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初めての朝

 小鳥の囀りが聞こえてきて、涼しげな風が窓から吹き込んでくる。比呂はやけに近くから聞こえてくる梢の葉音に耳を澄ませた。

 なんて清々しい朝だろう。こんな日は寝たいだけ布団で寝て、起きたら起きたで手の込んだ朝食兼昼食を食べたい。パンよりもご飯、肉よりも魚。そう、程よく塩の効いた――

「しゃけ……」

「何が?」

 寝言のような独り言に、高く澄んだ声で返答があって、驚いて目を開ける。同時にきゃっと声がして遠のく影が視界を過ぎる。

 ぼやけた視界のピントが合ってくると、頭上で回る古いシーリングファンや、灯りのついていない百合の形の電灯が午前の爽やかな光を弾いているのが見えた。デジャブというやつだろうか。

「なんなのよ。鮭が食べたいってこと?」

 その視界の脇から兎の耳が伸びてきて、その耳の持ち主が比呂を覗き込む。その朱鷺色の瞳を見て思い出した。ここがどこかということを。デジャブではなく、昨日実際に見た光景だということを。

「あんたどっか悪いんじゃないの? こんなにバタバタ倒れるなんて」

「……勇魚……ちゃん……?」

 比呂はのっそりと上半身を起こして、辛うじて記憶している名前を呼んだ。

「勇魚、で良いわよ」

「んじゃ勇魚……なんでここにいるんだ?」

「私がここに住んでいるからよ」

 そうでなくて、なぜ比呂の寝るベッドに腰かけていたのかを聞きたかったのだが、彼は一度ゆっくりと瞬きをして諦めた。

「えーと、着替えたいから部屋から出てもらえるか?」

 勇魚は口角を上げてにんまりと笑うと、腰かけていたベッドから勢いよく飛び降りた。彼女のあとを追いかけるように、銀髪が弧を描く。

「私をちゃんとレディとして扱うところは気に入ったわ。紳士的な男は好きよ」

 眠る男の寝所に忍び込むのはレディとしてどうなのか、と口にしかけてやめた。目覚めて早々、昨日の勢いで騒がれたらまた倒れそうだ。

「起きたら『ゲッコウ』に来てって、亜月が言ってたわ」

 そう言い残すと彼女は弾むように駆けながら出て行った。

 開け放たれたままの扉を見やりながら、一つ深くため息を吐く。恐らく、昨夜自分はまた気を失ったのだろう。こう何度も倒れて、その度に亜月の世話になっていては申し訳が立たない。自分は今まで倒れたことはなく、健康優良児として生きてきたのに。もしや叔父が居なくなって、自分でも気づかないうちに気を張って疲れているのだろうか。

 考えて、多分違うなと思う。これまで自分が常識として理解してきたものが覆されて、脳みその処理が追い付かなくなったのだろう。情けないことに。鈍いなら鈍いなりに、肝が太くあればいいのに。

 考えながら浴衣を脱ぎ、昨日洗濯してもらった自分の服に着替える。

「そういえば『ゲッコウ』ってどこだ?」

最後にTシャツから頭を出したときだ。勇魚が言っていた『ゲッコウ』が分からなくて呟くと、部屋の中の木の枝がわさりと揺れた。

「……ごはん食べるところ」

 葉擦れとともに小さな声が降ってくる。比呂が驚いて顔を上げると、枝分かれした幹と天井との合間に、セーラー襟を首に巻いた子狐が収まっていた。枝の陰からこちらの様子を伺っている。

「お前はもしかして……北斗?」

 印象の薄かった彼の名を呼ぶと、小狐は琥珀色の目を輝かせながら尻尾で幹を一度叩いた。枝葉の中に引っ込んだと思えば、次の瞬間には人の手足が出てきて、軽い動きで床の上に降り立った。

 こちらを見上げて何か言おうとしては口を閉じ、もじもじと服の裾を握りながら尻尾を震わせている。今日は何かに隠れていないだけ、少しは慣れてくれたのかもしれない。

「……ご飯食べる所ってのは、ロビー脇の食堂のことか?」

 北斗はこくりと頷いた。あまりにも彼がこねくり回すものだから、握ったシャツの裾に複雑な皺が寄っている。

 比呂はできるだけ彼を驚かさないように、膝を折って目線の高さを同じにした。

「俺は紺野比呂って言うんだ。ゲッコウまで案内してくれるか?」

 言われて彼は大きく尻尾を振った。了承の意味だと心得、比呂はゆっくりと立ち上がった。

「こっち」

 アーモンド形の瞳をくりくりと嬉しそうに輝かせる北斗に促されて歩きだし、出窓の前を通る。その時、ふと、窓の外の景色に違和感を覚えた。

 窓の外には昨日と同じようにウッドテラスが続き、その向こうには森が広がっている。その森を見て昨日と違うような気がしたが、これまで植物に興味がなかった比呂には、木の種類さえわからない。ただ何となく、雰囲気が違うように見えたのだ。

 首を傾げながら、「こっちこっち」と廊下から手招きする北斗に導かれて部屋を出た。廊下は昨日と同じでまっすぐにロビーへと続いている。比呂が使わせてもらった部屋は一階で、廊下に出ると左右に一つずつ客室扉が並んでいるのが見えた。対する目の前の壁側には、客室扉は一つだけで、並んでお手洗い、従業員用と思われる扉が見えた。どうやらあまり客室の多いホテルではないようだ。

 比呂は北斗と何を話すでもなく、黙り込んだまま廊下を進む。

 昨夜亜月は「お化け的なものが来るホテル」と言っていたが、実際そういったものに遭遇していない(住んでいるという二匹は除いて)。このホテル自体は、ところどころ驚くようなことはあれど、それは総じて好ましく、比呂の心を楽しませるようなものだった。そんなに大仰に構えることでもないのかもしれない。そう、亜月のような人間――と、今のところ思われる――が運営しているホテルなのだから。

 そんなことを考えながら歩いていると、不意に左手に何かが触れた。視線を落とせば、おっかなびっくりといった体で、北斗が比呂の手を握っている。

 それが妖怪だったとしても、自分に懐いてくれる小さな人というのは可愛いものだ。比呂は生来子供が好きということはなかったが、動物好きではあった。彼の頭や腰元で動く毛皮を見ると、一層可愛く思えた。

 比呂がその手を握り返すと、北斗は目を丸くして見上げてきた。くりくりとした目が驚いたように瞬くので、比呂は思わず微笑む。

 それに背を押されたのか、意を決したように北斗が口を開いた。

「比呂は化け狐なの?」

 あどけない声で問われて、微笑んだまま固まる。

「――なんで、そうなったんだ?」

だって、と北斗は耳をぱたりと震わせた。

「比呂はコンノって言うんでしょ? 狐はコーンって鳴くから、化け狐の名前かもしれないって、勇魚が」

 情報の出所を聞いて、比呂はがっくりと肩を落とす。

「比呂はいつから、耳と尻尾も消せるようになったの?」

 尚も注がれる期待の籠められた視線が辛い。通りで、と比呂は合点がいった。同族だと思われたから昨夜より距離が近くなったのだろう。今ここで違うと言うと、また悲鳴を上げて逃げていくのかもしれない。

 比呂は肯定も否定もできずに、口の中で唸る。熱い視線を投げかけてくる北斗に手を引かれながらロビーに差し掛かると、今日は食堂の扉が開いていた。北斗はその扉の上の垂れ壁を指さして得意げに笑った。

「ゲッコウ」

 彼の小さな指の先には、大きな木の扁額が掛かっており、「月虹(げっこう)」と書かれていた。どうやら昨日は見落としていたらしい。

「月虹だな」


 扉を潜ると中には勇魚が居り、椅子の上に膝立ちして一生懸命卓を拭いていた。彼女は入ってきた二人に気づくと素早く椅子から降り、厨房と思われる奥の部屋へと駆けていった。中には恐らく亜月がいるのだろう。勇魚が声を上げているのが聞こえた。

「お手伝いする」

 比呂から手を離した北斗も当然のように厨房に入っていくので、それに倣って暖簾を潜る。

 中には思った通りエプロン姿の亜月が居て、ガスコンロに向かってフライパンを握っていた。勇魚はその背後の作業台の上に大きな皿を四枚並べていた。北斗はくんくんと鼻を鳴らすと嬉しそうに笑い、迷いなく食器棚の引き出しを開ける。中に銀色のカトラリーが並んでいるのが見えた。北斗は音を立ててそれを漁ると、お目当てのものを見つけたのか、いくつか握り込む。

 自分はどうしたものかと入り口で立ち止まると、亜月の方が彼に気づいた。首を捻ってこちらを見ると、右手に持っていたフライ返しを軽く振った。

「おはよう。よく眠れたかい?」

「おはようございます。あの、何度もスミマセン」

 いろいろと、と尻すぼみに口に出せば、亜月は笑った。

「何度も運ぶ亜月の身にもなってみなさいよ」

 皿の上に数枚のレタスを乗せていく勇魚は、こちらを見向きもしない。なんのなんのと笑いながら、亜月はコンロの火を消してフライパンと共に作業台へやってくる。彼の持つフライパンの上では、香ばしい匂いのする厚めのベーコンがじうじうと音を立てていた。

「鮭じゃなくて悪いね」

「……寝言なので、忘れてください」

 それを手際よく皿に盛っていくのを見て、比呂もやっと動き出した。

「俺も手伝います」

 だから何か指示をくださいと視線を送ると、亜月は少し悩んだ素振りを見せる。

「じゃあ、飲み物を用意してもらおうかな。グラスはそこ、飲み物は冷蔵庫から好きなのを出してね」

 フライ返しを持った手で食器棚を指さすと、自分はまたコンロに向かう。

 比呂は昨夜の麦茶を出せば良いと心得て、棚の中から苔色の湯飲みを四つ取り出した。続いて大きな冷蔵庫を開けると、脇の下を通って、勇魚が比呂の前に頭を出した。

「今日飲みたいのはこれ」

 きょろきょろと冷蔵庫の中を見回した勇魚は、両手で大きなポットを取る。それを比呂に渡すと、何事もなかったかのように作業台へ戻っていった。


「…………」

 比呂は食堂に移動して、四つ並べた湯飲みにオレンジジュースと思われる飲み物を注いで沈黙していた。彼女から渡されたポットの中身が橙色をしている時点で、器を替えるべきだった。

 苔色をした渋い湯飲みの中で、橙色の液体が揺蕩っている。

「鈍いし見る目もないけど、センスもないのね。可哀そうだわ」

 いつの間にやって来たのやら、テーブルの上へ唐突に顔を出した勇魚は、それらを見て眉をハの字にした。

 比呂はこの子兎に言いたいことがいろいろあるが、全てはこの結果を予測できなかった自分の所為であると心の中で言い聞かせ、口を閉じた。

「……憐れんでくれてありがとう」

「何言ってるの? 可哀そうなのはオレンジジュースと湯飲みよ」

 彼女は言いたいことを言い終えると、椅子を降りてまた厨房へと消えていった。何も言うまい。比呂は艶々と光る苔色の湯飲みを撫でながら小さく謝罪した。


 それからほどなくして朝食の支度が整い、全員が席に着いた。

 着席する際、北斗が自分の隣の席を比呂に勧めてきた。これには亜月と勇魚が驚き、目をしばたいていた。きっと比呂が同族であるとまだ信じているのだろう。後になればなる程言い出し難くなってきている。

 何はともあれ、全員で手を合わせて食事を始める。大きな白い皿にはサラダとベーコンとフレンチトーストが並んでいた。思わず比呂は、壁にかかっているお品書きの「ふれんちとーすと」と皿の上を見比べてしまう。途中亜月と目が合うと、「この子達の好物なんだ」と頷かれた。

 なるほどと苦笑しながらフォークを手に取ると、その柄が何とも可愛らしい肉球の形をしていた。

「おや珍しい。北斗がそれを貸してあげるなんて。余程、比呂君が気に入ったんだね」

 ナイフで一口大に切ったベーコンを口に運びながら、亜月がそれを目にとめる。言われて勇魚も身を乗り出し、比呂の手元を見た。

「北斗が比呂を隣の席に引っ張ったように見えたけど、幻覚だと思ってたの。信じられないわ」

 驚いた顔の二人にまじまじと見られて、北斗は湯飲みに入ったオレンジジュースを恥ずかしそうに飲む。

 いたたまれない。早く言わなければ、幼気な好意が身に辛すぎる。

「あの……」

「比呂はね、おんなじ化け狐だからあんまり怖くないの」

 比呂が口を開くと同時に、北斗も口を開いた。はにかみながら両手で持った湯飲みを置く。

 嗚呼、やはりそうだったのか。比呂は人知れず天を仰いだ。

「え? そうなの?」

「ああ」

 亜月と勇魚の反応は対照的で、一方は首を捻り、また一方は合点がいったと頷いた。

「まあ、亜月も気づいてなかったの? コンノって言うのは化け狐のギメイってやつでしょ」

 子供に言い聞かせるかの如く、勇魚は亜月に説明した。それを聞いた亜月は比呂を見る。

「……だそうですけど?」

 さらば、可愛く懐いてくれた子狐よ。

「俺は、人間です。化け狐ではありません……」

 ようよう絞り出すように言うと、隣で「ぴっ」と鳴き声が聞こえて、フォークが皿に落ちる音がした。恐ろしくて、とても横を見ることができない。

「えっそんな!? どう考えたって狐の名前でしょ!?」

「どう考えたって、普通の人間の苗字だよ」

 勇魚がテーブルを叩いて反論するが、どうしたって比呂は人間だ。

 比呂は反論している最中も左脇から注がれていた視線がなくなったと思えば、次は急に腰元を叩かれた。北斗はそこから何も出てこないことを確認すると、次は椅子の上に立ち上がり、比呂の頭をまさぐり始めた。恐らく尻尾と耳の確認をしているのだろう。

「ごめん。人間なんだ」

 やっとのことで北斗と目を合わせて謝ると、相手は雷に打たれたように目を見開き、尻尾を膨らませた。椅子の上で半歩後ずさると、比呂から目を逸らしてのろのろと着席し直した。力なくフォークを握り、フレンチトーストに齧りつく姿が、胸に痛い。

 その場にしんと沈黙が下りる。

「ぷっ」

 それまで黙って流れを見守っていた亜月が、耐え切れなくなったように噴き出した。そうかと思えば、もう肩を震わせて笑っている。他三人はぽかんと口を開けて亜月を見る。

「コンノが狐ってコーンだから? 可愛いなぁ。そうかそうかぁ」

 笑われているのが主に自分だと気づいた勇魚は、頬を膨らまして耳を揺らす。

「まっ紛らわしい名前してる比呂が悪いのよ!」

「俺の所為か?」

「そうよ! 鈍くて見る目がなくてセンスがなくて紛らわしいのよっ!」

 怒った勢いのまま、勇魚はフォークでベーコンを刺して齧り付く。無茶苦茶に八つ当たりされて、比呂もとうとう笑い出してしまった。

 勇魚はそっぽを向いて咀嚼している。怒っているのか恥ずかしいのか、長い耳が小刻みに揺れ続けていた。

「どうでも良いけど、勇魚は兎なのに肉食べるんだな」

 比呂が涙ながらに言うと、まだベーコンが刺さったままのフォークを握りしめながら、まるで噛みつくように振り返った。

「気高い化け兎の私は、ニンゲンに飼いならされた兎と違って牙を失ってないのよっ!」

 良くわからないが兎に角食べられるらしい。ぷりぷりと怒りながら食べ続ける子兎を見て、比呂と亜月はまた声を上げて笑った。

 北斗はフレンチトーストに齧りついたまま、目を丸くしてその光景を見ていた。

明日も連続更新予定です

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