一日ぶりの下界
夏の長い夕暮れも過ぎ、既に紺藍が空を染めている。
どうやら今夜も快晴のようで、降りそうなほどの星空が頭上に広がっていた。見える星の数が多過ぎて、もはや比呂のわかる数少ない星座「夏の大三角形」がどれかわからなくなっている。どれとどれを結んでも立派な三角になるので、この際どれでもいい気がする。
トコトコと特徴的なエンジン音を夜の闇に響かせ、比呂は薄暗い天岳グリーンロードをバイクで上っている。「夜道を戻ってくるなら」と、亜月が自分のスーパーカブを貸してくれたのだ。
古いけれど綺麗に磨かれたバイクは、前輪のフェンダーが少し曲がっている。亜月曰く、「当たり屋の鹿」が飛び出してきてぶつかったそうだ。
「痛い痛い」とさめざめと泣く鹿にリンゴを山と与えたところ、本人ならぬ本鹿は元気に飛び跳ねて山奥に消えて行った。そして、その場には曲がったバイクだけが残ったとな。
悲しそうにカブを撫でる亜月が印象的だった。
――時は謎の「人気の絵師」の話をした頃に戻る。
その後、比呂は「今後どうするかを決めるにも、とりあえずもう一泊」ということになった。
喜色を浮かべて尻尾を回転させる北斗と、顔には出さずに耳を揺らしている勇魚の相手をしながら、比呂は荷物を取りに部屋へ向かう。先ほどやっと存在を思い出したスマホの様子を見るためだ。部屋に入り木を横目に見ながら鞄のもとに向かう。
亜月の言っていた通り、サックバッグの上に若草色のカバーに覆われたスマホがあった。徐に手に取れば、脇から覗き込んだ北斗がクンクンと鼻を鳴らす。
「スマートフォンっていう電話だぞ」
「それくらい知ってるわよ」
「えとっ、面白い匂いがするね」
良かれと思って見せてみたが、かえって呆れた顔をされてしまった。北斗の微妙なフォローが辛い。あとその匂いはシリコンカバーだと思う。
比呂はひとつ咳払いをしてから電源ボタンを押す。カチリ。反応がない。比呂は北斗と首を捻りながら、今度はボタンを長押ししてみる。
そのまま数秒待ったが画面は依然として反応せず、うんともすんともいわない。亜月は「圏外」とは言っていたが、電源が入らなくなる超常現象のことまでは言っていなかったはずだ。カチカチとボタンを押すこと数秒、比呂はやっと理解する。
「あ、充電切れか」
「なんだぁ」
「充電すればまた使えるから」
北斗の落胆が耳と尻尾に表れていたので、そのしょんぼりとした頭を撫でる。すっかり彼の頭を撫でる動作も慣れてしまった。あまりにも撫でるのにちょうど良い高さにあるのだ。
もふもふと手の下で跳ねる髪の毛を感じながら比呂はスマホをポケットにしまった。
「で、その充電する機械はどこにあるの?」
すかさず飛び出す勇魚の的確な一言。比呂は無言でサックバッグの中を漁ってみるが、充電ケーブルはない。当たり前だ、入れていないのだから。充電ケーブルや着替えなど当初の予定だった軽い山登りに必要ない物は、天音町唯一の民宿「浜岸のお宿」に置いてきてしまったのだ。
そういえば、民宿には昨日帰らなかった。これは無断外泊と言うのだろうか。いずれにせよ、荷物を取る為にも、宿を引き払う為にも、一度は下山が必要だ。
亜月に訳を話すとカブを貸してくれ、日が暮れたあと戻ってくることになったら、「何を見ても、何に声をかけられても、道から外れず速度を落とさずまっすぐに戻っておいで」と念を押された。「もしも登るのに危険を感じたら、明日、日が昇ってから戻っておいで」と。悟叔父の臓器抜き事件が発覚したことで、亜月は夜の天岳の危険認知度を上げたらしい。比呂は神妙に頷きながら、バイクのキーを受け取った。
時刻は午後四時半を回った頃。夏の日はまだそこそこ高い位置にいる中で、割れたアスファルトにたまに跳ね上げられながら、快適に道路を下る。「浜岸のお宿」は、天岳グリーンロードを下り、登山道入り口前を通り(今度はちゃんと見つけた)、郵便局を曲がり、午後八時には閉まるコンビニエンスストアを通り過ぎて、海岸沿いをほどなく進んだところにある。
比呂は宿の駐車場にバイクを止め、橙色のヘルメットを脱いだ。一日しか経っていないというのに、大分時が経ったような気がする。もし「ホテルはくろ」が不思議な次元に建っていて、ホテルと下界では時の流れが違う、と言われてもとても笑えない。そうだとしてもおかしくないので、全くシャレになっていない。そのギャグを言った人はセンスがないと思う。
そんなことを考えながら宿の入り口にまわると、数人の人だかりができていた。この町でこんなに人が集まることがあるのか、と失礼なことを思いつつ近づくと、宿の入り口に立っていた女将さんと目が合う。こちらに気づいた彼女は目と口を大きく開けた。
目が合ったので、そのまま頭を軽く下げる。この時、比呂は女将さんが昨日別れた時のままで、歳をとっていないことに静かに安堵していた。
「どうも」
「紺野さん! 良かった、帰ってきた! みんなぁ! 帰ってきたわよ!」
「え!?」
女将さんの声を皮切りに、集まっていた数人の男性がどやどやと比呂を取り囲む。
状況が呑み込めない比呂をよそに、「よかったよかった」と肩を叩き、頭を撫でていく者もある。一体なんだというのだ。
「紺野さん! あなたどこに行ってたのよ! 昨日、天岳に行くって出て、帰ってこないから、てっきり遭難したものだと……」
「えっ!?」
そこから話を聞けば、この一日女将さんは気が気じゃなかったらしい。
比呂がサックバッグ一つで山に入って十時間、帰ってこない。念のため、夜間に玄関の戸が叩かれれば気づける部屋に布団を敷いて寝ること六時間、帰ってこない。「昼まで待とう」と旦那に言われて、そこから六時間。もう待てないと立ち上がり、天音町青年団を呼び寄せて、山に入る最終確認をしていたのが今。
それを聞いた比呂は、それはもう腰を曲げすぎて一周するんじゃなかろうかというほど頭を下げて謝罪した。土下座をしようとしたら流石に止められた。
まさか自分が「はくろ」で楽しく過ごしている間に、こんなに心配させていたとは。これが田舎の繋がり、そしてバイタリティかと頭を下げながらも感動する。
「それにしても、今までどこにいたんだ? 山で一晩明かしたって感じでもないが」
それまで「もー! 心配かけて!」と比呂の腕を叩いていた女将さんから解放されると(今日はよく叩かれている気がする)、青年団の一人の男性が口を開いた。比呂は下げていた頭を慌てて元の位置に戻す。
「その、登ってる最中に熱中症で倒れまして、山の中の『ホテルはくろ』ってとこで、お世話になってました」
「ホテルはくろ」の名を聞いた女将さん含む青年団一同は、それまでの喧騒をぴたりとやめ、比呂をまじまじと見た。その様子に比呂も動きを止めて息をのむ。やはり、あのホテルは妖霊界御用達のホテルで、この世のものではなかったのだろうか。
「はくろって……亜月さんとこの?」
「そうです!」
壮年の男性が言った言葉に、比呂は表情を明るくして頷いた。どうやらちゃんと人界でも存在しているホテルらしい。
「はくろにいたのか」「あそこじゃ連絡も忘れるか」「どうせ亜月さんが引き留めたんだろう」などと人々は口々に言い、納得した青年団は解散していく。比呂はそれを頭を下げながら見送った。
比呂は女将さんや旦那さんに改めて謝罪をし、今日までの宿賃を精算して部屋を引き払った。なんだかんだと日が暮れて、今バイクで山を登っている。
タイヤ越しにアスファルトの振動を感じながら、比呂は思う。これが例えば東京のど真ん中のビジネスホテルであれば、一晩客が戻って来ずとも捜索隊は出ないだろう。ましてや連泊の予定で泊っていれば尚更だ。それが一晩明けただけであの状況だ。成人しているとは言え、比呂が一般的に大人から見れば子供に見え、「山に行く」と言っていたからだとしても、本当にありがたいことだと思う。東京に帰ったら何か美味しいお菓子を、青年団の皆様の分含めて「浜岸のお宿」に送ろう、と比呂は心に刻んだ。
紺藍色の夜空の下、そんなことをしみじみと考えながらバイクは山を登る。大体五合目くらいまで上がってきただろうか。
バイクの音と虫の声、そして「痛い」という声が比呂の耳に届く。
「ん!?」
今、何か不穏なものが混じらなかっただろうか。比呂は思わずアクセルを緩めようとして、亜月の言葉を思い出した。
――何を見ても、何に声をかけられても、道から外れず速度を落とさずまっすぐに戻っておいで
背中がぞわりと粟立つのを感じ、比呂は背筋を正してまっすぐ前だけを見る。
「痛い」
明らかにおかしい。
現在、だいたい時速二十kmでバイクを走らせている。それにも拘わらず、先ほどと同じ声が、同じ音量で、すぐ脇の草葉の陰から聞こえる。無感情な低い男の声。
うん、これは妖怪の人かお化けの人だろう。絶対にわき見はすまいと決め、アクセルを握る手に力を籠める。
やがてホテルの明かりが見えてくるまで、律儀にも声はついてきた。エンジン音を聞きつけたのか、ちょうどホテルの玄関が開いて遠目に三人の姿が見えた時、比呂が半泣き状態になっていたことは、絶対に秘密だ。
明日も連続投稿する予定です




