悟叔父
ひとしきり笑って波が去ると、今度は亜月がきょろきょろと辺りを見回し始めた。
「比呂君。今更ついでに聞くけど、君はこれから山を降りるのかい?」
「え?」
比呂は相手の言葉の意味を図りかねて同じ方向へ視線を巡らす。その先には片側だけ開かれている観音開きの玄関があった。
そしてその向こうに外の景色。扉の向こうに見える空は、夕暮れも終わりかけなのか薄い藍色をしている。その心許ない夕陽を遮る深い森の所為で、既に辺りは濃い闇色だった。闇の中からは気の早い夜行性の鳥の鳴き声が聞こえてくる。草むらの中で獣らしきものの目が光った気がして、比呂はごくりと息を呑んだ。
「だ、大丈夫ですよね? 帰れますよね?」
冷や汗と共に、引きつった笑顔を浮かべながら外を指さす。亜月は小さく唸りながら、眉を顰めた。
「……あまりおススメはしないかな。道路は割れていて、暗くなると足元が危ないし、日が落ちると登山道はもっと危険だ」
彼の言に比呂は青ざめる。
「それに」
「それに?」
「この山には質の悪い狸が居てね。よく迷い人を化かすんだ」
「……たぬき、ですか」
「狸だね」
予想外に牧歌的な要素が出てきて、比呂は思わず力を抜いた。ただ、狸が出るにしても出ないにしても、暗闇の森に単身突入する気概はなかった。外を見て溜め息を落とす。
「どうしよう」
「もし君が良かったら泊まっていきなさい。今日は泊り客もいないし」
室内の光に誘われて虫が入ってこようとするのを見やり、亜月は玄関扉を閉める。
「この山は、夜に不用意にうろつかない方が良い」
比呂は使い古されて飴色になった木の椅子に座り、辺りを見回した。
ここはロビーにもう一つあった扉の向こうの部屋だ。あの木枠の引き戸の先は食事処になっていて、中にはテーブルと椅子が並んでいた。そのどれもが古いが、きちんと磨き上げられているのだろう。明かりを点ければきらりと光を反射した。その触り心地の良い木肌を、比呂は指先でつい撫でてしまう。
亜月は比呂をここに座らせると、夕飯を用意すると言って奥の厨房へ消えていってしまった。比呂は一人やることもなく、テーブルを撫でながら周りを観察する。
和風の食事処と見られる店内は、四人掛けのテーブルが二セットと二人掛けのテーブルが四セット並んでいた。壁に写真や書画の類は一切なく、窓と反対側の壁は無骨な土壁だった。
花の一つでも飾れば良いのにと思いながら、唯一壁にかかっているメニューと思われる木札を眺める。
左から順に「さかなごはん」「うどん」「かれーらいす」「ふれんちとーすと」「つけもの」「おやつ」とある。どこから突っ込んでいいのか解らず、比呂は首を捻る。いつの間にか、窓の外の空はもうすっかりと夜になっていた。
「はい、お待たせ」
ほどなくしてやってきた亜月の両手持ちの盆には二つの丼が載っていた。だしの良い匂いがする。
湯気を揺らしながら目の前に置かれたそれを覗き込むと、つゆの表面にはその下が見えないほど大量の薄切りかぼすが乗っていた。その淡い黄色と緑の合間から、白いうどんが見え隠れしている。
「比呂君は一応病み上がりだからね。かぼすみっしりうどんです」
確かにみっしりだ。比呂は手を合わせると箸を取り、早速それを口に運んだ。軽く冷まして白いもちもちとしたうどんを頬張ると、目を見張るほど美味しかった。薄い白だしにかぼすの酸味が加わり、とてもさっぱりとしている。病み上がりの身体でもするすると食べられてしまう。そんな彼の食いつきを見て、亜月は満足そうに頷き、自分もまた箸を取った。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
食べ終わって箸を置くと、亜月はポットからよく冷えた麦茶を注いでくれる。まさに至れり尽くせりである。苔色の焼き物の湯呑を差し出すと、口を開いた。
「お家に電話しなくて、本当に良かったのかい?」
「そもそも今は旅行中なので、宿に泊まってるんです」
「へぇ? こんな何もないところに。観光?」
亜月に問われて比呂は視線を落とす。手元の湯呑の中では、琥珀色の麦茶がくるくると回っていた。少し逡巡してから、また顔を上げた。
「――人を探しているんです。亜月さん、五十代半ばの男性で紺野悟って知りませんか?」
「紺野悟、さとる……ううん。申し訳ないけど、覚えがないね」
「そうですよね、昔ちょっとだけこの町に居たらしいんですけど。亜月さんとは世代も違いますもんね」
「おや、若く見てもらえたのかな? でも亜月さんは割と良い歳だよ」
えっ、と声を上げて見返したが、亜月はそれ以上口にせずニコニコと目を細めている。解らない。どう見たって三十は超えていないように見える。肌は十代の比呂に負けず劣らずピカピカしているし、髪の根元だって元気そうに立ち上がっている。その細められた目をじっと見ても、相手は笑うばかりだった。
「その人は君のご家族かい?」
急に話を戻されて比呂ははっと我に返る。初対面の人に随分と不躾な視線を送ってしまった。慌てて視線を逸らす。
「ええと、はい。叔父なんです。半年くらい前から行方が分からなくって。元から放浪癖のある人だったんですが、さすがに半年間連絡の一つもないのは初めてで」
「そうかぁ。いくら大人でも、それだけ行方が解らないと心配だね」
「はい……」
亜月は背もたれに身を預け、湯呑を口に運んだ。それを見て比呂もお茶を一口飲む。
悟叔父は比呂の父の弟で、東京に家を持っていた。どこかの美術大学で非常勤講師をしながら、旅をしたり、絵を描いたりして暮らしていたらしい。
比呂は地元の高校を卒業すると進学はせず、アルバイトをして暮らしていた。「放蕩癖は悟叔父さんに似たんだね」と、揃って丸い顔をした両親は笑っていた。
そんな折、東京の叔父から声がかかったのだ――こちらに来て、仕事を手伝ってくれないかと。
それがどういう意図によるものだったのか比呂には解らないが、元々叔父とは仲が良かったので二つ返事で了解した。両親は「いろんなものを見ておいで」と送り出してくれた。
それが去年の春のこと。そこから比呂は叔父の家に居を移したが、実際叔父の仕事は手伝うも何もなかった。比呂に絵の事は解らないし、そもそも叔父は描きたい時に描き、描きたくない時は旅に出ていた。そんなものだから、比呂はもっぱら家の世話と画材の買い出しくらいしか、役に立っていなかった。本当にこれでいいのかと聞いた時には、「他人様に迷惑をかけないで、命に危険がない程度なら、好きにやって良いよ」と叔父は言っていた。
叔父が旅に出ている間は一人暮らしのようなもので、ここでもアルバイトをして時間を潰した。一度叔父と同じように旅に出たこともあったが、どこに行けば良いのやら、行って何をすれば良いのやら、ただぼんやりして帰ってきただけだった。
そんな日々を繰り返し、自分は何がしたいのかと、頬杖を付きながら庭の黄色い花を眺めていた時だった。
――そういえば、まだ寒い頃に「ちょっと行ってくる」と残して出て行った叔父がまだ帰ってこない。それどころか連絡の一つもない気がする。
記憶を遡っても、スマホを見ても、届いた郵便物を見ても、どこにも叔父からの連絡はなかった。
青くなりながら叔父の携帯番号にかけてみるが繋がらない。メールを送っても、果たして読まれたのかどうか返事が来ることはなかった。叔父はそもそも機械音痴で、未だにテキスト入力で小さい「っ」が出せずに躓く。スマートフォンを充電していないか、そもそも携帯していない可能性もあった。
比呂は落ち着こうと深呼吸をした。今までも一、二か月程度帰ってこないことはよくあった。これでよく講師をクビにならないものだと思ったものだ。だが今回は最後に比呂がその背中を見てからゆうに四か月は経っている。
これは、所謂「失踪」というやつなのだろうか。仮に失踪だとしたら、一体何をすれば良いのか。百十番通報して、失踪届を出せばいいのか。そんなことしたこともないし、そもそも百十番だってしたことはない。
焦って立ったり座ったりした比呂は、最終的にごく普通の行動をとった。実家に電話したのだ。
次の日には地元から母親が出てきた。「あらぁ四か月も? どこ行っちゃったのかしらねぇ」と呑気に頬に手をやる母を見て、情けないくらい安心した。
母は呑気な口調とは裏腹にテキパキと事を進め、警察に「捜索願」を出した。失踪届ではないらしい。
「ひーくん。これからどうする? うちに帰ってくる?」
ひーくんというのは比呂のことであり、いくらやめてくれと言っても母は直す気がないらしい。
比呂は首を振った。生活費ならアルバイトで貯めた小金があるし、幸いにもこの家は叔父の持ち家なので、家賃はかからない。結果、この家で叔父の帰還を待つことにした。
何かあったらすぐ連絡を頂戴ねと言い残し、冷蔵庫の中をタッパーでいっぱいにした母は帰っていった。
そして、そのタッパーが冷蔵庫の中から全てなくなる頃、比呂はやっと立ち上がった。
――叔父を探そう。
「捜索願」とは警察が捜してくれるものではないらしく、気にかけておきます、程度のものらしい。誰も捜してくれないなら、自分が探すしかないだろう。仮にもお世話になっている親類だ。
比呂は叔父がいなくなって以来、入ることのなかった叔父の私室に踏み入った。主人の居ない部屋に勝手に入って良いものか悩んでいたからだ。
叔父の私室にはほとんど絵の類はなく、本やオブジェやなんだか解らないものが雑然と収まっている。この家にはアトリエもあり、叔父が描いた絵のほとんどはそこにまとめられ、絵画の道具なども全てそこに集まっていたからだ。
お邪魔しますと呟きながら部屋に入り、懇意にしていた人物がいないか、よく行く宿がないか、彼の行く先を示すものがないか探した。逆にこれまで赴いた旅先もメモしておいた。
素人ながらに情報をまとめた比呂は、荷作りをして家を出た。
叔父の行き先は主に日本国内だった。それも都市部ではなく、閑散とした田舎が多かった。田舎ならば人も少なく、見知らぬ人の目撃情報もあるだろうと考えて行ったが、これが甘かった。
そもそも写真がなかったのだ。正確に言えば、十年くらい前の「これは誰?」と苦笑してしまうような証明写真ならあった。大学の身分証の為に撮られたものだと思われる。
叔父は数年前に大病を患い、それ以降ごっそりと肉が落ちてしまった。それまで紺野の丸顔家系の例に漏れず――何故か母も丸いが――叔父の顔も丸かったが、今では親類で集まると一人だけほっそりとした輪郭で、違う雰囲気を放っている。比呂としては丸顔童顔な自分の顔が好きでなかったので、一人だけ雰囲気の違う叔父が少しだけ羨ましかった。
その写真の他には、叔父が手慣らしとして描いたデフォルメされた小さな自画像くらいしかなかった。十年前の写真かデフォルメ自画像かで言えば、まだ後者の方が、現在の叔父に近いような気がする。
兎にも角にも、そんな頼りないものを握って聞いて回っても、相手も首を捻るばかりで、捜索は難航を極めた。
叔父がこれまで訪れた場所の名前に、一つまた一つと斜線が引かれていく。何か所か回っては家に帰り、叔父が戻っていないことを確認してまた家を出る。そんな事を続けて二か月が経った。
家で雨に打たれる庭の紫陽花を見ながら、次の行き先を確認していた。スマートフォンの地図アプリを開いて、表示が緑色ばかりであることを確認すると、またかと思う。どうやらここには若い頃と五年ほど前の二回訪れていたらしい。
こんなにも田舎ばかり行って、何が楽しかったのだろうか。勿論写生旅行だったのだろうが、実際比呂がこれまでに訪れた場所の感想はどこも「山」だった。昨日の山と今日の山の違いが分からない。そんなに山や田舎が好きなら住めば良いのに、そのくせ都心に家を持っている。芸術家のやることは分からないと溜め息をついた。
次の目的地は東京からそんなに離れてはいないようだ。せいぜい車で三時間程度か。山と川と海に囲まれて、余生をゆっくりと過ごすなら良い場所に思える。
天音市天音町。
ここに叔父はいるだろうか。




