過ぎし主、今の主、御側にありて 7
このところ、ラディウス様はアレクサンドル様の即位式に向けての準備でご多忙だ。執務室では真剣な表情で、フィオリア様と親交のある二ヶ国からの賓客へのおもてなしについて、綿密な話し合いを重ねておられる。その間、私にできることといえば、頼まれた品の手配や、お二人の手が止まった合間にお茶や菓子をお持ちすることくらいだ。
忙しいのはラディウス様たちだけではない。即位式に出席されるアレクサンドル様も、ここ数日顔を見ていない。
あの時のお礼は何とか伝えることができたが――お借りしたはずのシャツは、まだ返せずにいた。お詫びの品を添えてお返ししようと、ささやかながら即位のお祝いに、上質な白いリネンのハンカチを用意した。縁には金の刺繍糸で慎ましやかな模様をあしらい、丁寧にアイロンをかけてシャツと一緒に、そっとクローゼットの奥へとしまっている。
「リアン、この書類をアレクサンドルのところへ届けてくれないか?」
執務室で書類の整理をしていると、ラディウス様からお使いを頼まれた。
「かしこまりました。」
「ついでにお茶も運んであげて。即位式の準備で、きっと疲れているだろうから。」
「はい。」
フィオリア様にも一礼し、執務室を後にする。
ラディウス様の命とあらば、断る理由などない。とはいえ、彼に会うのは、あの日以来だった。
(……返せるかわからないけれど。けれど、このまま何もせずにいるのは、もっと辛い)
そう思い、サービングルームでティーセットの準備を進めつつ、こっそりシャツとハンカチを包んだ小箱をカートに忍ばせた。カート中央にシャツとお詫びの品、そしてその上に預かった書類。上段には湯気の立つ紅茶と、アレクサンドル様の好みの焼き菓子を添えて。
東宮では、メイドたちが忙しなく行き交っていた。衣装の仮縫いや飾りの準備、来賓用の部屋の掃除に追われているようだった。
私はそのうちの一人に声をかける。
「アレクサンドル様は、今どちらに?」
「確か…中庭のガゼボで、少しお休みになっているようです。」
「ありがとう。」
メイドに礼を告げ、私はサービングカートを押して中庭へと向かった。
ガゼボの下では、アレクサンドル様が背もたれに寄りかかるようにして、静かに目を閉じている。その横には、彼付きの従者が一本の柱にもたれて、気だるそうに控えていた。夏の陽射しを避ける白い布の影で、二人は涼やかな空気に包まれている。
昼寝の邪魔をしてよいものかと迷い、私は足を止める。サービングカートのハンドルを握る手に、無意識に力がこもっていた。
――そのとき。
ふと視線に気づいたのか、従者殿がこちらを見て、小さく笑んで手招きしてきた。
(……気づかれてしまった。)
思わず背筋が伸びる。けれど、逃げるわけにもいかず――私はカートの取っ手を握り直し、アレクサンドル様付きの従者にそっと近づいていった。
「リアン殿、申し訳ありません。少し取りに行かねばならぬ物がありまして……代わりにアレクサンドル様をお起こしいただけますか?」
「……っは、はい?」
いきなりの依頼に、思わず聞き返してしまう。けれど従者殿は、にこりと涼しい顔で笑った。
「ありがとうございます。それではお願いいたしますね! なかなか起きなかったら叩いてくださって、構いませんのでー!」
そう言い残して、さっとその場を離れていった。ぽかんとその背を見送った私は、すぐに目前の現実へと引き戻される。
(どうしよう……本当に、俺が起こさなきゃいけないの?)
木漏れ日の下で、静かに眠るアレクサンドル様。普段の凛々しさとは違う、どこか無防備で穏やかな寝顔が、視界いっぱいに広がる。その姿に、思わず胸が高鳴った。顔が熱い。けれど、やるしかない。そっと一歩近づき、声をかける。
「……アレクサンドル様。起きてください。」
小さな声。けれど、返事はない。寝息は静かで、規則正しい。まるで、まだ夢の中にいるようだ。
(だめだ……)
次は、そっと肩に手を添えて、揺らす。それでも、微動だにしない。重ねて呼びかけようとして――ふと、従者殿の言葉が頭をよぎる。
”なかなか起きなかったら叩いてくださって、構いませんのでー!”
(まさか、本当に叩けってこと!?)
戸惑いながらも、意を決して手を振りかけた、その瞬間。
――ぐいっ。
「えっ……!?」
掴まれたのは、手首。
反射的に引こうとしたけれど、それよりも早く、アレクサンドル様が動いた。気づけば、自分の体は引き寄せられ、その胸元へ、すっぽりと包まれていた。
「~~~~っっっ!?」
言葉が出ない。けれど、その体温、その腕の重み、そして――ふわりと鼻腔をくすぐる、懐かしい匂い。
(この香り……やっぱり、アレクサンドル様だったんだ。)
夢の中でも、あの夜と同じ匂いに包まれていたことを思い出す。思い出すたびに、胸の奥がきゅっとなる。
(い、今はダメ……こんなことしていたら、従者殿が戻ってくる……!)
でも、離れたくない気持ちが、心のどこかで膨らんでいく。リアンの理性と本能が、ひそやかに揺れていた――。
「……アレクサンドル様、起きてください……っ」
顔を上げて必死に呼びかけても、アレクサンドル様はぴくりとも動かない。むしろ――ぐい、とリアンの体を引き寄せるように、腕の力が強まった。首元に顔を埋めるその姿は、どう見ても寝ぼけている。
けれど――次の瞬間。
「ん……落ち着く……」
低くかすれた声とともに、アレクサンドル様の鼻先が、リアンの首元に触れた。
「……っ!?!」
びくんと背筋が跳ねる。うなじに、温かな吐息。続く言葉はなく、ただ深く息を吸い込むように、アレクサンドル様は肌に顔を埋めていた。
(ちょ……ど、どうしてそこに顔を!?)
思考が真っ白になる。心臓が跳ね、息が苦しくなる。焦りと羞恥とで体が熱くなり、必死に腕の中でもがく。
「アレクサンドル様、お願いですから起きてくださいっ!」
叫ぶようにして訴えると、抱きしめる力がさらに強まった。抗う余地もなく、彼の腕に包まれる。
「アレク様……っ」
ついに堪えきれずに漏れた、掠れた声。
その瞬間――
「……リアン?」
まぶたが持ち上がり、ラズベリーのように紅い瞳が、じっと見つめる。
「っ……!」
アレクサンドル様は一瞬きょとんとした顔をしたあと、自分の顔の位置と、腕の中の人物を確認するように、ゆっくりとまばたきをした。
そして――
「~~っ! 寝ぼけていないで、起きてください、アレクサンドル様!」
強く、はっきりと告げた。
まるで叱りつけるような声に、アレクサンドル様の瞳が大きく見開かれる。そしてようやく――私を抱きしめている状況に気づいたらしく、その顔に戸惑いが走った。
「……っ、あ、あれ……リアン……?」
状況を整理しようと焦るように、彼はゆっくりと腕の力を緩める。
「お、起こすように言われたので……でも、全然起きないから……っ!」
私は羞恥と困惑を押し殺し、そっと体を起こそうとした。けれど、すぐには離れられず――服の裾が、アレクサンドル様の腕に引っかかっていることに気づく。
「……落ち着け。すぐに解くから。」
「……はい。」
アレクサンドル様は静かに身を起こし、丁寧にその布を解いていく。
「……解けた。」
「ありがとうございます。」
短いやり取りのあと、ふたりの間にしばしの沈黙が落ちた。
「……ヴィンスは?」
「従者殿でしたら、取りに行く物があるとのことで。この場を、私に任されました。」
「そうか……それは、すまなかった。」
「いえ……」
返すべき言葉が見つからず、ただそう答えるしかなかった。先ほどの温もり――抱きしめられた体温と香り、そして首元に触れた唇の感触。どれも肌に、心に、まだ焼きついている。そんな自分に戸惑いながら、カートからそっと小箱を取り出した。
「あの……お借りしていたシャツです。お返しが遅くなってしまって……申し訳ありません。その……こちらは、つまらない物ですが……お詫びと、お祝いの品を兼ねて……」
声が震えそうになるのを、必死に押さえ込む。シャツと共に、包んだハンカチを差し出しながら、自然と視線は手元へと落ちてしまった。彼の顔を、まともに見ることができない。
「……これは?」
「ハンカチです。上質なリネンに……縁を、金糸で刺しました。即位式を迎えられるにあたり、アレクサンドル様を象徴する模様を――勝手ながら、あしらわせていただきました。」
そう言い切ったところで、息を詰める。どれだけ不敬で、身分を弁えない行為か。わかっている――けれど。
「……ありがとう。とても嬉しい。」
柔らかく響いたその一言が、胸の奥に沁みるように染み渡った。驚いて顔を上げると、アレクサンドル様は優しく目元を緩めながら、ハンカチをそっと手に取り、大切そうに見つめていた。その光景に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
(……よかった。)
どこか救われたような気がして、私は小さく息を吐いた。
――と、そこで。
(し、しまった……!先に、預かっていた書類とお茶をお出しすべきだったのに……!)
安堵の余韻が一気に吹き飛ぶ。自分の失態に気づいた私は、顔から血の気が引くのを感じた。その様子に気づかれたのか、アレクサンドル様が静かに声をかけてくださる。
「……どうしたのか?」
「す……すみません!ラディウス様からお預かりしていた書類とお茶を……本来なら、先にお出しするべきだったのに……!」
慌てる私に、アレクサンドル様は落ち着いた声で応じた。
「構わない。兄上からの書類を、預かろう。……お茶も頼む」
「……はいっ!」
胸を押さえながら一礼し、カートへ向かう。お茶をお出ししようとティーポットを手に取った瞬間、ぬるくなっているのに気づき、またもや青ざめる。
「……すみません、お茶が冷めてしまっておりまして……!すぐに入れ直してまいります!」
「いい。そのままで構わない。」
その言葉は、ごく自然に、あたたかく、責めるでも、笑うでもなく。私の動揺を、まるごと包み込むようだった。
冷めたお茶をそっとティーカップに注ぎ、アレクサンドル様の前へ差し出した、その時。
「リアン殿、ありがとうございました!」
従者殿――ヴィンスが軽やかに戻ってきた。
「……おや、アレクサンドル様。おはようございます。」
「……おはよう。ヴィンス、主人を置いて、どこへ行っていた」
「リアン殿がこちらに来られるのを見て、“今しかない!”と。あれを取りに行ってまいりました。どうぞ。」
アレクサンドル様は手渡された小包を確認し、「ああ」と納得したように頷いた。
「……しかしな。行くにしても、私が命じてからにしろ。」
「だって、アレクサンドル様、寝起きがよろしくないじゃありませんか。だから起きられるまでの間、リアン殿にお任せして…」
そう言いながら、ヴィンス殿はこちらを一瞥し、にっこりと悪戯っぽく笑う。そして再びアレクサンドル様に視線を戻し、さらりと告げた。
「私が起こすより、リアン殿のほうが素直に起きられるようで。」
「……言葉が過ぎるぞ。」
「はいはい、申し訳ありません、アレクサンドル様。」
口では謝っているものの、どこか楽しげな従者殿の顔に、私は思わず目を伏せ、そっと頬を緩めた。
「従者殿もお戻りになられましたので、私はこれで――」
そう言ってその場を離れようとした時、背後から静かな声がかかる。
「リアン。これを――」
振り返ると、アレクサンドル様が先ほどヴィンス殿から受け取った小包を開き、中からひとつの品を取り出していた。
「これは……?」
「チョーカーだ。即位式が近づけば、君が東宮を訪れる機会も増えるだろう。ここは離宮とは違い、アルファ性を持つ者が頻繁に出入りする。万が一に備えて、常に身につけていてほしい。」
「……かしこまりました。」
丁寧に頭を下げると、アレクサンドル様は少し視線を落とし、静かに続ける。
「本来ならば、これは主人である兄上が用意すべきものだ。だが、その余裕がなさそうだったので……私が代わりに。」
「そうだったのですね。ご配慮を賜り、痛み入ります。」
すると彼は、息を小さくのみ込み、まっすぐに私を見つめて言った。
「――このチョーカーを、私が君につけてもいいか?」
一瞬、胸の奥がきゅっと鳴る。
「……はい。お願いいたします。」
リアンが頷いたのを見て、アレクサンドル様は小さく「失礼」と囁いた。手のひらに収まる繊細なチョーカーを丁寧に持ち上げると、ゆっくりと私の背後へとまわられる。その動きに合わせて、香りがふわりと鼻先をかすめた。
(……落ち着かない。)
胸の奥が、さっきとは違う意味でざわつき始める。アレクサンドル様の指先が、そっと私の髪に触れる。くぐもった息遣いと共に、うなじにかかる髪を払い除けられた瞬間――
(……冷たい……けれど)
違った。
それは金属の冷たさではない。そっと肌に触れた、彼の指の温度に気づいてしまったせいだ。
「……きつくないか?」
首元で留め具がカチリと鳴る。
「い、いえ。ちょうど良いです……」
なんとかそう答えながらも、背筋が伸びきっているのが自分でもわかる。すぐに離れるかと思った彼の気配は、しかし、ぴたりと背後にとどまったままだった。
「これで……少しでも、君を守れるなら。」
低く、柔らかな声が、耳元で囁かれる。思わず肩がぴくりと揺れ、背筋がこわばった。
「アレクサンドル……様……?」
「すまない。もう、大丈夫だ。」
背後の気配がようやく離れた頃には、胸の鼓動が早鐘のように鳴っていた。私はそっと視線を落とし、首元に添えた指先でチョーカーに触れる。金糸が織り込まれたその上質な革は、まるで目に見えぬ誓いのように、静かに肌に馴染んでいる。
「外す時は、この鍵を後ろの窪みに差し込み、押し込むと外れる。この鍵以外では外せない。――安心してくれ。」
差し出された小さな鍵を、私は両手で受け取り、そっと胸元で包むように握りしめる。指先に伝わるその感触が、たしかな重みを持っていた。
無くさぬよう、そっと上着の内ポケットへとしまい込む。
「……ありがとうございます。」
ようやく絞り出した声は、かすかに震えていた。
首元に触れたばかりのチョーカーの感触と、アレクサンドル様の手の温もりが、まだうなじに――心に、微かに残っている。
「それでは、私はこれで――」
「……ああ。気をつけて。」
「失礼いたします。」
ヴィンス殿にも一礼し、私はサービングカートの取っ手に手をかけた。胸の奥で鳴り止まぬ鼓動が、身体をせかす。まるで逃げるように、私は足早にその場を後にした。




