物音の正体
すっかり黙り込んでしまった比呂に合わせたのか、亜月も口を開かない。食堂には、開けられた窓から涼しい風と共に、今が盛りとばかりに鳴く虫の音だけが流れ込んでいた。
その時だった。ロビーの方から前触れもなく、まるで重い物が落ちたかのような音が響いてきた。物思いに耽っていた比呂は、唐突な音量に思わず腰を浮かせて振り向く。
「い、今の音は……?」
「あー、気にしないで良いよ。獣か何かかな?」
亜月は何でもないことのように手を振った。
「獣が入り込んでいるなら、尚更気にすべきじゃないですか!?」
一宿一飯の恩義だと、謎の使命感を帯びた比呂は、立ち上がってロビーへ続く扉に恐る恐る手をかける。亜月はまだ椅子に腰かけたままでこちらを見ていた。立ち上がる気はないらしい。
そろりそろりと窺うように引き戸を開けると、特に荒れた様子もないロビーが見えた。比呂は安堵の息を吐いてカウンターへ向かう。
カウンターに近づくと、ペンが一本挿し込めるタイプのペン立てが倒れている。比呂は徐にそれを直し、辺りを見回した。他に変わったところはなく、先ほどの音の原因も見当たらない。今のロビーはピアノも止んでいて、しんと静まり返っている。
一つ首を傾げて踵を返そうとした時、ピアノの舞台の向こうに黄色の毛皮が見えた。亜月の言っていた「質の悪い狸」かと、比呂はすわ緊張して動きを止める。
黄色の毛皮は一度絨毯を叩くと、舞台の向こうへと引っ込んだ。まじまじと観察できたわけではないが、それは尻尾のように見えた。
比呂は一つ息を飲み込むと、意を決して舞台の向こうへ勢いよく体を乗り出した。
果たしてそこにいたのは、男の子と女の子の二人組だった。二人はケンカでもしていたのか、相手の頬や髪を互いに引っ張った状態のまま、こちらに向いた大きな目を丸くして固まっている。
「君たちどこから」
きたの、と問おうとして比呂もまた動きを止めたのは、二人の頭からひょこりと獣の耳が伸びていたからだ。
女の子の頭からは白くて長い兎の耳が。男の子の頭からは琥珀色の三角形の猫――いや、狐の耳が。
男の子の方は上半身を捩じってこちらに顔を見せているが、腰から下は背面を向けている。その腰元辺りから、稲穂の如く太く立派な尻尾が生えている。尾と耳の先端が、イメージする狐通りの赤茶の狐色だった。比呂が声をかけたことで、今やその尻尾の毛並みは猫のように逆立っていた。
「え」
「きゃーっ!」
比呂が我に返るよりも早く、狐耳の男の子が悲鳴を上げた。力の限りの甲高い声を上げると、素早い動きで壁と舞台側面を蹴って飛び上がり、カウンターの中に潜り込むとそのまま通用口を通って奥の部屋に駆け込んでいってしまった。
残された比呂は呆然と男の子の消えた方を眺めた。今のは一体何だったのだろうか。
「……ねぇ、あんた、見えるの?」
ハッとして声がした方に振り返ると、そこには女の子が仁王立ちしていた。彼女は白いシャツに藤色のリボンタイ、赤いフレアショートパンツ姿で、服装は普通の女の子だが、長い銀髪が生えた頭部からは見事な兎耳がそそり立っていた。
「さっきまで全然目も合わなかったじゃない」
え、と呟くことしかできない。この子の言っている意味が解らなかった。好奇心を湛えた薄い朱鷺色の瞳が比呂をまっすぐ見上げてくる。
「ど、どういう……?」
「……呆れた。全然わかってないのね。鋭いんだか鈍いんだか」
女の子はやけに大人びた態度で肩を竦める。彼女が頭を揺らすと長い銀髪がキラキラと光りながら揺れた。先ほど男の子に握られていた所が絡まっている。
比呂はこれまでどちらかというと鈍いと言われてきた。何かが不意に起きてもすぐさま行動に移すことができず、周りから一拍遅れて動き出すのだ。ここに来てからも、すぐに気づいて良いようなことを後々になってから気づくということを繰り返している。
そんな訳だから、目の前の兎耳女子に生意気な態度を取られても直ぐには反応できなかった。
「……いや、お前こそ何なんだよ。そんな耳付けて。さっきの大きな音もお前たちの仕業か?」
「あらあら、この立派な耳が偽物に見えるの? 鈍いし見る目もないのね」
そう言って女の子はぴくぴくと白い耳を動かす。確かにそれは作り物には見えないし、人間の耳があるべき場所には何も見当たらない。変わらず生意気な口ぶりだが、どうやら比呂が迂闊なことを言ってしまったらしい。
「比呂君」
どう反応すれば良いものか、彼がはくはくと口を開け閉めしていると、不意に背後から声がかかった。
振り返るとそこには亜月が居て、その足元には先ほどの狐耳の男の子がしがみ付いている。亜月の足の間から、紺色のセーラー襟のついた白いシャツに紺色のショートパンツという服装が見えた。彼もまた兎耳の女の子と同じように、至って普通の洋服を着ているようだ。
男の子は今にも泣きだしてしまうのではないかという顔をして、亜月の向こうから比呂を窺っている。今や三角の肉厚な耳は怯えるように倒れている。
「亜月さん。この子達は……?」
「うーん。まさか見えるようになるなんて思わなかったなぁ。どう説明したら良いのかな」
やはりあまり困ったようには見えない表情のまま、顎に手を当てた彼は首を傾げる。
「そっちの女の子が、化け兎の勇魚。こっちの男の子が化け狐の北斗。うちで面倒見ているんだけど……」
「ちょっと亜月! こいつ見る目ないわ! 私の耳を偽物と間違えたのよ!」
勇魚と呼ばれた女の子は、小走りに比呂を通り過ぎると亜月の足元で騒いだ。勇魚と北斗は亜月と並ぶと彼の腰辺りまでの身長――耳は除く――だった。勇魚が騒ぎ立てるのも慣れたものなのか、亜月は軽く彼女の頭を叩いて生返事をしている。
「なんて言ったら良いのかな。うちのホテルってちょっと変わっていて、お化け的なものとかが来たりするんだよね」
勇魚に手を引っ張られて左右に揺れながら、彼は説明を続けた。その背後に隠れた北斗は一層怯えた顔をしている。
「お化け的なもの……って言うと、その、所謂幽霊の人とか妖怪の人とか……?」
「はい。幽霊の人や妖怪の人も来るね」
「亜月だって妖怪みたいなものよ! 私が来た時からずーっと見た目が変わらないじゃない!」
勇魚は声を上げると床を蹴って高く飛び上がり、頂点でくるりと回った。回ったかと思うとどんどん彼女の姿が小さく縮んだように見え、ぽすんと柔らかな音を立てて亜月の腕の中に納まった時には、小さな白兎になっていた。その兎の首には、先ほどの少女の首元で揺れていた藤色のリボンタイが結ばれている。
兎を一撫でし、意味深に笑んだ亜月を見て、比呂はゆっくりと目を閉じた。瞼の裏でいろんな色がハレーションするように走り回る。
――もしかしたら、自分は今、質の悪い狸に化かされているのかもしれない。




