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亜月の仕事、比呂のお仕事

 温泉で緩み――もとい、温まった体を手で扇ぎながら、比呂はほてほてと階段を降りる。二階に自室がある勇魚と北斗とは、上で別れた。亜月に挨拶すると言ってついて来ようとしたが、眠さが限界にきているのか、二人して半目状態になっていたのでそのまま部屋に行くように押し出した。

 勇魚に至っては、壁のつっかえ棒と成り果てながら「行くわ……」と繰り返していた。

 比呂は脱衣所で頭を乾かしている時に、既に横で半死半生になっている北斗を見ていたので、もし一人で女湯に入っている彼女が出て来なければ乗り込むと覚悟を決めていたところだった。たとえ、今後一生「スケベ」の汚名を着せられようとも。無事に出てきてくれて本当に良かったと、比呂は改めて思う。

 階段を降りきると、事務所に明かりが点いているのが見える。どうやら亜月はまだ自室に戻っていないらしい。あながち、「仕事が多過ぎる」と言っていたのは比呂への気遣いではなく、本心からの言葉だったのかもしれない。一日も早く亜月の負担を減らせるよう頑張らねば、と比呂は拳を握る。


 決意を握ったままの拳で通用口横の壁を叩き、カーテンの隙間から顔を出した。

「亜月さん、お風呂上がりました」

 事務所の中では予想通り亜月が仕事をしていた。メガネをかけ、事務椅子に座り、背筋をピンと伸ばした美しい姿勢で、難しい顔をしながらパソコンと向かい合っている。

 その指先から繰り出されるタイピングは華麗にも、何と言うか、さながら五月雨打法とでも呼ぶべきだろうか。一〇〇〇文字打つとしたら、確実に一番鶏が鳴くだろう。雨だれが石を穿ってしまいそうだ。

「亜月さん……」

 声をかけて良いものか悩んだが、一応もう一度その名を呼んでみる。二度目の声掛けで亜月は意識を電脳世界から現実に引き戻し、その目に比呂を映した。慌てて椅子を回転させてこちらを向く。

「お帰り比呂君。うちのお風呂どうだった? 子供たちは?」

 比呂はホッと息を吐きながら、通用口のカーテンを開けた。

「勇魚と北斗はもう半分寝てたので、そのまま部屋に――で、風呂なんですけど。……すごいですね! 客のテンションを一回落としてからのどんでん返し! 思わず叫んじゃいました。お湯も良くて、オカルトに縮み上がった体が、すっかり緩みました」

 比呂の興奮様に亜月は苦笑して、「別に一回落とそうとは思ってないんだけど」と言った。

「子供たちにとっては、今日は少し夜更かしになってしまったね」

 亜月の視線につられて壁時計を見上げれば、時刻は夜十時を回ったところだ。二人が何歳なのかは――そもそも見た目通りの年齢なのかも――知らないが、あのサイズのお子様たちには限界だったのかもしれない。

「興奮して疲れたのもありそうですけどね。亜月さんはお風呂が冷める前に……の必要は、ないんでした」

 ついつい下界の発想を口に出してしまう。

「そうだね、いつ行っても熱々だからありがたい――そうだ。比呂君、今どこにいるかって、ちゃんとおうちに連絡してる? 電話が必要ならこれを使って良いよ」

 亜月はパソコンが載っている事務机に鎮座している電話を指さした。生成り色になりかけている白色の電話機は、蛍光灯の下でテカテカと光り、「俺を使いなよ」と主張しているようだった。

 比呂は返答に詰まる。何故だかわからないが、彼は電話が苦手だった。電話をかけるなら、まずは台本が必要である。ある程度対応が決まっているアルバイト先での電話は、ぎこちないながらもなんとかなった。なんとかなっていたと思いたい。

 しかしそれでも悲しいことに、予想と違うことを言われれば数秒止まる自信はある。過去、意を決してかけた先が留守番電話だった時には「すみません」が止まらなくなり、後日それを聞いた友人から「すみません」しか記憶に残らなかったと言われたこともあった。甚だ遺憾である。

 かと言って、対面なら弁が立つというわけもなく、ただとにかく苦手なだけだった。恐らく前世で電話に殺されたりしたのだろう。

「や、多分うちの両親は心配してないと思うので、大丈夫です。電話するにも遅いですし」

 比呂が電話を固辞すると、亜月は真剣な顔をして体をこちらに向けた。とん、と指先で数を数えるように机を叩いた。

「半年前に親族が失踪。同居していた息子が捜索していた。ふと連絡を取ろうとすれば、連絡がつかない。家に行ってみれば、誰もいない。どこに行ったかもわからない。――二人目の失踪者の出来上がりだね?」

「……」

 細められた亜月の目が笑っていない。

 確かに、言ってみればその通りではあるのだけれど。比呂は低く唸りながら視線を泳がす。すると、パソコンが目に入った。

「あ、あの、このパソコンネットに繋がってるんですよね?」

「そうだよ」

「それなら、ネットを共有させてもらえませんか? 俺、スマホ取ってくるんで」

「ネットをキョウユウ。どうぞ?」

 恐らく意味が解っていない亜月を事務所に残し、比呂は部屋へと急いだ。有線LANで繋がったパソコンのネット環境を共有して、スマホをネットに繋ぐことができたはずだ。昔友人がやっていたのを横で見ていたが、あまり難しいことなく設定していた記憶がある。ネットで方法を検索しながらやれば、比呂でもできるだろう。電話をかけたくないという強い一念が比呂を走らせる。


「これでよし」

 二十分後、ここ二日間ずっと圏外であった比呂のスマートフォンにWi-Fiのアンテナマークが表示された。

「すごいね。これでこのホテルでも、スマホが使えるようになったのかい?」

 比呂がネットを見ながら設定を行っているさまを、背後の小上がりに腰かけて見ていた亜月が感心する。いつの間にかその手には湯呑が握られていた。

「ホテルで――というか、精々この事務所内くらいの範囲ですね。ここでだけスマホでネットが使えるようになりました」

 比呂は小上がりに移動し、亜月にスマートフォンの画面を見せる。久しく見ていなかった電波のマークだった。試しに「恩極」で検索してみると、問題なく検索結果が表示された。若干スピードは遅いが、たまに連絡をとるだけであれば特に問題ないだろう。

「あっ」

 その検索結果を見て、比呂は少し落ち込む。首を捻った亜月が画面を横から覗き込む。その画面には「望郷」が人気を博し、恩極が取材された記事が表示されている。写真付きで。

「うわぁ。恩極、こんなに痩せちゃったのかい? 前はもっとなんというか、ふくふくと」

 そう。臓器抜き事件より前は、悟叔父も紺野一族の例に漏れず呑気な輪郭を描いていた。その所為で、比呂は「人相が変わる前の証明写真」と「らくがきの自画像」という頼りないアイテムだけで捜索に出たのだ。

 それなのに、ここにあったではないか。ネットには「望郷」で人気が出た時のインタビュー記事が存在していた。確かこの取材の時に着ていたシャツは、「まともな服がない」とうろうろしている悟叔父に、比呂が慌てて買ってきたものだ。近くの「ファッションセンター」で調達したもので、とても安かったことを覚えている。

 因みにこの記事以降、悟叔父は少しモテた。つまり、今現在比呂に恋人なるものの縁が遠いのは、この呑気な放物線の所為であると証明されたのだ。

 写真を見て黙り込む比呂。それを傍から見ていた出来る男亜月は、思慮深い異なった察しをしてくれたようだ。比呂の肩をポンポンと叩き、用意してあったもう一つの湯呑を差し出す。

「大丈夫。きっと元気にしているよ」

 比呂を労わるほほ笑みと湯呑を残し、彼は再びパソコンへと向かっていった。なんとなく「自分の考えが足りていなかったことにショックを受けていた上に、全く違うことを考えていた」とは言いづらい。ぐっと言葉を飲み込むと、麦茶が揺蕩う湯呑を手に、亜月の背中で揺れる一房を無言で見送った。自分はそんなに哀愁を漂わせていたのだろうか。

 亜月がまた表計算ソフトを開いたところが見え、我に返って再びスマートフォンを触る。そもそも自分は、失踪者その二回避の為に、両親へ連絡をしようとしていたのだ。久しぶりに感じるメッセージアプリを立ち上げると、読み込みにやや時間をかけ、未読マークが並んだ。お店の広告、友人のくだらない連絡、ネットニュース……やはり悟叔父からの新規メッセージは来ておらず、比呂から送ったメッセージも未読のままだった。

 軽く肩を落としながらも、両親に向けてメッセージを打つ。

『×県天音市天音町の天岳にある「ホテルはくろ」で、住み込みアルバイトをすることにしました。悟さんの知り合いが居たので、少し話を聞いてみようと思う』

 時刻は既に夜十一時になろうとしている。早寝の両親はもう寝ているかもしれない。とりあえず連絡は打ったのだから、明日比呂が起きた頃には何かしら返事が来ているだろう。ついでに友人に返信をし、ポケットにしまおうとすると、ぶるりとスマートフォンが震えた。

『気を付けて』これは父だ。

『ご飯はちゃんと食べてるの?』こちらは母。一緒に骨付き肉の絵が並んでいる。

「――……」

 もしかしたら自分は、思ったより両親に心配させているのかもしれない。思いがけず早く返ってきた返事を見ながら、そのことにやっと思い至る。こちらでも、自分は考えが足りていなかったのかもしれない。『おいしいご飯を食べてるよ』と打ちながら、今度ここの食事の写真を送ろうと思った。


 比呂は感慨にふけりながらスマートフォンをしまい、すっかり温くなった麦茶を飲む。亜月は難しい顔をしながら、ゆっくりひとつひとつ確かにキーを押している。何をするともなく、その後ろ姿を眺めながら湯呑を傾けた。

 やがて湯呑から麦茶がなくなったころ。

 亜月は相も変わらず同じ体勢のまま、五月雨打法で表計算ソフトに入力している。

 比呂は理解した。彼はやることがたくさんあって忙しい。忙しいのは確かだろうけど、要因はタスク数だけではないのではないだろうか。

「――亜月さん。それって帳簿の転記ですか? もし良ければ、俺に手伝わせてもらっても……」

「えっ!?」

 本人曰く「ブルーライトカットメガネ」の奥で、青碧色の目が丸くなっている。その瞳は「できるの!?」という期待に満ち満ちていた。


 PC前の椅子を亜月と交代して五分。自分の足元がひっくり返るような眩暈を感じた。

 亜月は「こっちの帳簿の数字を、こっちのソフトに入力して」と言っていた。比呂はてっきり入出金をまとめてある帳簿の数字を転記して、表計算ソフトで計算して……という流れだと考えたが、帳簿内で全て手計算されて完結している。念を押しての再確認用かな? と思いつつソフトを触れば、関数が入っていない。

 なんということでしょう。これは彼の言ったとおり、「帳簿に書かれている数字をPCソフトに転記するだけ」のお仕事となる。

 比呂は無言で本日分の入力を終える。入力間違いがないか念のため二度確認したが、一瞬だった。これは比呂が幻の凄腕会計士だったわけでも、特別タイピングが早かったわけでもない。「食事処月虹」の売り上げだって高が知れているし、「売り上げ・うどん一杯・イワナ二匹・八百円」などと書かれているのをただ転記しただけだ。

 そのさまを斜め後ろで見ていた亜月は、まるで信じられないものを見たとばかりに口に手を当て、目を潤ませている。

「比呂君流石だよ! やっぱり若い子は違うんだね。いやぁ、税理士さんに、お願いだからデータにしてくれと言われて、お手伝いしてもらいながらPC買ったりネットを引いたりしたんだけど、よくわからなくて。正直、この仕事が一番たいへんでね……」

 比呂は一瞬にして、まだ見ぬ税理士の奮闘を思い、涙した。売上も支出も謎めいた項目の羅列、レシートなんてあったら御の字、やっとのことでPCを導入させれば、この状態のデータが届く……。

 くるりと事務椅子を回転させて亜月に向き直ると、比呂は慈愛の笑みを浮かべた。

「他にも、こういうデータ処理関係のものがあれば見せてください。俺が何とかできそうなものは、俺がやります」

 その言葉に亜月は打ち震えた。のちに彼はこう語る。

 ――白霧勘右衛門之介の絵の横に、比呂の肖像画を飾ろうかと思ったと。

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