ち上がった。
もう迷っていなかった。
「私、行きます」
長老は何も言わない。
ただ静かに見上げている。
「世界樹を探します」
「母を助けたいんです」
「たとえ伝説でも」
「可能性があるなら」
長老はゆっくり頷いた。
そして小さく笑った。
「やはり行くか」
その声はどこか嬉しそうだった。
「親子というものは不思議なものじゃな」
「お前さんも、父親と同じ目をしておる」
ルカは思わず首飾りを握った。
父もまた世界樹を信じていた。
父もまた東を見ていた。
長老の言葉を聞き、ルカの決意はさらに強くなる。
不安が消えたわけではない。
怖くないわけでもない。
それでも。
立ち止まる理由はなくなった。
夕日が沈む。
東の空には薄く星が見え始めていた。
遥か彼方。
山の向こう。
誰も見たことのない世界樹。
そこに母を救う方法があるかもしれない。
ルカは静かに誓った。
必ず辿り着く。
母を救うために。
そして、父が見たかった景色を見るために。
その夜。
ルカは旅立ちを決意した。
――第3話 東への決意 終――
【次回】
第4話 旅立ちの日




