過ぎし主、今の主、御側にありて 6
それは、あまりにも突然だった。
朝から微熱のようなだるさを感じてはいたが、無理をして動けないほどではなかった。けれど、体の奥底が急に熱を帯びたようになり、視界が揺らぐ。意識が、じわじわと遠のいていく。
――どうして? 抑制剤は、きちんと服用していたはずなのに。
手元のティーカップが滑り落ち、バリンと音を立てて砕け散った。反射的に拾おうとしたものの、しゃがもうとした足が、まるで他人のもののように動かない。ここは、サービングルーム。主人が入ってくることはまずないし、メイドたちも、洗い終えた食器を片付けに来る以外に足を運ぶことはほとんどない。
(……自室に戻らないと。抑制剤……でも、足が……)
焦りと熱とで、思考がまとまらない。気をつけていたはずなのに。
こんな場所で――こんな形で、発情期を迎えるなんて。
その場にしゃがみこみ、腕で自分を抱きしめる。身を守るように、ぎゅっと。
すると――
扉の開く音がして、誰かの声が遠くに聞こえた。ぼんやりとした意識の中、ふわりと漂ってきた香りが鼻をくすぐる。
――この香り……心地いい……。
ただそれだけで、崩れかけていた心がそっと支えられるようだった。私は、無意識のまま香りの主へと身を寄せていた。
どうしてだろう。こんなにも、安心する――。
次の瞬間、体がふわりと浮いた。誰かの腕の中。揺られるように運ばれ、やがて、柔らかな何かの上にそっと寝かされる。潤んだ目でその人影を見つめるが、誰なのか判別がつかない。思わず手を伸ばす。
――いかないで。……ここにいて。
そう思うのに、声が出ない。喉がふさがれているようで、もどかしさだけが募っていく。目の前の人は、バサッと何かを置いて、静かにその場を去っていった。私は、残されたそれを手繰り寄せる。
――鼻先へ。胸の奥でざわついていたものが、ゆっくりと、穏やかに鎮まっていく。
私はその香りに包まれながら、そのまま目を閉じた。
* * *
窓の外が薄暗い中、ゆっくり瞼を開ける。
目を覚ましてあたりを見渡すと、そこは自室のベッドだった。体を起こそうとした時、ふと手に持っていたものに目をやる。
(あれ?いつの間にこんなシャツ持っていたんだ?)
そういえばいつの間にか自室のベッドで寝ていたのだろうか。ヒートで記憶が曖昧でサービングルームでうずくまっていた記憶を皮切りに、それ以降の記憶がない。ここにいるということは誰かがここまで運んでくれたということ。
(でも一体誰が?)
そう思いながら、手に持っていたシャツを撫でる。肌触りがいい。この生地のシャツを着られるのは限られた貴族のみ。それも侯爵以上の爵位。思い当たるのは三人。ラディウス様、アレクサンドル様、フィオリア様。
(一体誰が…)
そう思いながら、シャツを無意識にギュッと握りしめていて、自身の行動に混乱する。どうしてこのシャツの香りを嗅ぐとそうなってしまうのか。――わからない。でも、この香りを吸い込むたびに、胸の奥がふわりとほぐれていく。このまま、ずっとこの匂いに包まれていたい。抱きしめられたい、触れてほしい――そんな気持ちが、湧きあがってくる。洗って返さなければいけないのに、匂いが取れてしまうことに、一瞬、惜しさが胸をよぎる。
(違う、これはただの衣服だ。すぐに洗って、返せばいい。)
揺さぶられるようなこの香りが、自分を惑わせる前に――この気持ちに終止符を打ちたくて、私はシャツをきつく丸めて洗濯籠に放り込んだ。
朝の支度を終え、身なりを整えたあと、抑制剤を飲んでから所定の位置に洗濯籠を置く。
(今度戻ってくるときには、この香りがすっかり消えていますように。そうすれば、私はもう惑わされずに済む。)
祈るように目を伏せる。その胸の奥には、静かな決意と、拭いきれない寂しさが、微かに同居していた。
サービングルームへ入ると、離宮のメイド長が朝の支度を整えてくれていた。
「リアン様、具合はいかがですか?」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。……もう大丈夫です。」
「それはよかった。では、私は所定の業務に戻りますね。」
メイド長は私の洗濯籠を手に取り、軽く会釈してサービングルームを出ていった。私は、用意されたサービングカートを押して、ラディウス様の部屋へと向かう。ノックの音に「どうぞ」と優しい声が返る。
「ラディウス様、おはようございます。昨日は……ご迷惑をおかけしました。」
「おはよう、リアン。ヒートが来たんだろう? 無理せず休んでいてもよかったのに。」
「おかげさまで、もう体調は戻っております。」
「そう? なら、いいんだけど……」
ラディウス様の身支度を終え、お茶をお出しすると、ふと何かを思い出したように言葉を継がれる。
「そうだ、アレクにお礼を言っておくといいよ。」
「アレクサンドル様に……ですか?」
不意に名を出され、思わず聞き返してしまう。心臓が小さく跳ねた。
「昨日、私の部屋にやってきて、何か甘くて優しい匂いが廊下からする…ってアレクは言っていたかな? 私が、誰かがヒートを起こしているかもしれないと教えると、部屋に君がいない事を確認したアレクが、飛び出して隣のサービングルームで倒れていた君を見つけて、君の部屋に運んでくれたんだよ。」
ラディウス様はそう告げると、ゆっくりとお茶を口に含んだ。微かな笑みが口元に浮かび――それが、まるで何かを知っているようで、私は息を呑んだ。
「私がもしヒートで倒れてしまったら、誰かにああやって解放してほしいと思ったほどだよ。」
「……っ」
一瞬、胸の奥がドクンと跳ねる。それが羞恥か、恐怖か、期待か――自分でもよくわからなかった。一体、私はどれほどの醜態を晒してしまったのだろうか。気になって、知りたくてたまらないのに、聞くことができない。もしその答えを聞いてしまえば、私は――まともでいられなくなりそうだった。
朝食を終え、ラディウス様が執務室へと向かわれたあと、私はサービングルームに戻り、ティーポットと茶葉を手に取った。
(ラディウス様、また長く籠もられるだろうから、紅茶でも淹れて差し入れよう。)
そう思い、ティートレイに湯とカップを載せ、廊下を静かに歩く。今朝ラディウス様が仰っていた言葉を受けて、胸の奥が妙にざわついたまま廊下を歩いていた。
(アレクサンドル様に……お礼を、か。)
そう思っていた矢先、角を曲がった先で、まさにそのご本人と鉢合わせた。
「――っ、アレクサンドル様。」
立ち止まった私に、アレクサンドル様は一瞥をくれる。だがその表情は、いつも通り冷淡で、どこか他人行儀だった。
「元気そうだな。」
たったそれだけを告げると、彼は再び歩き出そうとする。私の胸の奥で、何かがひやりとした。
(……やっぱり、迷惑だったのかもしれない。)
そう思い、少しだけ俯いたその時。
「……抱えて運ぶの、大変だったんだ。体調管理には気をつけろ。」
不意に聞こえたその声に、思わず顔を上げる。さっきまでの無表情が、ほんのわずかに緩んでいた。
「えっ……あ、あの、ありがとうございます。昨日は……」
「礼はいい。もう済んだことだ。」
早口でそう言うと、彼はわずかに目をそらし、私の頭に手を置いた。ほんの一瞬。けれど、その温もりは思った以上に優しくて、胸が締め付けられる。
(どうして、今さら、そんな顔を…)
背後で、微かに衣擦れの音がした気がして、胸がざわつく。何かを言おうとしたその時、ふと背後から誰かの視線を感じた。振り向くと、廊下の突き当たり。ラディウス様がいつの間にか立っていて、にこにこと微笑んでいた。まるで全部を見届けていたかのように、目を細めて。
「っ……!」
頬が熱くなった。とっさにアレクサンドル様から一歩身を引いて、軽く頭を下げる。
「……失礼します。」
そう言って足早にラディウス様の方へ向かう。恥ずかしさと、胸いっぱいに膨らんだなにかを誤魔化すように。
「ちょうど、お茶をお願いしようと思っていたところだったんだけど…でも――少し早く来すぎたみたいだね。」
微笑みながらそう囁くラディウス様に、何も言えず、ただ耳まで赤くなった。




