風呂
「おああああ」
正に身も心も声帯も、緩みきった声が出る。比呂は今、露天風呂で温泉にふやかされている。
厨房で比呂の今後が決まり、「やったねやったね」と北斗が勇魚を巻き込んで比呂の周りを回っていると、徐に亜月が手を叩いた。
「傾聴傾聴。みんな、もう夜も遅くなってきたよ。そろそろお風呂に入って。北斗は比呂君を案内してあげて」
「はーい」
比呂は子供達とまとめて追い立てられ、厨房をあとにした。弾むように比呂の前を歩いていた勇魚がロビーの階段前で足を止める。
「比呂は着替えを取ってきて、またここに集合ね」
そう言い置くと、勇魚と北斗は元気に二階へ向かう。まだ興奮冷めやらぬといった様子で、何がおかしいのかキャッキャと笑いながら階段を上がっていく。その背を見送り、比呂は借りている部屋に向かった。
かく言う比呂の方も、まだ口元が緩い気がする。開けたままだった部屋の出窓を閉じ、窓ガラスに映った自分の顔を見てみる。うん、緩んでいる。まったく、表情筋の職務怠慢にもほとほと呆れたものである。
「浜岸のお宿」から回収してきたリュックから着替えを見繕い、両手で頬を揉みながら部屋を出た。ほどなく着いたロビーはしんと静まり返っていて、どうやら二人はまだ来ていないようだ。比呂は頬を揉み続けながら、ぼんやりとロビーを見回す。
大きな観音開きの正面扉は、今は固く閉じられていた。扉脇のガラス部分から、表に下がっているランプの灯りが見えた。
今なら身に沁みてわかる。この山では「何」が入ってくるかわかったものではないので、施錠はしっかりとした方が良い。
日中には溢れんばかりの日差しを透かしていた花柄のステンドグラスでさえ、今はただ真暗な闇を映すガラスである。せめて星空でも見えれば、静寂も「ムードばっちり」と言えるかもしれないが、あいにく摺りガラスのようになっているので、オカルトやミステリー的に「ムードばっちり」となっている。ロビーの隅の大きな振り子時計が時を刻むカチコチという音が、やけに大きく響いていた。
比呂が静かに佇んでいると、静寂を切り裂く明るい笑い声が頭上から降ってきた。
「比呂―っ。お風呂上だから上ってきてー」
見上げれば、二階の吹き抜け部分から勇魚と北斗が顔を出している。北斗に至っては手すりに乗りかかっているのか、身を乗り出すと言った方が正しい状況だ。比呂は慌てて階段へ向かう。
「すぐ行くから、北斗は手すりから降りて待ってろ。危ないぞ」
はーいという声と共に二人の顔が見えなくなったので、比呂はほっと息を吐きながら足早に階段を上っていく。
北斗も勇魚も人間の子供の姿をしているが、よく考えたらその実は妖怪なのだ。三メートルや四メートルくらい、どうってことなく鼻歌交じりに飛べるのかもしれない。――いやいや、もしかしたら、ということもある。もしかしたら怪我をするかもしれない。かもしれない運転でいこう。
比呂が虚空に頷きながら二階に到着すれば、吹き抜け横の廊下に立っていた二人が手招きをする。
「お風呂はこっち」
「まさか勇魚も一緒に入るのか?」
「入る訳ないでしょ! すけべ! 鈍くて見る目がなくてセンスがなくて紛らわしくて失礼なスケベって呼ぶわよ」
「謝るから、その形容詞だけはやめてくれ……」
忘れてもらえたと思っていたどんどん増える比呂の形容詞に、とんでもないものが仲間入りしかけている。もはや北斗はフォローもしてくれずに笑っていた。
「奥が女湯で! 男はこっち! スケベな比呂はこっち!」
「勘弁してくれー……」
女湯へと駆けていく勇魚を見送り、北斗に慰められながら「男」と書かれた藍色の暖簾をくぐり、引き戸を開けた。脱衣所は六畳程度の広さで、二台の洗面台とその背後に籐かごが六つ収まった木の棚があるだけだった。部屋の隅の壁には年代物と窺える扇風機が付いていたが、今は動いていない。
「おお……!」
いかにも平成――いや、昭和感溢れる造りに、比呂は思わず感嘆の声を漏らす。ホテルはくろらしいクラシック感で、風呂への期待が高まっていくのがわかった。北斗と揃ってぽんぽんと服を脱いで浴場への扉を開く。
「おお……」
先ほどとは違い、語尾が下がる方向で声が漏れる。
カラカラと軽い音を立ててガラスの引き戸を開ければ、そこに広がるのは三台のシャワーや蛇口などの洗い場。それに木の椅子や桶だった。そこまでは良い。問題はその横に鎮座している湯舟だ。
湯舟のサイズは意外や意外。大人が二人並んで入ったらもう満杯になってしまいそうなものが一つ、という有り様だった。貧相な湯船の横の窓ガラスから綺麗な星空が見えているのが、なんともちぐはぐな印象だ。
比呂は北斗が小さくて良かったと思いながら大人しく木の椅子に座り、頭のてっぺんからつま先まで洗う。備え付けのシャンプーで髪を洗いつつ、今更ながら気づいた。
「俺、昨日風呂入ってないよな。その割には汗臭くなかったような……」
すでに洗ったあとなので全く意味はないが、思わず自分の腕を嗅いでしまう。その横で頭を振って水気を飛ばしていた北斗が口を開く。
「昨日、亜月が比呂を拾ってきた時、すごい汗かいてたからみんなで拭いてあげたよ」
「えっ!?」
知らなかった。本人の意識もないまま清拭されていたなんて。そういえば目が覚めた時、やけにスッキリとした気持ちで麻の着物に包まれていたような。ああ、ありのままを全員に見られていたなんて……と、比呂は泡の付いたままの手で顔を覆い、乙女のように身を震わす。
いやいや待て待て。今朝目覚めた時、下着はあの日着ていた自前の物だったはず。流石の亜月もそこは容赦してくれたのだろう。そういうことにしよう。「世話焼きおばちゃん」のように言っていた青年団の人々と、いまいち食えない笑顔を浮かべた亜月が、脳裏でぐるぐるとマイムマイムを踊る。だめだ、これ以上考えても己の尊厳が傷付くばかりだ。
比呂は全ての雑念を断ち切るかの如く、桶に溜まったお湯を頭から豪快に被った。
「比呂はおへそのとなりにほくろがあるんだね!」
「……」
比呂が洗い終わるのを待っていたのか、ちょうど良いタイミングで北斗が立ち上がる。
「お風呂はね、こっち」
半分魂が抜けかけている比呂の手を引っ張り、北斗は湯舟の脇の出窓へ向かう。
「そこの湯舟じゃないのか?」
「そっちでも良いけど、狭いから」
言いながら出窓を開く北斗。その赤銅色の窓枠の向こうに広がっていた景色は、絶対に天岳ではないどこか山奥の露天風呂だった。
「白霧勘右衛門之介様ァ!」
思わず比呂は絶叫してしまった。それは狭い浴場によく反響した。遠くで勇魚の「うるさいわよ!」という声が聞こえた気がするが、今は置いておこう。
よく考えれば、「山の風景に飽き飽きの住人」の為に日替わり景色の窓を作った白霧勘右衛門之介様が、風呂に拘らないはずがないだろう。思わず様付けになってしまうのも致し方のないことだ。
「ここはね、えっと、キューシューのどこか山奥の、人間が知らない秘湯なんだって。たまに動物が入ってるよ」
「おお……っ!」
赤茶の大地のそこかしこから、もうもうと硫黄の香りの湯気が立ち上っている。辺りは何か常緑樹が生えているようだが、硫黄の仕業かガスの仕業か、それはぽつぽつと立ち枯れていた。出窓から露天風呂までは平らな岩が敷かれて舗装されており、足を汚さずに行き来できそうだ。
比呂はおっかなびっくりといった体で、つま先をちょんと窓の外の足場に付ける。その確かな岩の感触に、これは幻ではないと実感した。
「比呂、大事なの聞いて。この出窓はね、いつもこのお風呂に繋がってるけど、完全に閉まっちゃうと、温泉側からはなくなっちゃうの。だから外に出る時は、必ず窓が閉まらないようにロックをかけて、開けたままにしてね。心配だったら椅子を置いても良いよ」
急に北斗が怖いことを言う。温泉に入っていたら帰り道が消え、裸一貫で九州のどこか山奥で助けを待つ自分を思い浮かべ、震え上がる。慌ててしっかりとロックを指差し確認した。今後一人で入る時は、必ず椅子を置こう。
北斗と一緒に指差し確認を終え、ペタペタと足音を立てて風呂に近づく。まずはしゃがみ込んで湯に指先を入れてみる。お湯は白濁していて底が見えないが、ちょうど良さそうな温度の硫黄泉だ。
お湯の様子をみる比呂を、気付けば北斗が並んで見ていた。お湯に浸けていた手を出して彼の前に差し出すと、クンクンと鼻を鳴らす。まるで猫のような小狐である。思わずくすりと笑ってしまった。
「くしゅっ」
北斗が小さなくしゃみをする。この拓けた場所は風の通り道なのか、よく風が通る。風が吹くたびに、水面を覆う重たい湯気がサーッと流れていくのが見えていた。
このままでは、温泉の前で風邪をひいてしまう。縁の岩にかけてあった木桶で掛け湯をし、比呂は北斗に促されるまま湯船に浸かった。
「――おああああ」
全てがだるっだるんに緩みきっている。まだ中学時代から履き続けているジャージのゴムの方が、幾分緊張感があるだろう。
「あっちの赤い石の方は、熱いから行っちゃダメだよ」
「りょーかい」
ぱかりと目を開けてみれば、北斗は湯に浮かんでいた湯の花を集めて遊んでいた。
二人して温泉を満喫中だ。汗も疲れも緊張も全て、温泉に溶け出していくようである。
「この温泉はね、血の流れをよくして、美肌になって、かんせつつうに効くんだって。はくむかんえもんのすけもね、この温泉に浸かって体を休ませながら、はくろを作ったんだって」
「最高だよ、白霧勘右衛門之介ぇ……」
「建物はかいちくしちゃってる部分が多くて、もう昔とはちがうんだけどね。違う場所につながる窓とか、部屋の中の木とか、そういうスゴイ部分は昔のままなんだよ! やっぱりはくむかんえもんのすけはサイコーだよね!」
しかし白霧勘右衛門之介も人が悪い。一度狭い風呂場を見せ、落としてからまた上げるとは。憎い演出をするものだ。
比呂はぷくぷくと鼻先までお湯に浸かると、それは少し苦く感じた。
次回からは、毎週月・木曜日の21時頃に定時更新となります。
どうかお付き合いいただけますと幸いです。




