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客室の操縦士

 比呂は小川沿いに畑からホテルへ戻り、その裏口を横目に通り過ぎる。北斗によると、勇魚は物干し場にいるだろうということだった。物干し場はホテルの裏手を通り過ぎ、畑とは反対方向にあるらしい。

 ホテルとそう離れていない場所に、森が拓けている一画が見えてきた。木々の切れ間からは、風にはためく真っ白なシーツが見え隠れしている。

 遠くから風に乗って鼻歌が聞こえてきていた。それは幼い子供の声で、昨日聞いた旋律に似ている。子兎や子狐がコロコロと遊びまわっているような、軽やかで楽しげな旋律だ。どうやら現在の彼女の機嫌は悪くないらしい。

 「勇魚、手伝いにきたぞ」

 道に飛び出した木の枝を押さえながら比呂が顔を出すと、唐突な出現に驚いた勇魚が、シーツに手を伸ばした体勢のまま体を固くして動きを止めた。彼女の後頭部でまとめられた髪だけが、ふらふらと頼りなく揺れる。

 その姿は、小学校の飼育小屋に居た茶色い兎が驚いて固まる姿によく似ていて、比呂は思わずくすりと笑ってしまう。兎なのに比呂の足音には気づかなかったらしい。

 勇魚は長い耳を小刻みに揺らすと、ぎこちない動きで上半身をこちらに向けた。顔が真っ赤になっている。その顔を見た瞬間、ああ、しくじった、と思った。

「なっ、なんであんたが、ここに来るのよっ」

「手伝いに来たんだけど……」

「それで、私が能天気に歌うたってるの聞いて、ニヤニヤしてたっていうの!?」

「いや、ニヤニヤしてないし、笑ったのは別のことで……」

「笑ってたのね!?」

 勇魚は顔を真っ赤にして震え上がると大きく跳ね上がり、干されたシーツの向こうに姿を消した。鼻歌を聞かれたことが、彼女にとっては耐え難いほどの恥辱だったらしい。地団太を踏みながら騒いでいる影が、シーツに映っている。

 聞かれてそれほど恥ずかしいものでもなかったと思うが、ここまで嫌がるのなら、自分が悪かったのだろう。どうやら勇魚と自分はタイミングが合わないらしい。一度亜月のところに戻ってから出直そう。

 「勇魚、聞いちゃってごめんな。またあとで来るよ」

 声をかけて踵を返すと、背後で「えっ」と聞こえた。

 思わず比呂が振り向くと、シーツの脇から眉尻を下げた勇魚が顔を出していた。

「か、帰れなんて言ってないんだけど……」

「……」

 ここで笑わなかった自分を褒めたい――比呂はそう思ったと、のちに語る。


 勇魚は斜めになりかけた機嫌を立て直したらしく、ご機嫌で比呂の横に並んだ。小さな体で大きく身振り手振りしながら、いろいろと教えてくれる。

「北斗は畑で、私はホテルの部屋を綺麗にする係なのよ」

「へぇ。力仕事もあるだろうに、偉いじゃんか」

 生意気な子兎と思われていた勇魚は、比呂が褒めると素直に喜んで胸を張った。

「当たり前でしょ。綺麗なお部屋に泊まってほしいもの」

「ホテル全部、勇魚が整えてるのか?」

「私がやらなきゃ誰がやるのよ! ……その、とっても重いのとかは、亜月にも手伝ってもらうけど」

 亜月は畑のみならずここでも、助っ人として働いているようだ。

 大人に手伝ってもらっているにしても、ちゃんとした役割を与えられて、それをこなしているのだ。勇魚も北斗も体は小さいけれど、自分よりもよほどしっかりしている。比呂は、アルバイトはしつつも無為に過ごしていた自分を思い出して恥じ入る。

「……でも、大丈夫なのよ? きちんと整えて亜月にも褒めてもらえるくらいだもの」

 比呂が黙ったことで不安になったのか、勇魚が不安げに言葉を繋いでくる。こちらを見上げる朱鷺色の瞳は、まっすぐ比呂に向いている。その眼差しに励まされるように、比呂は顔を上げて笑った。

「さすが勇魚だな」

「ひ、比呂に褒められたって嬉しくないけどっ」

 北斗にしたように彼女の頭に手を置いてみれば、それはすげなく振り払われた。レディにボディタッチはまだ早かったようだ。


 耳を空目がけて立たせ直した勇魚は、客室側の裏口から入ってすぐの小部屋を開ける。朝見かけた従業員用の扉の部屋だ。

 部屋は二畳程度の倉庫のようで、段ボール箱や木箱、掃除用具などが所狭しと並んでいた。

 その中に入った勇魚は、はたきに布に霧吹きにと、迷わず次々お目当ての物をピックアップしては、部屋の中に保管されていたカートに入れたり、縁にひっかけたりしている。その手慣れた動きを見ると、彼女がこの仕事を任されていることにも納得する。

「私が部屋の中を整えて行くから、比呂は掃除機をかけて」

 カートを押しながら出てきた彼女は、出てきたばかりの倉庫に向かって指をさす。彼女の指先を視線で追うと、倉庫の一角に円柱状の胴体に武骨な蛇腹のホースが伸びた、業務用の掃除機が鎮座していた。比呂は目を丸くする。

「――そのカートも、勇魚には大きいと思ったけど、あっちの掃除機の方がたいへんそうだな」

「慣れたわ。あ、でも掃除機にはジェット機を付けて、上に乗って走り回りたいって、いーっつも思ってるわよ」

「確かに。それは便利そうだ」

 ジェットエンジンで進む、大きな掃除機に乗って掃除する勇魚を思い浮かべる。その様はさぞかし可愛らしかろう。

「先に廊下を端から端までかけて。そのあとに私が整えた部屋ね。コンセントはそこ」

 テキパキと指示を出した勇魚は、比呂の返事を待たずにカートを引いて行ってしまった。その背中が隣の客室に入っていくのを見送ってから、比呂は掃除機を引き出す。

 がらりと大きな音を立ててキャスターが回り、掃除機が動く。これはなかなかの年代物のようだ。胴体には、十年くらい前にロゴを変えた会社の名前が入っている。もちろんロゴは旧バージョンだ。比呂は久しぶりに遭遇したロゴに、謎の感慨を覚えた。

 掃除機を引きずりながら進み、出入口で振り返るとふと気づく。

 この倉庫は狭いわりに不思議と圧迫感や息苦しさを感じない。これもこの不思議なホテルの効果なのだろうかと思い、きょろきょろと視線を巡らせて理解した。奥に積みあがった箱類は別として、設えられた棚や、頻繁に出し入れしているであろう物の配置が低いのだ。一番高い所で比呂の胸辺りだろうか。ほとんどが腰辺りの高さで構成されている。

 勇魚や北斗の身長に合わせているのだろう、そう合点がいくと自然と笑みが零れる。“不思議な所だから“という理由ではなく、こういったひとつひとつの柔らかさが、このホテルの居心地の良さを作っているように思う。

「比呂―っ! まだなのーっ!」

 穏やかな空気に思いを馳せていた比呂は、唐突な勇魚の声にハッと現実に引き戻される。慌てて倉庫を出るとコンセントを繋ぎ、急いで、でもできるだけ丁寧に、掃除機を走り回らせたのだった。


 勇魚が一階全ての部屋を掃除し終えたのに遅れて十分、比呂も全ての床を掃除し終えた。

「なかなか重いな、これ……」

 掃除機のコードを本体の窪みに巻いて収納しながら、比呂は溜め息を吐く。

 重いだけでなく、小回りが利かないのがさらに厄介だった。この難物を、小さな勇魚がどうやって操っていたのか全く想像ができない。

「あんまり遅いから掃除機に押しつぶされちゃったのかと思ったわ」

「自分の足は何度か轢いたけどな」

「やっぱりね。絶対やると思ってたわ」

「おい……」

 それはどういうことかと問おうとすると、勇魚は既によそを見ている。倉庫の奥の壁にかかっている時計だ。このホテルのロビーには大きな置時計があったが、ここにあるのは至ってシンプルな白い掛け時計で、それはちょうど十二時になるところだった。

 勇魚は急ぎ足で比呂を追い立てながら倉庫を出ると、作業用エプロンを外しながら廊下をロビーの方へ歩き出した。慌てて比呂もそれに並ぶ。

「どうしたんだ?」

「お昼だわ」

勇魚は険しい顔をして言った。


 決して走らず、しかし流れるように勇魚は進んでいく。お昼ということは月虹に向かっているのだろうか。何もこんなに急ぐことはないと思うが、彼女はそんなにもお腹を減らしていたのだろうか。

 ほどなくして辿り着いたロビーでは、ちょうど月虹から出てきた北斗が、ホテルの玄関扉を開けるところだった。その姿を見た勇魚は北斗に駆け寄る。

「ごめん、遅くなっちゃった」

「大丈夫。これからだよ」

 小さな二人は大きな扉を完全に開け止めると、勇魚は月虹に飛び込み、北斗は比呂の手を引っ張った。

「これからお昼だから、比呂はそのエプロン脱いで、亜月のお手伝いして」

「わかった」

 よくわからないまま物々しい雰囲気にのまれつつ、比呂はなんとか頷く。

 何だというのだ。「これからお昼ご飯だルンルン」というような雰囲気は微塵もなく、あたかも戦場に赴くような勢いさえある。おっとりした雰囲気を纏っている北斗でさえ、尻尾の先まで気合が入っているように見える。

 厨房には二つの出入り口があり、一方は月虹に繋がる扉のない入り口、もう一方はロビーのフロント脇から事務所に入り、そこを抜けて厨房に向かうルートだ。

 尻尾をぴんと立てたままの北斗は事務所に入り、奥の一段高くなった畳敷きのスペースに置かれていた臙脂色の布を取り上げる。

「これ着たら亜月に声かけてね」

 彼はそれだけ言うと、使命は果たしたとばかりに踵を返してロビーへと走って行ってしまった。

 比呂は状況が呑み込めないまま、一人取り残された。丁度、よく響く低い鐘の音がロビーから聞こえてきた。十二時になったのだろう。

 事務所内の掛け時計にぼんやりと視線を向けると、壁越しでもわかるほど、背後のロビーが急にざわざわと騒がしくなる。その活気に、比呂は飛び上がった。

 まさか、先ほどまであんなに静まり返っていたホテルに、お客さんが来たのだろうか。それにしてもあまりにも急な。

 比呂は好奇心のままに、事務所の覗き窓からロビーを窺い見る。

「!」

 果たしてそこに居たのは、二足歩行する熊、シカ、上から下までプルリと揺れる半透明の人、極端に腰の曲がったおばあさん、床まで着こうかと言う見事な白髭を蓄えたおじいさん、一見普通の人間のように見えるけれど、腕が四本ある大きな人……などなど、おそらく、妖怪と呼ばれる皆様だった。ホテルの玄関から入ってくる妖怪を、北斗が次々と月虹の中に案内している。

 比呂は慌てて窓から顔を引っ込めた。

 そうか、「お昼」とは「食事処月虹の昼営業」のことだったのか。

 初めて見るものに早まる鼓動を抑えながら、比呂は身をかがめる。北斗や勇魚と触れ合って妖怪に慣れたつもりでいたが、そんなことはなかったようだ。

 良くも悪くも彼ら二人は小さくて愛らしく、動物の耳や尻尾が生えていても、人の言葉や理屈が通じた。そして比呂に(概ね)好意的でいてくれた。少なくとも問答無用で取って喰おうとはしなかった。――それに対して今集まっている、初めて見る明らかな人外の方々。言葉が通じるのかさえ怪しい。

 手にしていた物を無意識に強く握りしめ、やっと我に返る。自分が持っているものは、北斗に渡された布だ。広げてみれば、それは胸元に金糸で「ホテルはくろ」と刺繍された臙脂色のエプロン。これは亜月が付けているエプロンと同じものだ。

「あっ、手伝い……!」

 途端に跳ね上がった比呂はエプロンを纏うと、厨房へ続く扉を開いた。

 自分にとって大事なのは、壁の向こうの妖怪より、戦場で待つ恩人だった。

明日も連続投稿する予定です

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