悟叔父の事実
勇魚が四段飛ばしで階段を降り、北斗は狐の状態になって駆け下りる。比呂はこの中で一番気持ちが急いているであろうに、一番動きが遅かった。一段ずつ階段を降りる人間の足がもどかしい。
「亜月! すごいの! 恩極、比呂の家族だったの!」
「恩極、オジサマなんですって!」
やっと比呂がロビーに辿り着いた頃には、既に亜月の周りで二人が飛び跳ねていた。亜月が困惑しながらも二人の言葉から内容を掴もうとしている姿が見えた。
「亜月さん」
比呂が声をかけると、亜月は安堵したように肩を下げる。
「どういうことかな? 恩極が比呂君のオジサマって?」
人間なりに急いで階段を降り、乱れた呼吸を整えながら説明した。
「昨日お話しした、失踪した俺の叔父の絵が二階の勘右衛門之介の横に。叔父はあまり自分の絵を売る人ではないので、もしかして、ここに来たことがあるんじゃないかと」
三人が呼んでいる「恩極」とは悟叔父の雅号だ。絵の隅にも「恩極」というサインがあった。そうでなくとも、あの絵を見間違えることはない。
悟叔父は生来油彩画を描いていたが、大病をして死の淵から生還したのちは何が変わったのか、急に水彩の風景画を描くようになった。叔父の絵は何色もの色が塗り重ねられているにも関わらず、透明な空気が描かれており、まるでその絵自体が輝きを放っているかのように見える。そして奇しくも彼の絵は油彩の頃よりも水彩画に転向してからの方が注目され、いくつもの画廊から声がかかるようになったと聞いている。
比呂は芸術の知識を何も持たないが、叔父の絵は好きだった。彼が筆を走らせると、目の前の牧歌的な山の風景に、一枚透明なヴェールがかかったように、怪しく輝きだすのだ。
その中でも代表作と言われる、水彩に転向した初めの一枚によく似た絵が、はくろの廊下に飾ってあったのだ。
透明の空の下、水晶でできたような花畑。その花一つ一つが透明な光を受けて、七色の光を弾いている、そんな絵だった。本物は、比呂が両手を伸ばして抱えるほどの大きさのキャンバスに描かれているが、ここにあったのは草案というのだろうか、A3サイズの画用紙に軽く水彩で塗られただけのものだった。しかし、それだけでも叔父の絵だとわかるほど輝いていた。
「……それで、叔父は今どこ……あれ? これは話が繋がってない、な……? うわ、すみません」
途中、北斗の「はくむかんえもんのすけ!」という合いの手を受けながら話をしたが、冷静に口に出してみれば、ここに悟叔父の絵があったからと言って、現在地を亜月が知っているということにはならないと気づく。
赤くなり首を捻りだした比呂を前に、亜月は二階の絵がある辺りを見上げ、何事か呟いた。
「恩極の本名が紺野悟さんだったんだね。うん、それなら知っているよ。彼なら以前来たことがある。あの絵は……最後に来た時に、描いて行ったものだね」
「ぼくのお絵かき帳を一枚あげたんだよ」
北斗が手を上げてぴょんぴょんと跳ねると、あなたは今黙ってなさいと勇魚がその頭を抑えつける。その様を視界に捉えながら話は続く。
「じゃあ、叔父はここであの絵を思いついて、帰って完成させたんですね」
「へぇ! あの絵は完成してるのかい? 見たいなぁ、ネットで検索すれば出てくるかい?」
「はい。“恩極 望郷”で検索すれば…ってあれ、スマホがない」
いつもスマホを入れているハーフパンツのポケットに手を入れて、比呂はようやく気付く。そういえば昨日からまるでスマホに触っていない。そもそも持ち歩いていなかった。
「携帯電話なら、君の服を洗濯した時に出して、鞄の上に置いておいたよ。ただ、このホテルは圏外だから使えないね」
比呂は自分で自分に驚く。思わぬタイミングでデジタルデトックスをしてしまった。自分に緊急の連絡をしてくる者はそうそういないので問題はなかろうが、いつもの重みがポケットにないと気づいてしまうと、落ち着かない気がする。
そわそわと部屋と亜月を見比べて、いやいや、今はそれよりも叔父の話だとポケットの軽さを振り切る。
「とにかく叔父は、その”望郷”を描いて倒れて――いや、倒れて死にかけて、戻って来たあと急にあの絵を描いたんだ」
それまで興味深げに話を聞いていた三人が、途端に表情を曇らせる。
「私、止めたのよ」
「ぼくも。でも絵を描きたいからって」
勇魚も北斗もその耳をしょんぼりと伏せている。二人のその重い視線に、叔父の身に何かがここであったのだと察する。
「何かあったんですか?」
「いやぁ、ね。恩極は君と同じく花影に色がついて見えるタイプだったんだけど。いろいろあって、妖霊界に落ちてしまって」
「えっ」
「すぐに助けたよ! ただ、ちょっとショックが大きかったのか、しばらく呆然としてて」
亜月が言い難そうに、頬を掻きながら思い出すように話す。
「ずっとなんにも動かなかったのに、しばらくして急に動き出したら絵が描きたいって言ったの。だからぼくのお絵かき帳をあげたんだ」
「そのタイミングで私と北斗の事も見えるようになってたんだけど、全く気にしてなくて。それどころじゃないくらい、絵を描きたかったみたいよ」
「えーと、それは……」
妖霊界に行ったショックが大き過ぎて、一時廃人になりかけ、絵を描くために生還した――ということにならないか。
「な、なるほど……。それで無理が祟って、家のアトリエで倒れたんですね」
思わぬところで真実を知ってしまった。悟叔父は「大病」を患ったと言われているが、実は原因不明のまま入院していたのだ。外傷は何もなく、病巣も見つからないが酷く衰弱している、目が覚めない、という状態だった。
ただ、医者に言われた一言で紺野家一同は息をのむ。
「腎臓が一つしかありません。紺野悟さんは生まれつき片腎の方ですか?」
比呂は、悟叔父の兄である父が、母に話していたことを覚えている。
弟は自分と同じように五体満足で生まれてきた。これまで腎臓を摘出するような手術を受けたこともないと。襖の向こうで二人の話を聞いていた比呂は、すわ後ろ暗い事件の勃発かと前のめりになったが、それもすぐ否定された。臓器を摘出したような外傷――手術痕も見当たらなかったらしい。
悟叔父の腎臓は、彼の身体からただ忽然と、姿を消していたのだ。
「叔父が倒れた時、身体から臓器がひとつなくなっていたんです。これってつまり……」
眉間にしわを寄せたまま亜月に視線を向ければ、彼もまた険しい顔をしてこちらを見ていた。
「……妖怪か、霊――そういうことをするのは妖怪かな――に、持っていかれたんだろうね」
亜月の言葉に喉が引き絞られ、誰もが口を閉じてしまった。血の気が下がるとはこのことかと、指先が冷えていくのがわかる。昼間に窓越しに見た妖怪達が、脳裏で踊る。
すると、冷え切った比呂の指先を握るものがあった。比呂が視線をやった先には遠慮がちに右手を握る北斗がいて、彼は琥珀色の瞳を不安に揺らしながらこちらを見上げていた。
「比呂……妖怪を、きらいにならないで」
ぎゅう、と、握る手にもう一段力が込められた。その手の暖かさから、比呂の身体はまた血が巡り始めたような気がした。
「お願い」
今度は勇魚の声がして視線をやれば、彼女は自分の服の裾を両手で掴んでいた。
その泣きそうな顔を見れば――いや、見なくったって――彼らを嫌いになるはずがないではないか。比呂はやっと身体の力を抜いて笑いかける。
「嫌いになるわけないだろ」
北斗の手を強く握り返し、左手で勇魚の頭に手を置くと、二人はほっとしたように視線を緩めた。今度は勇魚に手を振り払われなかった。
「大体な、人間にだって怖いやつも優しいやつもいるんだ。妖怪も同じだろ。そういうことをする妖怪もいるんだろうけど、俺は、お前たちがいるのも知ってるから」
握った北斗の手を揺らし、勇魚の頭を軽く叩く。北斗は比呂の右手ごと腰に抱きつくと、「クゥーン」と鳴いているのが小さく聞こえる。動物に懐いてもらえている感じがする。とても可愛い。対する勇魚は、照れ隠しなのか、比呂の左足を音を立てて叩いている。なぜだ。もう少し可愛く照れてほしい。
兎にも角にも場が緩くなり、比呂も亜月も肩から力を抜いて、息を吐く。
「それにしても、そんな状態の恩極が行方不明だなんて、ますます心配だね。どこに行ってしまったんだろう」
やはり亜月でも見当がつかないらしい。しかし落ち着いて考えれば、それは当たり前のことだ。比呂は苦笑する。
「また振り出しに戻ってしまいました」
「何か力になれると良いんだけど……」
自分の頭上で締めの空気が漂い始めたのに気づいたのだろう、勇魚が比呂を叩く手を止めた。腕を組み、首を捻り、如何にも「考えてますよ」の姿勢を取る。
亜月が「何かわかったら連絡するから、連絡先を」と言いかけたところで、勇魚が耳を大きく震わせて顔を上げた。
「確か、もうすぐ人気絵師の新作が手に入るかもって、言ってなかった?」
「誰が?」
「ほら、あの普段見かけない顔のカワウソよ。前に来た時、言ってたの。期待していてくださいって」
「ああ、あの……」
「かぼすカワウソか……」
亜月は記憶を辿るように視線を上にあげ、比呂は顔を顰めた。北斗は比呂の腰に抱き着いたまま、状況を飲み込めずきょとんとしている。
どうやら件の妖霊界産かぼすを誤魔化して売りつけたカワウソは、まだ何か持っているらしい。




