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花影

 桃を全て食べてしまうように言いつけながら、男は自分が座っていた椅子を片付け始める。その後ろ姿を眺めながら、比呂は残っていた桃を平らげた。

 皿を盆に返してベッド脇にじり寄ると、比呂の赤いスニーカーが置いてあった。比呂は迷いなく裸足のままそれに足を突っ込む。靴を履いてゆっくりと慎重に立ち上がってみれば、どうやらもう頭痛もしない。

 一安心して己の姿を見下ろすと、今度は慣れない浴衣が着崩れていたので、慌ててあちこちを引っ張って整える。なんとか見苦しいところはなくなったかと、よくわからないながらに出発準備を完了した。男はその様を笑いながら見守り、空のグラスと器の乗った盆を持って待っていた。

「行こうか」

 言って男は扉へ向かう。その道すがらに赤いピアノを片手で抱えようとするものだから、比呂は慌てて彼の反対の手の盆を取り上げる。急に片手が軽くなったことに気づいた相手は、ちらりとこちらを見て目を細めた。

「ありがとう」

「いえ」

 どちらかと言えばこちらが礼を言うべきである。比呂が苦笑しながら盆を両手で持ち直すと、男もまたピアノを両手でしっかりと抱えた。

 部屋の中を移動すると、テーブルの向こう、男が使っていなかった方の椅子の上に比呂のサックバッグが置かれているのが目に入った。中身は小銭が入った財布、ペットボトルとタオル程度で、大して貴重品と言えるものは入っていない。比呂はまるで他人事のように、そういえば自分はそんな荷物を持っていたなと、今更ながらに思い出した。


 樹の下を通った時に、まじまじとその幹と天井を這う枝や葉を見上げてみる。つくづく不思議な部屋である。樹は部屋の隅に生えていて、幹はその半分が壁の向こうに姿を消していた。

 壁に隙間があって向こうが見えはしないかと首を回してみたが、壁は幹の形に合わせたかの如く、柔らかく波打っていてどこにも隙間はない。口を開けて床から幹、天井の枝を見上げると不意に梢が揺れた。

 何だか樹に笑われたような気がして、比呂は慌てて口を閉じるとそそくさと扉へ向かった。廊下に出て待っていた男と揃って歩き出す。廊下もまた部屋と同じように、毛足の短くなった絨毯敷きだった。

「立派な樹だろう。まだ育っているんだよ。いつかあの部屋を飲み込んでしまうんじゃないかな」

「えっ、それは大丈夫なんですか? 剪定? とか、するんですか」

「うーん。枝はできるだけ切りたくないな」

 彼は思案するように視線を上向けた。視線の先の天井には等間隔にダウンライトがはまっており、部屋と違って少し薄暗い廊下に柔らかい光を落としていた。

 廊下は両側に部屋があるらしく左右どちらも扉が並んだ壁だ。それでも大人が三人は並んで歩けるような幅員なので、圧迫感は感じなかった。

「わ……」

 歩くと程なく廊下が切れ、十畳程度の広い空間に出た。恐らくここがこのホテルのロビーなのだろう。

 これまでの薄暗い空間から急に明るくなって、景色が一瞬白く飛ぶ。目を瞬いて改めて見回すと、吹き抜けになったその空間でまず目に入るのは、玄関扉の上に設置されている二階の天井まで続く花模様の大きなガラスだった。

 そのガラスはステンドグラスのようにパーツごとに分かれているが、どれも透明で色が入っていない。擦りガラスになっているのか外の景色は見えないが、透明な光が差し込み、磨き抜かれた家具を飴色に光らせていた。

 そしてそのガラスに向かい合うような形でカウンターが据えられていて、その脇には比呂の腰ほどの高さの台が並んでいた。作業台だろうか。上に何か円柱状のものが置いてある。

「ちょうど良い時間で良かったよ」

 言いながら、男は抱えていた赤いピアノを作業台の上に置く。ピアノと円柱状の物が揃ってやっとわかった。上に乗っていたものはおもちゃのピアノに合わせた子供用のスツールで、それが載っている作業台は舞台だ。他の作りの細かい家具と違い、その舞台はあまりに素朴で、いかにも手作りという雰囲気だった。

 両手の空いた男は比呂から盆を受け取ると、壁際にあるソファを指さす。

「もうすぐだから、そこにかけて待っておいで。足元に注目」

 そう言って相手の返事を待つでもなく、自分はカウンターの中にある通用口へと向かっていく。比呂はなんとなく、男の背で揺れる長い一房を眺める。濃い茶髪に見えていた彼の髪は、明るい場所で見ると赤茶――あずき色に見えた。光を浴びると複雑な色に光っていた。

 男が壁の向こうに消えると、残された比呂は自分の足元に視線を落とした。そこはやはり薄いブルーグレーの絨毯敷きで、ロビーの真ん中に位置する辺りに一段濃い青で一本の木の模様が入っていた。部屋の中やこの意匠を見る限り、ここは木をコンセプトにしたホテルなのかもしれない。

 言われるがままソファに腰かけ、一歩引いた状態でロビーを見渡す。今はステンドグラスから差し込んだ光が辺り一面をぼんやりと白く光らせている。舞い上がった塵のような埃がキラキラと光って綺麗だ。

 一体何がもうすぐだと言うのだろうか。居心地の良い柔らかな時間が流れる空間に息を吐きながら、厚みのあるソファの背もたれに深く寄りかかる。

 そうやって首を巡らすと、玄関扉から入ってすぐ左手にまた扉があることに気づく。これまで目にした客室の扉と違い、ホテルの中にまた店が入っているような面構えだった。漆喰で固められた壁に木枠で作られたガラスの引き戸が二枚並び、洋風なホテルの中でそこだけが和風だ。その扉は閉まり、今は電灯が点いていないのか、中は暗い。

 ぼんやりとその一角を観察していると、不意にピアノの音がし始めた。客室で聞こえたものと同じ音がする。今この場でピアノと言えば、あのおもちゃの赤いピアノだけだ。それに目をやれば、不思議なことに、弾き手が誰もいないにもかかわらず、ことんことんと鍵盤が降りて音が鳴る。

 比呂は見た瞬間に、ああ、自動演奏装置の付いたピアノなんだと得心した。

 幼い頃、家族で行った大きなホテルのロビーにもグランドピアノがあり、弾き手もいないのにクラシックを奏でていた。小さい比呂にとってはそれがひどく不思議で、親に呼ばれるまでずっとそれを眺めていた。

 ピアノの音に耳を澄ますと、それは耳にしたことのない――そもそも比呂はあまり音楽を聴かないが――不思議な音階だった。あえて言うなら童謡のようなリズムで、お決まりのフレーズもなく波のように音が移動していく。

 ピアノが一曲分弾いたタイミングだったろうか。急に彼の目の前の風景が変わりだして、あっと声が出る。

 白くぼんやりとした明るさを湛えていた空間に、色とりどりの光が差し込む。光の加減だろうか、ステンドグラスから一階の床へはっきりとした色が差して絨毯の木に花を咲かせ始める。木の頂上から根元に向かって白い花、赤い花、黄色い花、青い花と色が変わっていく。

 先ほどまでは辺り一面反射しあってぼんやりとした光だったものが、さっと一瞬で美しい花々を描き出した。思わずステンドグラスを見上げてみても、そこには依然として透明の擦りガラスが嵌っているだけだ。不思議で何度もガラスと絨毯を見返してしまう。

 ピアノの奏でる不思議な音楽と、透明のガラスから差し込む色とりどりの光。正に夢のような光景だった。男が見せたかったのはこれだろう。美しさにほう、とため息を吐く。


「綺麗だろう? この時間の数分だけ、現れるんだ」

 いつの間に戻ってきていたのか、先ほどの男がソファの脇に立っていた。

「――はい、綺麗です。ガラスは透明なのに光は色が付くなんて不思議ですね。どうしてですか?」

 言って比呂が花を指さすと、男は驚いたように目を瞬かせた。絨毯の木と比呂を見比べる。

「驚いた。君は本当にここと縁があったんだね」

 気が付けば、ピアノの音も先ほどより明るく弾むような曲調に変わっている。ニコニコと嬉しそうに笑う男に首を捻っていると、不意に声をかけられる。

「ほら、終わるよ」

 やはり光の具合なのだろう、男の長い指の先では花がふるふると揺れ始めたように見える。そしてそれは時を置かずに動き出す。まるで花が散り落ちるように、絨毯の木の上から根元へ音もなく移動していく。だんだんと色を失いながら散り落ちていく花は、壁の影に差し掛かっては消えていく。なんだか本物の花が枯れて落ちていくようで、惜しいような気がする。

 最後の一片が影に消えるとピアノの音も止み、辺りは薄い闇に包まれた。白く浮き上がる絨毯の木を名残惜しく見ていると、急に辺りが明るくなる。顔を上げるとカウンターの中に入った男が電灯のスイッチを入れたところだった。

「以上、当ホテル名物の花見でした。日が落ちる寸前だけ見られるんだ」

「とても不思議で綺麗でした。それにそのピアノも、不思議でかわいい曲を弾くんですね。このホテルに似合っていると思います」

 それを聞いた男はピアノを一瞥し、笑って首を傾げた。

「だってさ? 良かったね」

 その言葉に応えるように、ピアノがポーンと一つ高い音を鳴らした。驚いた比呂が目を丸くしていると、男はまた笑う。

「そういえば君の服、乾いていたよ」

「あっ」

 礼を言って受け取り、自分の服を見ると急に現実感が湧いてくる。そういえばここで目を覚ましてからこちら、夢のようなことばかりで現実味がなかった。そこでようやく、比呂は男に名乗っていなかったことに気づく。急に姿勢を正した比呂に、相手もつられて背筋を正す。

「あの、いろいろありがとうございました。俺、紺野比呂と言います」

 言って頭を軽く下げると、男はまた笑った。よく笑う人である。

「これはこれは、ご丁寧に。私は当ホテル『はくろ』支配人の亜月(あづき)です」

 亜月と名乗った男は同じように頭を下げる。今更ながらの自己紹介に、お互い声を上げて笑った。

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