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春に咲く花、愛よりも尊し。  作者: 639


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過ぎし主、今の主、御側にありて 4



 あの日を境に、アレクサンドル様は離宮を訪れるようになった。

勉強でわからないところがあるから、兄上に報告したいことがあるから、視察に行ったお土産を持ってきたから……と、何かと理由をつけては、突然姿を見せられる。

その変わりように戸惑う私をよそに、ラディウス様は微笑みながらこう仰った。


「私がオメガだと知られるまでは、ああしてよく私のもとに来ていたんだよ。」


――だとしても、だ。

いつヒートが起こるかわからないこの状況で、アルファであるアレクサンドル様が頻繁に訪れるのは、あまりにも不用心すぎる。そう思って言葉を発しようとしたが、こちらに向けられた嬉しそうな笑みに、私は結局、何も言えずにいた。

数度目の訪問となったある日、私はようやく覚悟を決めた。ラディウス様が席を外した隙を見計らい、アレクサンドル様に向き直る。


「……アレクサンドル様、今のように頻繁にお越しになるのは、あまり良いことではありません。」


いつヒートが起こるかもわからぬ中で、アルファとオメガが無防備に同席するのは慎むべきだと、心からそう思ったのだ。

だが――


「そうか。以後、気をつけるようにする。」


それだけ言うと、アレクサンドル様は視線も寄越さず、まるで興味がないかのようにそっけなく答えた。私の胸の奥に、ひゅっと冷たい風が吹く。


(……なに、それ。)


ずっと来ておきながら、注意すればその態度か。こちらは気遣って言っているというのに、まるで――まるで、うとましいかのような返しに、怒りが湧いた。


「では、これ以上お越しいただく理由もありませんね。アレクサンドル様の従者も、無駄な手間が省けることでしょう。」


努めて冷静な口調で、しかし明らかな棘を込めてリアンは言い放った。アレクサンドル様の指が、微かにぴくりと動いたのを見逃さなかった。だがアレクサンドル様は、それ以上何も言わず、ただ無言で窓の方を向いた。

沈黙が落ちる。苦い空気が二人の間に広がる。


(なんなんだ……いったい……)


リアンは、自分の心が思いのほか波立っていることに気づき、苛立ちとも戸惑いともつかない感情を、ひとつ、深い息とともに飲み下した。ちょうどそのとき、廊下の扉がノックされる音が響いた。ラディウス様がお戻りになられたのだろう――そう思った、その刹那。


「では、これで。」


アレクサンドル様が低く呟き、リアンに視線を向けることもなく、静かに立ち上がった。一礼し、出口へと向かう。けれど、扉に手をかけたその瞬間だけ、ほんの一瞬、リアンを横目で見る。……まるで何かを言いかけて飲み込むような、そんな視線だった。それを見て、なぜそんな目をするのか、そう思いながらも、黙って見送るしかなかった。扉が閉まる音が、やけに静かに響いた。胸に残ったのは、怒りよりも――不思議な、虚しさだった。


「リアン、どうしたの?」

「その…アレクサンドル様に頻繁にお越しになるのを控えてとお伝えしたら…」

「アレクが帰っちゃったの?」

「…はい。」


私の答えに、ラディウス様は少しだけ目を伏せ、顎に手を当てて思案するような素振りを見せた。


「ねぇ、リアン。なんで、アレクにそう言ったの?」

「それは……ラディウス様のヒートがいつ訪れてもおかしくないからです。アルファであるアレクサンドル様と無防備に同席するのは、やはり……その……」

「なるほど。」


ラディウス様は、ふっと微笑まれた。けれどその笑みは、どこか寂しげにも見えた。


「気遣ってくれたのは嬉しいよ。でも、伝え方が少し……鋭すぎたかもしれないね。アレクは、オメガのことを“わかっているつもり”ではいるけれど、まだ本当にはわかっていない。だからこそ、突き放すようにではなく、“教えるように”伝えて欲しいな。」


静かに、けれど確かに――そう言われて、私は自分の言葉を思い返す。冷たく、感情的だった。口に出してしまってから後悔しても、もう遅い。


「……かしこまりました。」


唇を噛みながら、私はそっと頭を下げた。


「アレクもきっと、リアンの言葉の真意を汲みきれずに、そっけない返しをしてしまったのだろうね。……弟に代わって、私が詫びるよ。」

「い、いえっ!そ、そんなこと……っ」


慌てて頭を下げかけた私に、ラディウス様はくすっと微笑まれた。


「ふふ、冗談だよ。私が詫びたなんて、アレクが聞いたら拗ねてしまうかもしれないしね。」


茶目っ気のある声に、私は思わず口元を緩める。


「でも――きちんと話はしておくよ。アレクにも、もう少し伝え方を学んでもらわないとね。」

「……はい。どうか、よろしくお願いします。」


頭を下げると、ラディウス様は静かに頷かれた。

その姿に、不思議と胸があたたかくなった。たとえ不器用でも、きっと彼ら兄弟もまた――歩み寄っていくのだろう。


 あれから数日が経ち、私はラディウス様に頼まれて、離宮のサービングルームでお茶の準備をしていた。陽が傾きはじめるこの時間、ラディウス様は決まって中庭の藤棚の下で茶を楽しまれる。それは私にとっても、穏やかなひとときだった。温めたティーポットを銀盆に乗せ、カップと菓子皿を揃えて扉へ向かう。

……その瞬間だった。

廊下の角を曲がってきた足音に気づき、ふと顔を上げると、そこにはアレクサンドル様がいた。思わず立ち止まる。向こうもまた、私の姿を認めて立ち止まり、気まずそうに目を伏せた。


「……また、お越しになったのですね。」


冷たい口調になるのを自覚しながら、私はそう告げる。銀盆を持つ手に力が入る。


アレクサンドル様は、私の言葉に応じることなく、一歩だけ近づいてきた。


「兄上に言われた。“一度きちんと伝えなさい”と。」


視線は合わせない。けれど、その声は前よりもずっと静かで、どこか、ためらいがあった。


「……それで?」


私が問い返すと、彼はふいに目を逸らしながら小さく息を吐いた。


「どうすればいいんだろうか。謝るべきか、弁解するべきか……正直わからない。」


不器用な言葉だ。でも、それでも来てくれたという事実に、私は一瞬、息を止めた。


「ラディウス様は中庭におられます。……私も、これからお持ちするところでした。」


そう言って歩き出すと、アレクサンドル様は一瞬だけ迷い、私の数歩後ろからついてきた。沈黙の廊下を歩く音だけが、二人の間に響いていた。

中庭へと出ると、柔らかな陽が藤棚を透かして落ちていた。季節の終わりを告げるように、淡い藤の花が風に揺れている。


「お待たせしました、ラディウス様。お茶をお持ちしました。」


そう声をかけると、ラディウス様は椅子に腰掛けながら、にこりと微笑んでくださった。


「ありがとう、リアン。……おや、アレクも来てくれたんだね?」


ラディウス様はアレクサンドル様にそう問いかけたが、その口調に責める響きは一切なかった。どこか、嬉しそうでさえあった。アレクサンドル様は短くうなずくと、黙って空いている椅子に座る。私はラディウス様の隣に控えるように立ち、茶を順に注いでいく。

けれど、三人の空間はどこかぎこちない。アレクサンドル様は私と目を合わせようとはせず、私は私で、彼にどう接すればいいのかわからず、必要以上の言葉を選びすぎてしまう。ラディウス様の前でこんな風になるのも、本当は避けたいのに。すると、ラディウス様はふふっと笑みを漏らし、湯気の立つティーカップを両手で包みながら言った。


「まるで初めて顔を合わせたばかりの貴族の子息同士みたいだね、君たち。」

「……」


私は一瞬、視線を落とす。アレクサンドル様も微かに眉を動かしたようだった。


「アレク、君は不器用だし、リアンは少し意地っ張りだ。だけどどちらも、相手のことを気にしている。それがわかるよ。」

「兄上……」


アレクサンドル様が低く呼びかける。けれど、それ以上の言葉はなかった。ラディウス様は、ただ穏やかに笑っていた。まるで、幼い兄弟のやりとりを見守る優しい親のように。


(ラディウス様は、気づいておられる……)


私の抱えている、この胸のざわつきも。アレクサンドル様の不器用な視線も。それをすべてわかったうえで、こうして二人の時間を作ってくださっているのだ。……だけど、だからこそ、私は簡単に許すわけにはいかなかった。


「……お茶が冷めてしまいます。どうぞ、召し上がってください。」


私は努めて静かな声でそう告げて、アレクサンドル様の前にもそっとカップを置いた。その指が、ふと私の指先に触れそうになる。けれど、私はわざと少しだけ手を引いた。彼が何か言いたげに唇を開きかけたのを、私は視線だけで制した。そう、私だって意地っ張りなのだ。

そのやりとりを見て、ラディウス様はふっと笑みをこぼされた。そして、お茶を一口、静かに口に運ばれる。優雅なその仕草の裏に、どこか愉しげな気配があることに、私は気づいた。まるで、二人のやりとりを観察していたかのような――そんな含み笑い。


(……どうして、今、笑われたんだろう?)


不意に胸がざわつく。

私とアレクサンドル様の距離感――それが、ラディウス様の目にはどう映ったのだろう。拗ねて、ぶつかって、それでもどこか離れきれずにいる私たちを、微笑ましく思っておられるような、そんな気配があった。


(まるで……見透かされているみたいだ。)


そう思った瞬間、ラディウス様が茶器をそっと置き、ふわりと笑いながら口を開かれる。


「二人とも、意地を張るのはいいけれど――ほどほどにね?」


その声には、揶揄や皮肉ではなく、柔らかな慈しみが滲んでいた。私は思わず視線を落とし、隣ではアレクサンドル様も気まずそうに小さく息を吐いていた。結局、私たちは顔を見合わせることもできず、ただ――同時に、頷くしかなかった。



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