目覚め
ぽとんぽとんと、一音ずつ鳴らすように小さくピアノの音がして、比呂は目が覚めた。
天井にぶら下がった古そうなシーリングファンが、頭上で音もなくゆっくりと回っている。ファンの真ん中には三つほどの百合の形をした小ぶりな照明が付いているが、今その灯りは点いていない。
焦げ茶の深い光沢を放つ天井に、淡いクリーム色の壁紙。壁は深緑色の腰壁が巡らされていて、それを視線で追っていけば大きく開け放たれた出窓に行きついた。この大きな窓から光が差し込み、灯りの点いていない部屋でも充分明るかった。その外にウッドテラスが続いているのが見える。
窓の外には立派な樹が幾本も生い茂った森が広がっている。と、視線がそこまで来て一本の樹に目がとまる。一本だけ、やけに近くに生えた樹がある。森の中というよりは、窓のすぐ近く。近くというよりはむしろ部屋の中。彼は瞬きをしてその樹の根元に視線を下ろす。
その樹はこの部屋の中に生えていた。大きな鉢が置いてあって、という訳ではない。恐らく床の下から唐突に現れ、半ば壁に埋もれるようにして立派な幹が天井まで縦断している。彼の頭上とは反対の天井は、茂った葉に覆われていた。ところどころ葉の合間から花の形をした照明が顔を出している。大きな窓から風が通って、さわさわと梢を揺らした。
その葉擦れに耳を傾けているだけで何時間でも居られる気がした。
――テレビで見たツリーハウスみたいだ。
気持ちの良いまどろみに任せてまた目を閉じようとして、ハッと我に返った。
「え……? どこ?」
慌てて上半身を起こすと、くらりと目が回った。頭に手を当ててゆっくりと呼吸をすると、濡れタオルが膝の上に落ちているのが目に入る。その他にも二、三枚の濡れタオルが身体の周りに落ちている。
それだけでなく、彼は元々着ていたTシャツにハーフパンツではなく、鉄色の浴衣姿だった。麻で織られたそれは、火照った身体にさらりと涼しく気持ちよかった。比呂はその浴衣の袖を指先で撫でながら慎重に頭をもたげると、自分の置かれた状況を確認した。
彼は樹の生えた部屋の片隅にあるベッドに寝かされていたようだ。部屋にある物は樹とベッドの他に出窓と扉、ベッドサイドの小さな木棚、丸テーブルと椅子二脚。テーブルの上には小さなおもちゃの赤いピアノが載っている。そういえば先ほど聞こえていたピアノの音が止んでいると、今頃になって気づく。
「あのぉ」
開け放たれた扉へ向かって、声を張るでもなく声をかけてみる。その声が届いたのか定かではないが、丁度のタイミングでパタパタと人が駆けてくる音がした。
比呂は緊張し、乱れた髪の毛を慌てて撫でつけ、その音の主を待った。
「やぁ、具合はどう?」
扉からひょこりと顔を覗かせたのは、気安い笑顔を浮かべた二十代後半くらいの男だった。
男はグラスと皿を載せた盆を抱えて、こちらへと歩いてくる。臙脂色のエプロン姿を見ると、どうやらマフィア? や何か後ろ暗い組織? の抗争に巻き込まれた訳ではなさそうで、彼は肩から少し力を抜く。
「あの、ここはどこですか? 俺はどうしてここに?」
男はまぁまぁと気の抜けた声を出しながら木棚に盆を置き、自分はベッド脇に椅子を持って来て腰かける。彼が背中を向けると、その背中には一房の長い髪が揺れていたのが印象に残った。
「ここは天岳にあるホテルの一室で、君は道路に倒れていた。多分熱中症だと思うんだけど」
言いながら男は枕やクッションを集めると、上半身を起こした比呂の背後に慣れた手つきで積み上げた。それに寄りかかると大分楽だった。
「水飲んで。少しお塩が入ってるからしょっぱいよ」
熱中症は怖いよねと、比呂の返事を求めるでもなく喋りながらグラスを渡してくる。礼を口にしながら比呂はその水を飲む。確かに薄らと塩の味がした。そうして水を飲んで、自分がとても喉が渇いていたことに気付いた。そのまま一気に飲み干してしまうのを見ると男は満足そうに笑った。
「普通のお水もあるけど、桃もあるよ」
そう言って今度は赤い縁取りのガラスの器を差し出してくる。その器の中には、まだみずみずしく水滴の光る薄紅色の桃が一口大に切られて入っていた。木製の二股に分かれたフォークがその一つに刺さっている。
「いえ、すみません。水で充分です」
「え……っ」
「えっ」
比呂が断った瞬間に男は「信じられないことを聞いた」とばかりに目を見開いた。ついで形の良い柳眉をハの字に歪める。
「そんな……こんなにもピカピカツヤツヤの美味しそうな桃なのに? さっきまで川に入れていたから、よく冷えてるよ?」
食べない理由が分からないと言外に伝えながら、男は器をなおも差し出し続ける。
「美味しそうですけど、そんなに何から何までしていただくのは、悪いです」
比呂が胸の前に手を上げて遠慮すると、急に梢がばさりと大きな音を立てて揺れた。驚いた二人が揃って振り向くも、そこには樹しかない。窓から入ってきた風が微かに葉を揺らしていた。
「うん、そうだ。この桃は薬だと思って食べなさい。食べ切らない限りベッドから起きることは許さないよ」
何なら食べさせてあげようと男がフォークを摘もうとするものだから、比呂は慌ててフォークごと器を受け取った。少し恥ずかしくなりながら桃を一つ口に運ぶ。
それは瑞々しくてとても甘かった。今まで食べてきたどの桃よりも味が濃い。
「おいしい……」
「全部食べて良いんだからね」
あまりの美味しさに驚いて口から言葉が漏れると、男はまた満足そうに頷いた。いつの間に持ち出したのか、その手に団扇を握って比呂を扇いでいる。
灼熱のグリーンロードから森に少し入っただけで大分涼しくなるものだと、比呂は桃を頬張りながら不思議に思う。この人が倒れた自分を見つけてくれなければ、今頃ミミズの横で一緒に干上がっていたかもしれない。
「あなたが俺を見つけてくれたんですか?」
男は嬉しそうに微笑みながら頷く。
「買い出しから帰って来たら、炎天下の道路で人が寝てるじゃないか。やぁこれは豪気な人もいるもんだと声をかけたら、目を回していたね」
凄く驚いたよと、大して驚いてなさそうな調子で男は語る。比呂は目を閉じてその時の姿を想像しながら、「すみません」と小さく呟いた。
「何だってこんな暑い中、あの道を歩いていたんだい?」
カチリと小さな音を立てて、目測を誤ったフォークが桃を外して器を叩く。
「……山頂に行ってみようかと」
「それにしたって涼しい登山道じゃなくて、あの道路を選ぶなんてね。車があった訳じゃないんだろう?」
男がぱふりと団扇を口元に寄せて言った言葉に、比呂はまたもや狙いを外し、フォークが音を立てる。視線をゆっくりと手元から男に上げる。
「……あったんですか? 登山道」
「無い訳がなかろうよ。何某ロードよりも、もっと古くから人が踏み固めて来た道があるよ」
言って男は麓の郵便局から登山道への道順を教えてくれる。話を聞いているうちに比呂の肩はどんどんと下がっていった。
「……見落としました」
「まぁ、小さい入り口だし、最近あの辺の雑草は伸び放題だから」
至る場所は同じだからと男は慰めてくれるが、その経過が問題で、実際比呂は干上がりかけた。自分の迂闊さが本当に嫌になる。
すっかり肩を落としてしまった比呂を見て、男はその肩を軽く叩く。
「そう気を落とさず。登山道を見落とさなければ、君はここに来られなかったんだ。ご縁があったんだろう。君の具合が落ち着いたなら、良いものを見せてあげよう」




