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『妹に聖女の座も婚約者も奪われましたが、神託の誤字に気づいたのは私だけでした 〜追放された校正官は冷酷皇弟と偽りの世界を正します〜』  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第九話 神託が間違っているなら、直せばいい

 祈祷塔の扉は、凍りついて開かなかった。


 町長グスタフから受け取った黒い鍵は、確かに鍵穴へ入った。だが、回そうとすると、金属同士が擦れる音さえ立てずに止まる。


「貸せ」


 アルブレヒトが鍵へ手を伸ばした。


「力を入れないでください」


「開かなければ意味がない」


「内部まで凍結している状態で無理に回せば、鍵が折れます」


「では、どうする」


「温めます」


 エステルは鍵穴の周囲へ手をかざした。


「ただし、炎は使えません。表面だけを急に温めると、石が割れる可能性があります。人肌より少し高い程度の湯を、少しずつ――」


「湯を持ってこい」


 アルブレヒトが背後の騎士へ命じた。


「ただの湯ですか。それとも薬湯でしょうか」


「ただの湯だ」


「量は?」


「桶で二つ。温度は――」


 アルブレヒトがエステルを見る。


「人肌より少し高い程度です」


「聞いたとおりにしろ」


 騎士が走っていく。


 祈祷塔の前には、いつの間にか大勢の住民が集まっていた。


 皆、厚い毛皮に身を包み、不安そうに扉を見つめている。リーナは少し離れた場所で、両腕を抱くように立っていた。


 エステルと目が合うと、すぐにそらされる。


 当然だ。


 根拠もなく娘が生きていると言った人間を、今さら信用できるはずがない。


「顔が腫れているな」


 隣に立つアルブレヒトが言った。


「叩かれましたので」


「見れば分かる」


「では、なぜ確認なさったのですか」


「確認ではない。事実を述べただけだ」


「そうですか」


「腹は立たないのか」


「誰にです?」


「叩いた女に」


 エステルはリーナを見た。


 吹きさらしの中で待つ母親の顔は、寒さより恐怖で青ざめている。


「立ちません」


 アルブレヒトの傷は反応しなかった。


「私が先に嘘をつきました」


「だから、叩かれて当然だと?」


「当然とは申し上げていません。ですが、怒る理由は理解できます」


「理解できれば、何をされても受け入れるのか」


「何をされても、とは言っていません」


「では、次に殴られたら止めるか」


「状況によります」


 アルブレヒトが深く息を吐いた。


「お前は、自分を守る話になると急に曖昧になるな」


「今は私の話をしている場合ではありません」


「それだ」


「何でしょう」


「すぐに話を終わらせようとする」


「アンナさんの救出が優先です」


「優先と無視は違う」


 エステルは返事をしなかった。


 言い返せなかったのではない。湯を運ぶ騎士たちが戻ってきたからだ。


 桶の湯を布へ染み込ませ、鍵穴の周囲を少しずつ温める。


 霜が薄く溶け始めた。


「もう一度、鍵を」


 グスタフが鍵を差し込む。


 今度は、鈍い音を立てながら回った。


 扉がわずかに開く。


 その隙間から、凍えるような風が吹き出してきた。


「中から風?」


 マティアスが顔をしかめる。


「塔は閉ざされていたんじゃないのか」


「地下水路とつながっています」


 エステルは扉の向こうを覗いた。


 祈祷塔の内部は、壁から床まで厚い氷に覆われている。


 中央には螺旋階段があり、上は祈祷室、下は集熱室へ続いていた。


 床の氷には、赤い筋が走っている。


 血管のように脈打ちながら、階段の下へ流れていた。


「赤い神託墨です」


「聖王国で、お前の部屋から見つかったという物か」


 アルブレヒトが尋ねる。


「色は同じです。ただし、本物かは分かりません」


「触れるなよ」


「まだ何もしていません」


「目が触れたそうにしている」


「そのような目はありません」


「ある」


 マティアスが二人を見比べた。


「こんな場所で、よく言い合いができますね」


「言い合ってはいません」


「言い合っている」


 エステルとアルブレヒトの返事が重なった。


 マティアスは面倒そうに首を振った。


「早く行きましょう。アンナが下にいるなら、寒さに耐えられない」


「私が先に行く」


 アルブレヒトが剣を抜いた。


「エステルは後ろだ」


「文字が見えません」


「私が安全を確認してから来い」


「その間に神託が変化する可能性があります」


「一人で先へ出ることは認めない」


「ですが――」


「契約を解除するぞ」


 エステルは口を閉じた。


「それは困ります」


「ならば従え」


「雇用関係を脅しに使うのは、適切ではありません」


「あとで契約書に書け」


 アルブレヒトはそう言い残し、階段を下り始めた。


 腹立たしい。


 だが、彼が自分を危険から遠ざけようとしていることは分かる。


 分かるからといって、腹が立たなくなるわけではない。


 エステルは三段ほど距離を空け、その後を追った。


     ◇


 地下へ降りるほど、赤い文字は濃くなっていった。


 壁面には、暖房神託の全文が刻まれている。


 ――山の火を借り、地下の水を温めよ。


 ――温もりを町へ分かち、冬の命を守れ。


 本来なら穏やかな文章だ。


 しかし、ところどころに赤い文字が上書きされている。


 ――温もりを町へ分かち。


 その下へ、別の一節が加えられていた。


 ――ただし、町に属する者に限る。


「止まってください」


 エステルが言うと、アルブレヒトが足を止めた。


「何だ」


「文章が後から加えられています」


「いつだ」


「分かりません。ただし、元の彫刻より新しい。赤い墨は、その追加部分を強制的に神託へ組み込んでいます」


「十年前の事故と関係があるのか」


 マティアスが尋ねた。


「その可能性があります」


「可能性ばかりだな」


「今、断言してほしいですか」


 マティアスは苦い顔をした。


「……いや」


 階段の底へ到着すると、鉄製の扉が現れた。


 扉の中央には、円形のくぼみがある。


「鍵穴がありません」


 アルブレヒトが扉へ触れようとする。


「待ってください」


 エステルは壁の文章を読んだ。


 ――町を代表する者、その名を告げよ。


「町長の名を求めています」


「グスタフを連れてくるか」


「いえ。おそらく、町長本人でなくても構いません」


「代表する者、と書いてあるんだろ」


「はい。代表者ではなく、代表する者です。役職ではなく、この町のために入る意思を問うている可能性があります」


 マティアスが扉の前へ立った。


「俺がやる」


「危険です」


「あんたは、さっき俺に従えと言っただろ。今度は俺が決める」


「私に従うことと、無謀な行動を取ることは別です」


「俺はこの町で生まれて、この町で家族を失った。町を代表する資格がないと言うなら、誰にある」


 エステルは返せなかった。


 マティアスは円形のくぼみへ手を置く。


「マティアス・ベルンだ。ラウゼンで鉱夫をしている」


 何も起きない。


 扉は閉じたままだった。


「役職が必要なのか?」


 マティアスが苛立つ。


「違います」


 エステルは文章の古代語を見直した。


「『名を告げよ』ではなく、『名を預けよ』です」


「どう違う」


「この神託は、入る者を住民名簿へ照合しています。名前が正式に記録されていなければ、扉を開かない」


「俺は名簿に載っている」


「名前だけでは足りないのかもしれません。家族、職業、住所。町とのつながりを求めています」


「そんなもの、全部記録されてる」


 マティアスがもう一度手を置いた。


「マティアス・ベルン。鉱山西区の採掘班長。父はオットー、母はヘレナ。家は南通り十七番だ」


 扉が低く唸った。


 だが、開かない。


 赤い文字が表面に浮かび上がる。


 ――不完全。


「何が不完全なんだよ!」


 マティアスが扉を叩く。


「俺は生まれてからずっと、この町にいる!」


「神託が求めているのは、事実ではなく、名簿上の記録です」


「同じだろ!」


「同じではありません」


「また、それか!」


 マティアスが振り返る。


「じゃあ何だ。役所が書き忘れたら、俺は町の人間じゃなくなるのか!」


「この神託は、そう判断します」


「ふざけるな!」


「私も、間違っていると思います」


 エステルがはっきり言うと、マティアスの怒りが止まった。


「神託は、正しくありません」


 その言葉が地下へ響いた。


 聖王国では、口にするだけで異端とされる発言だ。


 だが、エステルはもう神託院の校正官ではない。


 いや、校正官だったからこそ分かる。


 神託は、文字の形をしている。


 文字である以上、書いた者の意図も、誤解も、偏見も入り込む。


「町の一員であるかどうかを、一枚の名簿だけで決めるべきではありません」


 エステルは赤い文字を見つめた。


「生まれた場所、暮らした時間、誰かを助けたこと、誰かに迷惑をかけたこと。そういう面倒なものをすべて無視して、登録の有無だけで人間を選別しています」


「直せるのか」


 アルブレヒトが尋ねた。


「校正筆が必要です」


「お前の筆はない」


「通常の筆でも、一時的な修正なら可能です。ただし、神託と同じ魔力を持つ墨が必要です」


「赤い墨を使うのか」


「いいえ。赤い墨は事実を上書きします。必要なのは、元の文章を呼び戻す青い校正墨です」


「町にはないぞ」


 マティアスが言った。


「十年前の事故で、神殿の道具は全部処分した」


 エステルは自分の手首へ目を落とした。


 枷で傷ついた皮膚。


 その上には、エッダが塗った青い薬が残っている。


「この薬には、青銀草が入っています」


「だから何だ」


「青銀草は校正墨の材料です。魔力を安定させる性質があります」


 エステルは包帯をほどき始めた。


「おい」


 アルブレヒトが腕をつかむ。


「何をする気だ」


「薬を墨の代わりにします」


「血が出るぞ」


「少量の血を混ぜれば、私の魔力を定着させられます」


「認めない」


「ほかに方法がありません」


「腕を傷つけることが方法とは呼べない」


「針で指先を刺す程度です」


「昨日、指を失いかけた人間が言うことか」


「では、殿下の血を使いますか」


 アルブレヒトが黙った。


「私の魔力で文章を読むのですから、私の血のほうが成功率は高いです」


「なぜ最初からそう説明しない」


「説明しても反対なさると思ったので」


「説明せずにやれば、許すと思ったのか」


「時間がありません」


 二人が睨み合っている間に、扉の奥から微かな音がした。


 こつん。


 何かが内側から扉へ当たった音。


 続いて、かすかな声が聞こえる。


「……おかあ、さん」


 マティアスが顔色を変えた。


「アンナだ!」


「生きています」


 今度のエステルの言葉に、アルブレヒトの傷は反応しなかった。


 それを見た彼は、エステルの手を離した。


「一滴だけだ」


「十分です」


「傷を広げるな」


「努力します」


「努力ではなく、約束しろ」


「約束します」


 エステルは包帯に残った薬を小皿へ絞り、指先へ細い針を刺した。


 一滴の血が青い薬へ落ちる。


 色が淡い紫へ変わった。


 筆はない。


 エステルは髪を留めていた細い木製の飾りを抜き、先端を墨へ浸した。


「そんな物で書けるのか」


「字を書く道具は、字が書ければ何でも構いません」


「校正官が聞いたら怒りそうな発言だな」


「私が元校正官です」


 エステルは扉の前へ膝をついた。


 赤く上書きされた文章を、余白視で見つめる。


 ――町に属する者に限る。


 その下には、消された元の一節が残っている。


 ――この地に温もりを求める、すべての者へ。


 エステルは赤い文字の上へ線を引いた。


 神託が抵抗する。


 指先から腕へ、焼けるような痛みが走った。


「エステル」


「まだです」


「顔色が悪い」


「集中してください」


「何にだ」


「私を心配するなら、黙っていてください」


 アルブレヒトが口を閉じた。


 本当に黙るとは思わなかった。


 エステルは息を整え、元の文章を書き戻す。


 一文字。


 また一文字。


 ――この地に。


 赤い墨が膨れ上がり、書いた文字を飲み込もうとする。


「マティアスさん」


「何だ」


「あなたが、この町でしてきたことを話してください」


「今?」


「神託へ、名簿以外のつながりを認識させます。何でも構いません」


「何でもって言われても」


「誰かを助けたこと。働いたこと。喧嘩をしたこと」


「喧嘩まで?」


「町で生きた証拠です」


 マティアスは困惑しながらも、扉へ手を置いた。


「鉱山で二十三年働いた。雪崩のとき、三人掘り出した。酒場の椅子を二回壊して、弁償はまだ半分しかしてない」


「全部聞こえているぞ!」


 後方にいた町長が怒鳴った。


「今、言うことじゃないだろ!」


「町との関係です。続けてください」


「南通りの雪かきは、毎年俺が最初にやる。パン屋の婆さんとは、値段のことで毎週喧嘩する。リーナの家の屋根も、去年直した。アンナに木彫りの鳥を作ったけど、羽が変だって笑われた」


 扉の赤い文字が揺らぐ。


 エステルは書き続けた。


 ――温もりを求める。


「町長も話してください」


 グスタフがたじろいだ。


「私もか」


「町の代表なのでしょう」


「今は責任を追及している場合では」


「責任ではありません。つながりです」


 グスタフは扉へ近づいた。


「町長を二十八年務めた。橋を三本造った。鉱山事故の遺族へ補償を出した。北区の学校も――」


 赤い文字は消えない。


 アルブレヒトの首筋に、傷が浮いた。


 グスタフはそれに気づき、言葉を止めた。


「正直に話してください」


 エステルは手を休めずに言った。


「神託は、都合のよい実績だけを求めていません」


「私は……」


 町長の声が震えた。


「息子の子どもを、孫だと認めなかった」


 扉の奥で、何かが鳴った。


「家の体面を守るためだった。亡くなった妻との約束を破りたくなかった。リーナとアンナを助けているつもりだった。家を与え、仕事を紹介し、困らないようにした。それで十分だと思いたかった」


 赤い文字に亀裂が入る。


「でも、名前は与えなかった。息子の家族だと、皆の前で言わなかった」


 グスタフは扉へ額をつけた。


「アンナは、私の孫だ」


 赤い文字が砕けた。


 エステルは最後の一節を書き終える。


 ――すべての者へ、等しく温もりを分け与えよ。


 紫色の光が扉全体へ広がった。


 円形のくぼみが回転し、重い扉がゆっくりと開く。


 冷気が吹き出した。


 その先には、巨大な集熱室が広がっている。


 中央の水槽に、町中から奪われた熱が赤い光となって渦巻いていた。


 水槽の脇。


 氷の壁に寄りかかるようにして、小さな少女が倒れている。


「アンナ!」


 マティアスが駆け出した。


「待って!」


 エステルの声より早く、赤い光がマティアスへ襲いかかる。


 アルブレヒトが前へ出て剣で弾いた。


「子どもを運べ!」


 マティアスはアンナを抱き上げた。


 少女の唇は青く、目を閉じたままだ。


「息をしている!」


「上へ運んでください。急激に温めないで。毛布で包み、エッダさんへ!」


 マティアスが走り去る。


 グスタフも後を追った。


 エステルは立ち上がろうとして、膝から崩れた。


 アルブレヒトが片腕で身体を支える。


「終わった。戻るぞ」


「まだです」


「子どもは見つけた」


「このままでは、また誰かが連れ去られます」


 集熱室の中央で、赤い光が膨れ続けている。


 追加された一節を一つ消しただけでは、暖房神託全体の暴走は止まらない。


「町の神託を、すべて確認しなければ」


「今のお前にできるのか」


「できます」


 アルブレヒトの傷は反応しなかった。


 だが、彼は納得しなかった。


「できることと、今やるべきことは別だ」


「町が凍っています」


「お前も凍りかけている」


「私は一人です。町には何百人もいます」


「数で命の価値を決めるな」


 エステルは顔を上げた。


 アルブレヒトは怒っていた。


 声は低いままだが、金色の瞳には隠しきれない苛立ちがある。


「殿下は、この町の統治者でしょう」


「そうだ」


「ならば住民を優先してください」


「統治者だから、働ける人間を無駄に壊さない」


「私は替えの利かない人間ではありません」


 言った瞬間、アルブレヒトの手に力が入った。


「それを決めるのは、お前ではない」


「私自身の価値を、私が決めてはいけないのですか」


「価値がないと決める権利はないと言っている」


 二人の間に、赤い光が明滅する。


 しばらくして、アルブレヒトが視線をそらした。


「十分休め」


「十分?」


「その間に、残りの文章を私が写す。お前は戻ってから読む」


「古代文字を読めないのでは?」


「形を写すことはできる」


「殿下の字では、判別できない可能性があります」


「今、それを言うか」


「重要です」


 アルブレヒトは、何かを言い返そうとしてやめた。


「記録官を呼ぶ」


「それがよいと思います」


「お前は上へ戻れ」


「ですが――」


「契約上の命令だ」


「その条項はありません」


「今夜、追加する」


 エステルは不満だった。


 まだ調べたい。


 赤い墨がどこから流れ込んでいるのか、自分の目で確かめたい。


 だが、指先は震え、膝には力が入らない。


 今ここで倒れれば、調査そのものが止まる。


「分かりました」


 渋々答えると、アルブレヒトは彼女を抱き上げた。


「歩けます!」


「さっき崩れた」


「少し力が抜けただけです」


「それを、歩けないと言う」


「下ろしてください」


「階段で落としたくない」


「抱き上げる前に説明してください!」


「説明したら拒むだろう」


「拒みます」


「だから聞かなかった」


「それは合意ではありません!」


 言い争う声が、凍った階段へ響く。


 途中で出会った護衛騎士たちは、二人を見て気まずそうに壁際へ避けた。


 祈祷塔の外へ出ると、リーナが駆け寄ってきた。


 エッダの腕の中で、毛布に包まれたアンナが小さく咳をしている。


「お母さん……」


 少女がかすかな声を出した。


 リーナはその場に膝をつき、娘を抱きしめた。


 泣き声が、凍った町へ広がる。


 エステルはアルブレヒトの腕の中から、その姿を見つめた。


 助かった。


 今度は嘘ではない。


 胸の奥から力が抜け、目が熱くなる。


「下ろしてください」


「また泣いていないと言うのか」


「いいえ」


 エステルは目元を手で押さえた。


「泣いています。少しだけ」


 アルブレヒトの傷は、赤くならなかった。


 リーナはアンナを抱いたまま、エステルを見上げた。


 謝罪するのか、礼を言うのか、それとも頬を叩いたことを後悔するのか。


 迷っている顔だった。


 エステルは何も求めなかった。


 今は、母親と娘が再会できた。それでよい。


 だが、リーナは震える唇で言った。


「さっき、あなたを叩きました」


「はい」


「謝ったほうがいいんでしょうね」


「そうしていただければ、嬉しいです」


 リーナが泣き笑いのような顔になる。


「そこは『気にしていません』と言うところじゃないんですか」


「気にしています。頬も痛いです」


「……本当に、変な人」


「よく言われます」


「ごめんなさい」


「はい」


「それだけ?」


「許したと言うには、まだ少し痛いので」


 リーナは一瞬驚き、それから涙をこぼしながら笑った。


「じゃあ、あとで冷やす布を持っていきます」


「お願いします」


 アルブレヒトが、小さく息を吐いた。


「何ですか」


「いや」


「笑いましたか」


「笑っていない」


 首筋の傷が、わずかに赤くなった。


 エステルはそれを見つめた。


 アルブレヒトは顔をそらす。


「見るな」


 町の暖房は、まだ戻っていない。


 赤い神託墨を流し込んだ者も、十年前の事故の真相も不明なままだ。


 それでも、その日ラウゼンでは一人の少女が母親の腕へ戻り、神託から消されていた一文が、二百四十年ぶりに書き戻された。


 ――この地に温もりを求める、すべての者へ。


 その文章が淡く光ると、凍っていた家々の窓から、一滴ずつ水が落ち始めた。


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