【02】 絶頂からの転落
『実況:大時計が回ります。10秒前……5秒前……!』
針が3、2、1と刻み、真上の「0」へと届く。
爽香(行けッ! まくるわよ!!)
心の中で叫び、全速のままスタートラインを駆け抜けた。感覚は完璧。コンマ02の極限のトップスタートを切った確信があった。
内側の艇が1艇身以上も後ろに見える。爽香は身を低くかがめ、風を切り裂いた。
第1ターンマーク。ハンドルを左へ切り込み、体を左側へ一気に倒し込む。競艇場で何度も叩き込まれたモンキーターン。これまでのどのレースよりも鋭く、華麗に水面を滑った。
インの艇が並びかけようとしてくるが、爽香の伸び足が上回る。振り切った!
爽香(やった……! トップだ!!)
興奮に胸を躍らせながら振り返り、後続を確認する。
すぐ後ろに迫る2番手の男子レーサーが、シールド越しに激しく頭を横に振っていた。まるで「外へどけ!」と怒鳴り散らしているかのように。
爽香(これがプロの洗礼なの? 新人がトップに立ったからって、外を走れっていうの!?)
爽香の胸に悔しさがこみ上げる。
爽香(そうはいかない! これがあたしの初勝利なんだから! 水神祭のための花道なんだから!)
爽香は引かなかった。相手の進路を塞ぐようにコースを絞り、引き波を浴びせる。2番手艇が一瞬失速し、差が開いた。
第2マークを無難に回った爽香の視界に、大時計横の赤いシグナルランプが飛び込んできた。
その下で、巨大な数字が鮮烈に光っている。
『5』
爽香は自分のカポック(着衣)を見つめた。黄色の背景に黒い文字。
爽香(黄色の5枠……あたし……!?)
血の気が一気に引いた。頭の中が真っ白になる。
爽香はあわててレバーを戻し、岸寄りへとコースを外した。その脇を、他の5艇が全速で次々と駆け抜けていく。
フライング(F)――。
失格となった爽香は、トボトボと1マークを回り、ピットへ引き返した。バックストレッチ奥の信号灯にも、容赦なく『5』が点滅していた。
陸に上がると、モニターを囲んでいた先輩選手たちの嘲笑が耳に刺さった。
選手A「馬鹿じゃないのあの5号艇? フライングしといて2周も走り続けるなんてさ」
選手B「『5号艇失格』って場内アナウンスがずっと流れてたのに、図々しいにも程があるわよね」
選手C「ほんとほんと! よくあれで養成所卒業できたわね!」
ゲラゲラという高笑いが響く中、爽香は視線を地面に落としたまま通り過ぎた。夢中になりすぎて、アナウンスすら耳に入っていなかったのだ。
さらに追いうちをかけるように、競技係員が怒鳴り込んできた。
競技係員「速水! デビュー3節目でもうフライングか! お前は何を考えて走ってるんだ! 養成所で事故の重大さを習わなかったのか!?」
爽香「……習いました」
競技係員「聞こえない!!」
爽香「習いました!!!」
競技係員「壁の貼り紙が見えないのか! 『今日も無事故完走』って書いてあるだろ! あれが見えないのか!!」
爽香「見えます!!!」
競技係員「大時計すら見えない奴に、あの文字が見えるか! フライングひとつでどれだけの返還金が出て、どれだけの売上が吹き飛ぶか分かってんのか! お前がその何千万円かを払えるのか、ああん!?」
怒号は延々と続いた。床にぽたぽたた涙が落ちた。
説教が終わり、通路を歩いていると、すれ違いざまに肩をぶつけられた。
フライングレースで2番手を走っていた男子レーサーだった。
男子レーサー「フライングしといて邪魔なんだよ、浮遊物が。さっさと消えろ」
冷酷な吐き捨て。あのヘルメットの動作は「邪魔だ」ではなく、「お前はフライング失格だからコースを空けろ」という警告だったのだ。
爽香(あたし……浮遊物なんだ……)
控室の隅で荷物をまとめながら、爽香の涙は止まらなかった。
爽香(3節走って全部最下位。賞金ゼロで、迷惑ばかりかけて……。ボートレーサーなんて、やっぱり向いてなかったんだ。こんなに惨めなら、最初からレーサーになんてならなきゃよかった……)




