畑のボス
森が拓けたなだらかな斜面に、小さな菜園が広がっている。黄色い花を咲かせたきゅうりや鉄紺色に輝くナス、つやつやと光を弾き今にもはち切れそうなほど育ったトマト。
比呂はその一画にしゃがみ込んで無心に草を毟っていた。
朝食の跡片付けをしていた時、比呂は亜月に声をかけた。
「亜月さん。そういえばここって一泊いくらですか? 払います」
きょとんとした顔で動きを止めた亜月は、ややあって笑って手を振った。
「いらないよ。今も手伝ってもらっているしね」
「そんな訳にはいきません」
比呂はお金に関して、はっきりしておきたい性質だった。これは幼い頃から両親に言われていたことだったからだ。父も母も得てして丸くて呑気だが、金勘定だけはしっかりしていた。「お金の問題を有耶無耶にしてはいけない」と真顔で言ってくる両親に、「昔何かあったのか」とは怖くてとても聞けない。
比呂は皿を拭く手を止めて、笑う相手に近づく。亜月は尚も笑顔を緩めない。静かに火花を散らすように、二人は無言で対峙した。払いたい方とお金を受け取りたくない方だ。
比呂が拭いた皿を戸棚にしまっていた北斗は、二人の間でオロオロと顔を見比べている。
「皿がたまってきたわよ」
一人黙々と皿を洗い続けていた勇魚が、譲らない二人に背を向けたまま呟く。比呂は慌てて濡れた皿を取り上げた。
「――じゃあ、他にもお手伝いをしてもらおうかな。それで手を打たない?」
皿を拭く手は止めずに振り返ると、亜月は先ほどとは違う、呆れたような顔で笑っていた。
あれから比呂は自分の泊まった部屋を軽く掃除し、一階客室のシーツを集めて回った。終わりましたよと次を伺いに行けば、「畑を手伝って」と、大きなつばの麦わら帽子と軍手を渡された。
裏口から続く細い山道を進むと、テニスコート程の広さの菜園に出た。
比呂がやって来る音が聞こえたのか、声をかける前から北斗は立ち上がってこちらを見ていた。
畑仕事は北斗の領分らしく、彼は一人で緑に埋もれていた。北斗の大きな麦わら帽子には丁度耳の部分に穴が開けられていて、それを被った状態でも、三角の耳がパタパタと動く様子が見えた。
近くまで行っても逃げられることはなかったが、朝に見せてくれた笑顔はなかった。
「何を手伝えば良い?」
なるべく怯えさせないように笑顔を浮かべて近づけば、彼は口を開け閉めし、周りを見回し、帽子のつばを摘まんで下げた。
「草、とって」
「草?」
言われて足元に視線を落とせば、野菜の苗とは別に、名も判らぬような雑草がちょこちょこと生えていた。
「雑草を抜いていけばいいか?」
北斗は帽子の影に隠れたまま小さく頷いた。
そして今、草を毟るに至る。しゃがみ込んだまま行う作業は中々腰にくるものがあったが、北斗がやっていた作業をやれと言われなくて正直助かった。
比呂がここにやってきた時、彼は割り箸片手に葉っぱや蔦についた芋虫を取っていた。その足元には小さな籠が置かれていたが、とても覗いてみる気にはなれなかった。比呂は特別虫が苦手ということはなかったが、あれだけの芋虫と触れ合ったら気が触れてしまいそうだ。
「ふー……」
丸めていた背中と腰をぐぐぐと伸ばす。比呂が大きく動いたことで、きゅうりの蔦が這うネットの向こうで、影が揺れた。耳と尻尾をピンと立ててこちらを伺っているのが見える。
「……なぁ北斗。狐じゃなかったら、俺ってやっぱり怖いか?」
ぴくんと耳が揺れて、帽子が傾く。彼が俯いたのがわかった。そのまま暫く北斗の反応を待ったが動きがない。
「ほ――うわっ!?」
困らせてしまったかと考え、比呂はきゅうりのネットに手をかけ、向こう側に顔を出そうとした。
すると丁度、比呂が手をかけた辺りに大きなバッタが居たらしく、彼の眼前にぴょんと飛び出してきた。急なバッタの襲来に驚いた比呂は、その場で尻もちをつく。
笑わないでほしい。誰だって巨大なバッタが顔目掛けて飛んで来たら、驚くと思う。
誰にでもなく、心の中で言い訳をしながら土の付いたズボンを叩いていると、小さな笑い声が耳に届いた。見ればネットの向こうで耳を震わせて北斗が笑っている。
恥ずかしい気持ちと、北斗の笑顔が嬉しい気持ちが拮抗して、比呂は苦笑した。
「笑ったな」
「あはっ――人間は怖いけど、比呂は怖くない。優しいし、バッタを怖がるくらい弱っちいもん」
「バッタは驚いただけで、怖くはないぞ」
「そおなの? ――でも、亜月も勇魚も比呂のこと好きみたいだから、へいき」
ネットを迂回して比呂の下まで来た北斗は、相手の手の甲を指先でつつく。へいき、と呟く声が耳に届いた。
もじもじと照れながら笑いかけてくれる北斗を見て、比呂は数回瞬きをしたあと、一緒に笑う。
突かれた手を差し出すと、今度は北斗が瞬きをした。
「俺は人間だけど、友達になってくれるか?」
「うんっ」
飛びつくように両手で比呂の手を取ると、大きな尻尾をぶんぶんと振る。それはあまりにも激しく振り回すので、千切れて飛んでいかないか比呂が心配になる程だった。
きゅうり畑を越え、トマト畑を越え、まだ実の成っていない何かの畑の雑草を抜いていたとき、北斗から声がかかった。
「比呂、もういいよ」
「いてて」
声に応じて振り向くと、ずっと同じ体勢でいたので腰が痛んだ。比呂が腰を擦りながらゆっくり立ち上がると、畑の間を通って北斗がぽてぽてと歩いてきた。
二人が何かの畑で向き合うと、北斗が手を差し出してくる。その小さな手には大きなトマトが握られていて、水滴が光を弾いてとても綺麗だった。
「ないしょだよ」
「美味しそうだ」
比呂が笑顔でトマトを受け取ると、北斗も嬉しそうに笑った。
二人並んで木陰に座り込み、眼前に広がる畑を眺めながらトマトに齧りついた。それは見た通りにみずみずしく、とても濃い味がした。
「この畑は全部、北斗が一人で面倒見てるのか?」
比呂の横に座り込んだ北斗は、音を立ててきゅうりを齧っていた。きゅうりが元々大きいのか、小さな北斗が持つと何でも大きく見えるのか、判断が難しい画である。
彼はきゅうりを丁寧に咀嚼して飲み込んだあと、頷いた。
「うん。たまに亜月に手伝ってもらうけど、僕がここのボスなの」
「すごいな。俺なんか、そこの一畝だって育てられる気がしない」
「バッタが怖い比呂には、無理かもね」
「怖かねぇよ」
八重歯を見せて笑う北斗の頭を掴んで、ぐりぐりと掻き回す。随分気安いやり取りができるようになって、本当に嬉しい。比呂には兄弟がいないので、まるで年の離れた弟ができたようだった。
木陰の中、爽やかな風に吹かれながら何の気なしに呟く。
「なんか帰るのが寂しくなってきたな」
「か、帰るの?」
北斗は朝食の時のように動きを止め、琥珀の瞳を曇らせながら聞いてきた。別れを惜しんでもらえるくらいにはなったらしい。
「そりゃあ、帰るよ。叔父も探さなきゃなんないし……」
だよね、と小さく呟いて、子狐は帽子から飛び出た耳を伏せる。
「また来るよ」
取りなすように慌てて言っても、その耳は伏せられたままだ。
それ以上かける言葉が見つからず、二人は陽に輝くトマト畑を眺めながら、手に持った野菜を齧り続けた。
北斗がきゅうりを食べ終えたときだった。やっと彼が顔を上げる。
「ここはもう大丈夫だから、勇魚のところにも行ってあげて」
「勇魚……のところに行って、逆に迷惑じゃないだろうか。怒ってたし」
その名を聞き、朝食後からずっと怒った背中しか見せてくれなかった彼女を思い出す。行ったところで、歓迎してくれるとは到底思えない。うなり始めた比呂を見上げた北斗は、目をぱちぱちと瞬かせると笑った。
「だいじょうぶ。勇魚はね、比呂が来るの、待ってるとおもうよ」




