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春に咲く花、愛よりも尊し。  作者: 639


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9/15

過ぎし主、今の主、御側にありて 8



あの後――アレクサンドル様からいただいたチョーカーを身に着けたまま、私はラディウス様とフィオリア様のいる執務室へ戻った。扉を開けた瞬間、二人は揃ってにやりとした笑みを浮かべ、「そのチョーカー、誰にもらったの?」と楽しげに問いかけてきた。


「……アレクサンドル様です。」


恥ずかしさを堪えながら答えると、お二人は顔を見合わせて微笑むばかりで、それ以上は何も言わなかった。


やがて、即位式の準備は着々と整い――その前日の早朝。

まだ夜の名残が空にうっすらと残る頃、私は静かに目を覚ました。今日はいよいよ、各国からの来賓が到着する日。この日を迎えるにあたり、私は身を清めるような心持ちで制服を整える。

ラディウス様の部屋へ向かうと、すでにメイドたちが慌ただしく動いていた。彼女たちに一礼を返し、私はすぐに、ラディウス様の支度に加わる。

本日は特別な装い――首元には、普段は身につけられないチョーカーが巻かれる。宝石が繊細に散りばめられたその装飾は、ラディウス様の気品と美しさをいっそう引き立てるものだった。衣装もチョーカーに合わせて仕立てられており、オメガであることがすぐには分からぬよう工夫されている。


……その“配慮”には、理由があった。


今回招待されている来賓の中には、レガトニア王国のヴァレリウス王という厄介な人物が含まれている。

彼はかねてより“オメガ嫌い”として知られており、過去には自身のフェロモンに惹かれたオメガが夜中に忍び込んできたという出来事を“冒涜”と受け取り、それ以降すべてのオメガに対して露骨な敵意を向けるようになったという。王の視線を受けたオメガが威圧に耐えかねて倒れる、という噂も絶えない。

対照的に、もう一国の来賓、ルセニア公国のイーリス公太子はまったく異なる。オメガへの偏見はなく、伴侶もオメガで、今は妊娠中だという。そのため、今回は信頼のおける従者を伴い、穏やかな雰囲気で王都入りされる。


「準備は整った。……行こうか。」

「はい。」


ラディウス様の声に応えた直後、メイドたちが「行ってらっしゃいませ。」と一斉に頭を下げ、静かに扉を開ける。ラディウス様が優雅な足取りでその扉をくぐり、私は一歩下がって後に続いた。

ほどなくして、私たちは東宮の正面――来賓を迎える要所に立つ。控えの場は、整然と、そして張り詰めた空気に満ちていた。

そこへ、ラディウス様がふと私の方を振り向く。


「リアン、レガトニア王とは少し距離を取って。あの人の威圧にさらされると、君が傷つく。」

「……しかし、私はラディウス様の従者として――」

「大丈夫。万が一のことがあれば、アレクもすぐに駆けつけるから。ね?」


少し茶目っ気を含ませたその瞳に、私は抵抗の言葉を飲み込む。


「……かしこまりました。」


少しだけ唇を引き結び、頭を下げた。


そしてしばらくすると静かに、重く、東宮の扉が開かれた。

光が差し込むその向こうに、まず姿を現したのは――レガトニア王国、ヴァレリウス王。

艶のない漆黒の礼装に、鮮やかな紅の外套。その身にまとうのは、剣のような緊張感と、冷たい威厳。

長身で鍛え上げられた体躯、そして――周囲の空気を震わせるような圧倒的な存在感。従者たちすら顔をこわばらせるなか、彼は眉ひとつ動かさずに歩みを進めた。


「……あれが、レガトニアの王、ヴァレリウス陛下。」


リアンの耳元で、そっとメイドの一人が囁く。その声も、少し震えていた。


レガトニアの王の視線が、まっすぐラディウス様へと向けられると、一瞬、周囲の空気が凍りつくような沈黙が流れた。だが、そのままラディウス様に目を留めたまま、彼はふいに立ち止まり、わずかに目を細めた。

一目で、気づいたのだ。ラディウス様が「オメガ」であることを。けれど不思議と、怒気も軽蔑も浮かばず。代わりにレガトニアの王の目に宿ったのは、微かに揺れる“疑問”と“興味”だった。


「……成る程。」


それだけを呟くと、彼は再び歩みを進め、恭しく頭を下げる。


「レガトニア王国、ヴァレリウス。皇太子の即位を祝し、参上した。」


レガトニア王が落ち着いた声で応じると、その瞬間、場に張りつめていた緊張が少し緩んだように感じた。


そして――続いて現れたのは、ルセニア公国のイーリス公太子。

淡いブルーの衣装に、花飾りを添えた従者を伴い、彼は陽光のように柔らかい笑みを浮かべて歩いてくる。

長い睫毛の奥から覗く瞳は、温かく、そして聡い光を宿していた。


「ルセニア公国より、イーリスがお祝いにまいりました。アレクサンドル様の皇太子の即位を、心より祝福申し上げます。」


彼の声は明瞭で優雅だった。

従者も自然と微笑を浮かべ、緊張でこわばっていたメイドたちの表情が、すこしずつ緩んでいくのが見て取れる。


「ようこそ、我が国へ。長旅、本当にお疲れさまでした。弟アレクサンドルの皇太子即位式にご臨席いただき、心より感謝いたします。どうぞ、東宮の従者がご案内いたしますので、お部屋でゆっくりお休みください。」


ラディウス様がそう丁重に応じる姿は、いずれの来賓にも物怖じすることなく、静けさと気品を兼ね備えていた。

その後方で控えていた私は、ふと胸の内に熱を灯す。この人が、主で良かった。そう、胸の内で静かに誇りを抱いていた。

両国の使節団がそれぞれ従者に案内され、東宮の広間から退出していく。

重たかった空気も、今ではすっかり落ち着き、メイドたちが安堵したように動き出していた。

ラディウス様は小さく息を吐き、控えていた私の方をちらりと見やる。


「……思ったより、穏やかだったね。」

「はい。ヴァレリウス王はオメガを見ると“威圧する”という噂を耳にしていましたが……ラディウス様のことをオメガだとわかっても、睨まれることもなく。」

「ともあれ、最初の挨拶は無事に済んだんだ。離宮に戻って、今夜の晩餐会に備えよう。」

「はい。」


今夜の晩餐会は非公式とはいえ、来賓との交流を目的とした重要な場である。

朝の挨拶とは異なり、食事を共にしながら他国の賓客と親しく言葉を交わす時間が設けられている。

ラディウス様にとっても、緊張の抜けない一日となるだろう。


「お部屋に戻られたら、すぐにお茶をお持ちします。」

「ありがとう。」


ふと、ラディウス様は仰ぐように空を見上げた。

今日という一日が、どれほどの重みを持っていたのか――ようやく、実感として胸に降りてくる。


「……これからが、本番だね。」

「はい。どんな場面でも、私が側におります。」


ラディウス様は、口元をほころばせ、小さく息を吐いた。


「……心強いよ、リアン。」


離宮に戻ると、すぐにお茶の支度に取りかかる。

銀盆にティーポットとカップを並べ、ラディウス様の部屋へと足を運んでいたその時――背後から足音が近づいてきた。

気になって振り返ると、そこにはレガトニア国王付きの使者が、両腕に抱えきれないほどの大きな花束を携えて歩いてきていた。


「ラディウス様へ、我が王よりお預かりした品をお届けに参りました。」

「……ラディウス様に、でございますか?」

「はい。こちらでございます。」


使者は大きな花束を差し出しかけて、私の手元にお茶のセットをのせた銀盆があるのに気づく。使者は腕に抱えた大きな花束を少し持ち直した。


「ただ、両手が塞がっておられるようですので、もしよろしければ私がそのままお部屋までお持ちしましょうか?」

「……はい、お願いいたします。ラディウス様のご在室を確認しておりますので、私がご案内いたします。」


部屋の前に立ち、ノックをする。


「ラディウス様。レガトニア王国より、ヴァレリウス陛下からの贈り物をお届けに参りました使者がございます。」


少しの沈黙の後、部屋の中から穏やかな声が返る。


「……通して。」


扉を開けると、ソファーに腰掛けていたラディウス様は、読んでいた本から視線を外し、顔を上げた。使者は恭しく一礼し、抱えていた花束を差し出す。


「こちら、ヴァレリウス陛下よりの贈り物にございます。」


ラディウス様が受け取ると、その腕には大輪の白いカトレアがふんだんにあしらわれた花束が収まった。真珠色の花びらが光を受けて淡く輝き、所々に差し込まれた淡紫のカトレアが、白の中に静かな気品を添えている。花の隙間にはカスミソウと銀葉が織り込まれ、豪奢さと繊細さが同居していた。

ひと目で、これはただの贈り物ではないとわかる。

――花言葉は、「あなたは美しい」。

花束から漂う上品な香りが、部屋の空気ごと、静かに染め上げていった。


「……美しい花ですね。」


そう呟いたラディウス様の声音は、わずかに戸惑いを帯びている。使者は再び深く頭を下げると、何も言わずに部屋を後にした。

扉が閉まると、残されたのは花束を抱えたまま立ち尽くすラディウス様と、お茶のセットをのせた銀盆を手に、その様子を見つめる私だけだった。

何を思って贈られた花なのか――

花言葉を知っているがゆえに、問いかけることもできず、私はただ、困惑するその横顔を静かに見守ることしかできなかった。

ラディウス様は花束をそっと机の上に置き、少し長く息を吐いた。


「……贈り物はありがたいけれど、どう扱うべきか迷うね。」


その言葉に私は返す言葉を見つけられず、ただ深く一礼した。

やがてラディウス様は視線を上げる。


「……そろそろ支度を始めないといけないね。その前に入れてくれたお茶を入れて欲しいな。」

「かしこまりました。すぐに準備致します。」


お茶をいれて、ラディウス様の前にお出しする。ラディウス様はカップを手に取り、一口飲んでホッと一息つく。


「リアン、この花束を飾っておいてほしい。」

「かしこまりました。」


花束を受け取り、花器に移して窓辺に飾る。陽光を受けた花弁が淡く輝き、部屋に甘い香りを漂わせた。


「……綺麗だね。けれど、これを見て何を思うかは人によって違うだろう。」


ラディウス様はカップを置き、わずかに視線を落とす。


今夜の晩餐会は、公式日程にはない“親睦のための席”だ。

招かれるのは、王族と各国の賓客だけ。格式張った場よりも近い距離で言葉を交わせる分、油断はできず、かえって気を遣う時間になる。

それにレガトニア王から意味深な花束も受け取ってしまったので、より気を揉んでいる事だろう。


「……さて、しばらく休んだら支度を始めようか。今夜は大事な晩餐会だから。」

「はい。お召し替えの用意は整えております。」


そのまま短い休憩を取り、やがて私はメイドたちと共に晩餐会用の衣装を整える。淡い色の礼服に身を包んだラディウス様は、まるで光を帯びたように見えた。


夕暮れの城内、煌びやかな大広間に灯りがともる。

各国の衣装が咲き誇る中、ラディウス様がゆったりと歩みを進められる。

笑みを浮かべつつも互いの間合いを測るような視線が飛び交い、空気には微かな緊張が混じっている。

私は壁際に控え、ラディウス様が着席される様子を見守った。

この場では、一つ一つの言葉も表情も、明日の即位式とその後の関係に影響を与えかねない。


(どうか――無事に終わりますように。)


胸の奥でそう祈りながら、私は静かにその背を見つめ続けた。



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