プロローグ
ざん、と波の音が聞こえた気がした。
ここは天音市天音町。日本列島の大体真ん中辺りに位置しているが、真ん中と言っても都会と呼ぶには烏滸がましく、高いビルの代わりに高い山が町の北と西を守っている。
北の高い山は天岳と言い、町の古老によれば霊峰、若い者によれば程よく高くて山登りに最適な山。西にある低い山が結山と言い、そのなだらかな裾野にはぽつりぽつりと住宅が建っていた。
南はというと海に面しており、小さな漁港があって数艘の漁船が停まっていた。海とは言っても海水浴に適した広い砂浜はなく、切り立った堤防か突き出した岩礁が町にへばり付いているだけで、泳ぐのはもっぱら地元の子供達だけという有様だ。
そしてこの海と天岳を繋ぐのが町の名にもなっている天音川という二級河川。
この大した名所も名産品もない天音町という場所は、北西を山、南を海、東を川で囲まれ、まるで箱庭の中のようにゆっくりと時が流れる町だった。
そんな天岳の中腹を一人の青年が力なく登ってくる。彼の名は紺野比呂。短い黒髪から汗を滴らせ、力なく歩を進めている。
額の汗を腕で拭うと、そのまま空を仰ぐ。目を細めて雲一つない晴天を半ば睨むように眺め、ため息を吐いた。
――暑い。
つい最近までぐずぐずと残っていた梅雨の名残が去っていくと、まるでスイッチが切り替わったみたいにミミズも干上がる暑さがやってきた。
山の中なら涼しかろうと思いサックバッグ一つ背負って出てきてしまった。天岳のほとんどは山毛欅林で快適だと、宿の奥さんも言っていたはずだ。
しかし、今彼がいるのは半端に整地され、アスファルトの敷かれた道だった。割れたアスファルトの隙間から雑草が顔を出している。山の麓に唐突に立っていた掠れた看板によると、「天岳グリーンロード」と言う霊峰天岳の七合目まで車で登れる、すこぶる便利な道路とのことだった。
緩やかな傾斜を付けて百メートル程度真っ直ぐに走った道路は、その先で急なU字を描き百八十度取って返し、つづら折れてはその繰り返し、山頂へ――正しくは七合目へ――向かっていた。
ただ、その便利な道を通る者がいるかどうかは別の話である。登ったところで山向こうの町に出られる訳でもなく、七合目から先を踏破したとしても、小さなお社が祀られているだけで、あとはただ頂上があるだけだという。
もう何度目だろうか。彼が折り返しをやっとの思いで登り切った時のことだ。ざん、と波の音が聞こえた気がした。樹々のざわめきをものともしないその力強い響きは、一瞬にして消えた。
確かに天音町は海を擁しているが、流石に山の上までその音は響かない。しかも今彼が耳にした音は遠く聞こえる波の音――というよりは、真横の堤防に打ち付けた力強い波と言った方がしっくりくるものだった。
気のせいだろうか、はたまた道路を外れたどこかに川が流れていて、その水が岩に打ち付けられたのだろうか。歩くことにほとほと飽きていた彼は足を止め、たった今折り返したばかりの急カーブを描くガードレールへ振り返った。
一拍置いて次の瞬間、あれ、と彼はまた思った。
――なんでこんな目の前に地面があるのだろう。
鼻先二十センチくらいだろうか、目前にアスファルトが迫っていた。思ってすぐに周りの音が聞こえなくなり、視界が虫に喰われていくようにブラックアウトしていった。




