別れと二階
「人気過ぎる……」
昼営業が終わった月虹のテーブルで、比呂は崩れ落ちていた。
二時間前、比呂が厨房に飛び込むなり、亜月の「比呂君は料理できる!?」の声から始まり、野菜を洗っては切って、切っては洗って。食器が溜まれば、洗って拭いて、拭いては洗って。表に出て妖怪の相手をしてと言われないだけ、マシなのかもしれないが、息を吐く暇もなかった。
比呂の横では亜月がフライパンを振るい、鍋を掻き回し、片隅に並んだ複数の七輪で焼き魚の面倒を見ていた。比呂には途中亜月が二人に見える瞬間があったが、あれは彼の“妖怪みたいなもの”の所以とはまた別物だろう。
背後では途中、勇魚が厨房に入って来ては常備菜や漬物の小鉢の準備をし、それを持ってまた出て行った。北斗に至っては、この二時間まるで姿を見なかった。全員が全員、自分の仕事を全うして、あの場は動いていた。
「うちってホテルの人気はないんだけど、食事処としての人気はそこそこあるのよね。営業時間が短くて、メニューが少ないからなんとかなってる感じよ」
目の前のイスに座った勇魚は、麦茶を飲みながら休んでいた。彼女は仕事中にまとめていた長い髪をやっと解いたところだ。
比呂は顔を持ち上げてそんな彼女を見やり、次に店内をぐるりと見まわした。
たしかに、このホテルの規模にしてはテーブルの数が多いと思っていた。実際、客はひっきりなしにやってきていたようだし、ピーク時は満席になっていたらしい。比呂は店に顔を出していないので見てはいないが、注文の入るタイミングやたまに勇魚が騒いでいたので、なんとなく把握している。
「今日は比呂君のおかげで大分助かったよ。野菜の下ごしらえまでやってもらって」
「比呂が食器洗ってくれたから、お客さんに集中できた」
湯気を立てるどんぶりを盆に乗せて、亜月と北斗が厨房からやってくる。それを見た比呂と勇魚は、「待ってました」とばかりに目を輝かせて椅子に座る姿勢を正した。
「はーい。今日のお昼は、出所確かな人間界産の三つ葉の乗った、親子丼です」
テーブルの上に四つの丼が置かれる。空腹を刺激する出汁の良い香りと、まだところどころ半熟状態の玉子。その合間に白い鶏肉と玉ねぎが見える。
ほかほかと湯気を立てるどんぶりを前に、四人揃って手を合わせた。
「いただきます」
朱色の木さじで、自らを震わす玉子ごとご飯を掬い、頬張る。
「うま……」
思わず声も漏れる、疲れた体に染み渡る旨味と温かさだった。
その後、四人はしばらく真剣に親子丼と向き合い、誰も声を発することはなかった。
食後、勇魚と北斗は店内を、比呂と亜月は厨房の掃除をすることとなった。七輪に乗っていた網の焦げがなかなか頑固で、比呂はたわしを片手に流しで苦戦する。
「掃除までしてもらって悪いね」
「いえっ、俺も結局、昼ご飯までいただいちゃって」
自分は今日三人の手伝いをしていただけだが、どこにいて、何をしていても楽しかった。炎天下の草むしり、子兎に尻を叩かれながらの掃除、一心不乱にやった厨房の手伝い。目が覚めてからまだ数時間しか経っていないにも関わらず、何日分もの記憶が詰まっているような気がする。バッタが顔面に飛び込んできたことも、もはや懐かしく感じられる。
時刻は既に午後四時を迎えようとしている。山を下りることを考えると、そろそろ帰らなければならない。そのことに一抹の寂しさを覚え、比呂は自然と口数が少なくなる。
黙々とたわしを擦り付ける比呂を横目に見て、亜月は口を開いた。
「――君の中のかぼすの影響は、徐々に抜けて行くと思うよ。多分ひと月もしないうちに、完全に変なものは見えなくなると思う」
亜月はガス台の水気を拭いながら告げる。その内容に、自分とこの不思議なホテルの時が終わりを迎えることを感じて、胸が引き絞られるように痛んだ。
比呂は最後の網を磨き上げると、水で汚れを流した。
「変なものなんかじゃないです」
自然と語気が強まった。その返答に亜月は瞬きし、そして微笑んだ。
「そうだね。ありがとう」
近くの川から引かれているという水は夏でも冷たくて、比呂の指先を赤くさせた。
無言の北斗が、比呂のTシャツの裾を掴みながらついてくる。その横には、あからさまに目を逸らした勇魚も並んで歩いている。
昼の片づけを終えた面々は、とうとう別れの時を迎えようとしていた。
亜月が「暗くなる前に」と切り出すと、子供たちは雷に打たれたように耳や尻尾の毛を逆立たせ、それから黙り込んでしまった。今は使わせてもらっていた部屋に、荷物を取りに向かっているところだ。
「ここを出るのが、名残惜しいよ」
北斗の頭を軽く撫でると、比呂の手の下でふわふわと弾力のある琥珀色の髪が揺れた。
「ずっとここにいていいよ。お部屋もいっぱいあるから。ね、勇魚」
「……そうね。お客様がいないんだもの。部屋はあるわよ」
勇魚も北斗に同意する。どうやら勇魚なりに引き留めてくれているようだ。朝には覚えきれていない程の自分への形容詞を言い放っていた人物とは、全く思えない変わりようである。ただ、今は勇魚の並べた大量の形容詞が、それだけ彼女が比呂を気にしてくれた証だと思える。
「また来るよ」
それでも二人の表情は晴れず、視線は絨毯に向いている。
部屋の前に差し掛かった時、やっと顔を上げた勇魚が口を開いた。
「ねぇ、最後にもう一つ、手伝っていかない? 二階の客室の窓を閉めて回るの。比呂、二階には上がってないでしょ?」
勇魚の提案に北斗も顔を上げ、縋るような瞳で二人して比呂を見上げる。それは比呂にとっても魅力的で、“それくらいなら遅くなっても良いかな”と思えた。
比呂はいたずらを思いついた子供のように笑う。
「実は気になってたんだ、二階」
その言葉に、勇魚と北斗は文字通り飛び跳ねて喜んだ。
二階へと向かう階段は、ロビーのすぐ近くにある。フロントに居た亜月は、賑やかな三人が戻って来たのを見て笑っていた。
北斗が比呂の手を引っ張って階段を先導し、勇魚は二階について教えてくれる。
「二階には二部屋客室があって、あと私と北斗の部屋もあるのよ」
「亜月さんは?」
「亜月はいっかい。比呂のいた部屋のおく」
右から勇魚が教えてくれれば、左から北斗が返事をくれる。喋るたびに二人してぱたぱたと尻尾と耳を揺らしている。
「今日の二階はすごいんだから」
「今日の?」
ふふんと鼻を鳴らした勇魚が、階段を上がってすぐの部屋の扉を開ける。途端に辺りにはふわりと潮の香りが漂い、昨日からずっと聞きなれていた鳥の声ではなく、潮騒が聴こえる。奥の窓から差し込む光が一段と眩しい。
「え……?」
驚いて立ち止まった比呂の手を引き、北斗がテラスまで案内してくれた。
「今日も海につながったね」
木の手すりに掴まりながら、柵の隙間から海を覗く北斗。その鼻をクンクンと引くつかせ、潮の香りを楽しんでいるようだった。
今、比呂の眼下には大海原が広がっている。それも天音町に来てから眺めていた群青色とは違う、南国の海のようなエメラルドグリーンだ。テラスから海面まで遠いので定かではないが、下まで行けば泳ぐ魚まで見えるのではないだろうか。
「すげーっ。――えっ、……いやいやなんで」
比呂は思わず身を乗り出して声を上げたあと、やっとこの状態に首を傾げた。そこへ遅れてやって来た勇魚先生が得意げに教えてくれる。
「当ホテル『はくろ』では各客室、日ごとに別の場所の風景を楽しむことができます。日頃変わらぬ山の風景に飽き飽き、という、この山の住人の皆様に楽しんでいただくべく、初代支配人、えーと、はくろ、ちがう、はくむ、ええと……」
「はくむかんえもんのすけ」
「そう! その人ががんばりました」
最後の最後で尻すぼみになってしまったが、勇魚先生は北斗の力も借りつつ説明を終えた。比呂は純粋に感心する。
「へぇぇ。その人すごい頑張ったなぁ」
「はくむかんえもんのすけは、たった一人でぼかーんと岩をわり、すぱーんと山をひらき、びゅーんと空を飛んで、はくろを建てたんだよ」
「北斗は本当に初代様が好きねぇ」
「だってすごいもん! ぼくもそれくらい強くなりたいなぁ」
「まずは、耳と尻尾を消すところからね」
「うう」
二人はなんてことのない風に話しているが、はくむかんえもんのすけは相当凄いことをやってのけていると思う。もはや「すごい」という言葉だけでは足りない。やはり人ではないのだろうか。ただ、仙人とかそういう存在にしては、やたらと筋肉質な気がする。
「あっ! やっぱり俺の部屋の景色も、昨日と今日で違う森だったのか!」
比呂は手を叩いた。朝、自分が窓の外に覚えた違和感は確かだったのだ。俺の観察眼も捨てたものじゃない、と腕を組んで頷く。
「昨日は山毛欅林で、今日は杉林だったじゃない。まるで違うわよ」
「わかってなかったの?」
「……」
比呂は頷いたポーズのまま、潮騒に抱かれることにした。両脇から子狐と子兎が「ねぇねぇ」とTシャツの裾を引っ張っていたが、気が付かないことにした。
三人は揃って客室の窓を閉めて回った。隣の部屋は雪景色だった。北斗は走って出て行きたそうにしていたが、ぐっと堪えている様子だった。最後の仕事も終わり、三人はまた口数が減りながら廊下に出る。すると北斗が顔を上げて廊下の壁を指さした。
「比呂。あれ、はくむかんえもんのすけ」
北斗の示す先には、時代がかった絵が掛かっていた。
筋骨隆々でちょんまげを結い、配達トラックに描いてあるような恰好をした男。その人物が天岳と見られる山の上空、雲に乗って鉞を振りかぶっている。やはり仙人系の人物ではなかった。
額縁には「白霧勘右衛門之介、自ラ宿“ハクロ”築クノ図」とある。この絵の人物が好きとは、北斗はなかなか尖ったセンスをしている。いや、子供がヒーローに憧れていると思えば、わからなくもないのか。
北斗による「白霧勘右衛門之介が如何にカッコいいのか」というプレゼンを聞きながら、廊下を階段の方へと向かう。
行きの時は気が付かなかったが、客室の向かいの壁には他にも絵が掛かっていた。今度は「白霧勘右衛門之介、悪鬼調伏セシ図」とかだろうか。
通り過ぎざま、ちらりとその絵を見た瞬間、比呂は動きを止める。急に足を止めた比呂を不思議そうに二人が見上げてくる。しかし比呂の目は絵にくぎ付けだった。
「悟さん……!?」
そこにあったのは、画家・紺野悟の絵だった。




