第八話 「娘さんは生きています」と、私は嘘をついた
「娘さんは、まだ生きています」
そう言った瞬間、アルブレヒトの首筋に赤い傷が浮かんだことを、エステルは知らなかった。
母親のリーナは、その言葉だけを頼りにしたように何度もうなずき、エステルの腕を引いて家の中へ駆け込んだ。
「こちらです。二階の寝室です。昨夜は確かに隣で眠っていたんです。夜中に一度、寒いと言うので、毛布も掛け直しました。朝になったら、あの子だけいなくなっていて……」
室内は、外よりも冷えていた。
暖炉には薪が残っている。火も完全には消えておらず、赤い熾火がかすかに光っていた。それなのに、床板も壁も白い霜に覆われ、吐いた息が目の前で凍りそうなほど冷たい。
これは単なる暖房停止ではない。
家の中から、意図的に熱を奪っている。
「全員、すぐには入らないでください」
階段へ足をかける前に、エステルは振り返った。
アルブレヒト、町長のグスタフ、マティアス、護衛騎士二人。それに、知らせを聞いて集まってきた町の者たちが、狭い玄関へ押し寄せている。
「床や壁に神託文字が現れています。人数が増えれば、神託が侵入と判断する可能性があります」
「この家の神託に、侵入者を見分ける機能があるのか?」
アルブレヒトが尋ねた。
「本来の暖房神託にはないはずです。ただし、先ほど扉の霜に『資格なき者を家より退けよ』とありました。誰を資格のある住人と見なしているのか、まだ分かりません」
「なら、お前も資格なき者ではないのか」
「その可能性はあります」
「では一人で先へ行くな」
「ですが、娘さんを捜すには、文字を読める者が必要です」
「私も行く」
「殿下は古代神託文字を読めるのですか」
「読めない」
「では――」
「お前が凍ったとき、運ぶ者が必要だ」
あまりにも当然のように言われ、エステルは返す言葉を失った。
マティアスが低い声で言う。
「俺も行く。この家の造りは知っている」
「危険です」
「俺の町だ」
「だからといって、危険が減るわけではありません」
「よそ者のあんたに任せて、外で待っていろっていうのか」
マティアスの顔には、まだエステルへの不信が残っている。
けれど、それだけではない。
十年前、何も知らされないまま家族を失った男だ。誰かに任せて待つことが、何より耐えられないのだろう。
「分かりました。ただし、私が止まれと言ったら止まってください」
「命令する気か」
「お願いです」
言い直すと、マティアスは少しだけ目を見開いた。
「……聞くかどうかは、その場で決める」
「それでは困ります」
「全部、あんたの言うとおりにするとは約束できない」
「ならば、同行は認められません」
「認めるも何も、俺は――」
「マティアス」
アルブレヒトが名を呼んだ。
大声ではなかった。
それでもマティアスは、反射的に口を閉じた。
「調査中はエステルに従え。不満があるなら、私に言え」
「殿下は、この女を信用しているんですか」
「信用していない」
即答だった。
エステルは隣に立つアルブレヒトを見上げた。
本人は平然としている。
「では、なぜ」
「今ここにいる人間の中で、神託を最も読めるのがこの女だからだ。信用と能力の評価を混ぜるな」
マティアスは納得しきれない顔だった。
だが、最後には渋々うなずく。
「……分かりました」
「リーナさんは外へ」
エステルが母親へ言うと、リーナは首を横に振った。
「嫌です。娘が中にいるのに、私だけ外で待つなんてできません」
「お気持ちは分かります」
「分からないでしょう!」
リーナの手が、エステルの腕から離れた。
「あなたに子どもがいるんですか? 朝起きたら、隣で寝ていた子がいなくなったことがあるんですか? 何も分からないのに、分かったようなことを言わないで!」
玄関が静まり返った。
リーナ自身も、言いすぎたと思ったらしい。唇を震わせ、視線を落とした。
エステルは、すぐに返事をしなかった。
以前の自分なら、「お気持ちが分かる」というのは慣用的な表現であり、完全に同じ経験をしたという意味ではない、と説明していたかもしれない。
だが、それは今、この母親が聞きたい言葉ではない。
「おっしゃるとおりです」
エステルは頭を下げた。
「私には、お母様のお気持ちは分かりません」
リーナが顔を上げた。
「分からないのに、分かると申し上げました。申し訳ありません」
「そんな……私も、怒鳴るつもりでは」
「ただ、あなたまで神託に連れ去られれば、娘さんを見つけたあとに帰す場所がなくなります」
エステルはまっすぐに彼女を見た。
「外で待ってください。必ず捜します」
「必ず、助けてくれるんですか」
答えに詰まった。
助けられるとは限らない。
少女がどこにいるのかも、生きているのかも分からない。
先ほど「生きています」と断言したのも、根拠があったからではない。絶望しかけている母親を動かすために、希望を与えたかっただけだ。
それが正しかったのか、今になって分からなくなった。
「見つけるために、できることはすべてします」
エステルが答えると、リーナは不安そうに唇を噛んだ。
それでも、今度は無理にすがろうとはしなかった。
「娘の名前は、アンナです。六歳です」
「アンナさんですね」
「暗い場所が嫌いで、一人では眠れません。怖がっていたら、私がすぐに行くからって、伝えてください」
「はい」
エステルはうなずき、階段へ向かった。
背後からアルブレヒトとマティアスが続く。
二階へ上がるほど、寒さは強くなった。
壁に浮かんだ霜は、ただの結晶ではない。細かな古代文字が連なり、蔓のように家中へ広がっている。
エステルは指先を近づけた。
「触るな」
アルブレヒトが手首をつかむ。
「読めません」
「目で読め」
「霜が厚く、下の文字が隠れています。表面の温度か、魔力の流れを確かめなければ」
「手袋を使え」
「布越しでは細かな変化が分かりません」
「昨日、指が使えなくなりかけたばかりだろう」
「だからこそ、今は動くうちに使います」
「その考え方をやめろ」
アルブレヒトの声が低くなった。
「何が起きても、今使えればよいというものではない」
「ですが、子どもが消えています」
「お前の指を失えば、その子を見つけたあとで、次の神託を誰が調べる」
「今は次の話をしている場合では――」
「今だけを見て自分を壊すなと言っている」
エステルは言葉を失った。
家族からも、ジュリアンからも、無理をするなと言われたことはある。
ただしそれは、彼らの都合に合わせて休めという意味だった。王太子妃として見苦しいから。妹を不安にさせるから。家の評判を損なうから。
この男は、エステルが次も働くことを前提に怒っている。
「……分かりました。手袋を使います」
「最初からそうしろ」
「殿下も、最初から理由まで説明してください」
「今、説明した」
「言い争ったあとにです」
「お前が言い返すからだ」
「殿下の説明が短いからです」
「二人とも」
マティアスが呆れたように割って入った。
「子どもを捜すんじゃなかったのか」
エステルとアルブレヒトは同時に口を閉じた。
確かに、今は言い争っている場合ではない。
「失礼しました」
「誰に謝っている」
「マティアスさんと、アンナさんにです」
「俺にはいい。早く調べろ」
エステルは手袋をはめ、霜の表面へ触れた。
冷たい。
ただし、一定ではない。
文字の一部だけが脈打つように温度を奪い、床の奥へ魔力を流している。
「この神託は、家から熱を奪うだけではありません。奪った熱を、どこかへ送っています」
「祈祷塔か?」
アルブレヒトが尋ねる。
「おそらく。ただ、流れが一つではありません」
霜に沿って廊下を進む。
文字列は、奥の寝室へ続いていた。
扉を開けると、二つの寝台が並んでいる。大きな寝台と、その脇に置かれた子ども用の小さな寝台。
アンナが眠っていたという寝台の毛布は、半分めくれたまま凍りついていた。
「窓は?」
アルブレヒトが確認する。
「内側から凍結している。人が通った跡はない」
マティアスが寝台の下を覗き込む。
「床にも穴はない。この家に隠し通路なんか――」
「あります」
エステルは床の一点を見つめた。
子どもの寝台の下だけ、霜の文字が渦を巻いている。
「寝台を動かしてください」
アルブレヒトとマティアスが左右から持ち上げる。
寝台の下には、普通の床板しか見えない。
しかしエステルには、板の継ぎ目に沿って、薄く削られた文章の痕跡が見えた。
余白視。
消された文字や、書き直された跡を読み取るエステルの能力が、床の下に隠された古い神託を浮かび上がらせる。
「ここに、元の文章があります」
「何と書いてある」
「『家に迎えられしすべての者へ、等しく温もりを分け与えよ』」
エステルは目を細めた。
「ですが、その上から新しい文章が重ねられています」
「新しい文章は?」
「『住民名簿に記された家主および、その正式な扶養者へ温もりを与えよ』」
マティアスの顔色が変わった。
「住民名簿?」
「アンナさんは、町の住民名簿へ登録されていますか」
「当たり前だろ」
マティアスは答えたが、すぐに口をつぐんだ。
何かを思い出したように、目が泳ぐ。
「何ですか」
「俺に聞くな。リーナに聞け」
「知っていることがあるのですね」
「家庭の事情だ」
「少女の命に関わります」
「だからって、俺の口から言えることじゃない!」
マティアスが声を荒らげた。
「何でも正しければ話していいと思うな。あんたには関係ないことだ」
「今は関係があります」
「本人が隠していることを、勝手に暴けっていうのか!」
エステルは息を止めた。
彼の言い分にも、一理ある。
正確な情報は必要だ。
だが、必要だからといって、誰かの秘密を無造作に引きずり出してよいとは限らない。
「では、リーナさんへ直接確認します」
「ここまで来て戻るのか」
「確かめないまま進むほうが危険です」
アルブレヒトが扉へ向かう。
「私が連れてくる」
「ここへですか?」
「質問だけなら、下で聞け」
「殿下が?」
「お前は文字を調べろ」
アルブレヒトは階段を下りていった。
残されたマティアスは、居心地悪そうに床を見ている。
「あなたは、アンナさんの父親を知っているのですね」
「聞かないって言っただろ」
「言っていません。リーナさんへ直接確認すると言いました」
「……本当に、嫌な女だな」
「よく言われます」
「少しは傷つけ」
「傷ついています」
マティアスは顔を上げた。
「だったら、そんな平気な顔をするなよ」
「どのような顔をすれば、傷ついていると分かりますか」
「知らない。少なくとも、書類を読むみたいな顔じゃない」
エステルは答えられなかった。
自分が今、どんな顔をしているか分からない。
少しして、階下から足音が近づいてきた。
アルブレヒトとリーナが戻ってくる。
リーナは青ざめ、胸元で両手を握っていた。
「アンナさんの住民登録について、お尋ねします」
エステルが切り出すと、リーナの顔がさらに強張った。
「登録されています」
アルブレヒトの首筋が赤くなる。
彼は何も言わなかった。
エステルはその傷を見た。
「正直に話してください」
「本当に、登録されています」
傷の赤みが増す。
リーナも、アルブレヒトの異変に気づいた。
「何なんです、その傷は」
「あなたが嘘をつくたびに反応します」
エステルが答えると、アルブレヒトが彼女を睨んだ。
「勝手に説明するな」
「必要な情報です」
「私の事情だ」
「今は調査に関係します」
「あとで話す」
「あとでは遅い場合があります」
「二人とも、やめてください!」
リーナが叫んだ。
その声は怒りというより、追い詰められた者の悲鳴だった。
「アンナは……登録されていません」
リーナは両手で顔を覆った。
「できなかったんです」
「なぜですか」
「父親の名前が必要だからです」
その場が静かになった。
「アンナの父親は、町長の息子です」
マティアスが目を閉じた。
知っていたのだ。
「結婚の約束をしていました。でも、アンナが生まれる前に、鉱山の事故で亡くなりました。町長は、息子が私と付き合っていたことを認めなかった。身分の違う女に騙されたのだと言って……」
「グスタフ町長は、アンナさんが孫であることを知っているのですか」
「知っています。でも、認めれば亡くなった奥様との間で決めていた縁談が問題になるとか、家の財産を分けなければならないとか……アンナが大きくなったら、きちんと考えると言われて」
「六年間も?」
エステルが思わず聞き返すと、リーナの顔が歪んだ。
「私だって、何度も頼みました!」
「責めているのではありません」
「責めている顔です!」
「そのつもりは――」
「あなたみたいな立派な人には分からないでしょう! 町長に逆らえば、この町で仕事を失う。家だって追い出される。アンナと二人で、どこへ行けばよかったんですか!」
エステルは口を閉じた。
正しい手続きを求めることは簡単だ。
だが、その手続きを拒む者が生活のすべてを握っていたら、正しさを主張すること自体が命懸けになる。
「申し訳ありません」
今度の謝罪は、すぐに口から出た。
「六年間も、と申し上げたのは不適切でした。あなたが六年間何もしなかったように聞こえます」
リーナは泣きながら首を振った。
「私も悪いんです。いつか認めてもらえると思って、待ってしまったから」
「今、どちらが悪いかを決める必要はありません」
エステルは床の文字へ目を落とした。
「アンナさんが住民名簿にないため、神託が彼女を『温もりを受ける資格なき者』と判断したのでしょう」
「それで、どこへ連れていったんですか」
「おそらく、神託が不適格者を処理する場所です」
「処理って……」
リーナの顔から血の気が失せた。
「人を物のように言わないで!」
「申し訳ありません。神託側の分類を説明しただけで――」
「だから、その言い方が!」
リーナが泣き崩れる。
エステルは、自分がまた間違えたことを理解した。
正確な言葉を選んだつもりだった。
だが、母親にとって娘は、分類される対象ではない。
「アンナさんは、祈祷塔へ送られた可能性があります」
言い直した。
「この家から奪った熱と一緒に、地下の水路を通って」
「生きているんですか」
再び問われた。
今度こそ、軽々しく答えることはできなかった。
「分かりません」
リーナが息を呑む。
「さっきは、生きているって言ったじゃないですか」
「確かめずに申し上げました」
「嘘をついたの?」
「はい」
認めると、リーナはエステルの頬を叩いた。
乾いた音が寝室へ響く。
マティアスが止めようとしたが、アルブレヒトが腕を出して制した。
「どうして!」
リーナは泣きながら叫んだ。
「どうして、そんなことを言ったんです! 私は、あなたの言葉を信じたのに!」
「あなたに動いていただくためです」
「私を黙らせるためでしょう!」
「……そうだったのかもしれません」
「最低よ!」
「はい」
頬が熱い。
けれど、言い返す資格はなかった。
リーナの希望を、自分の都合で作ったのだから。
「それでも、今は祈祷塔へ向かわせてください」
「また都合のいいことを」
「お怒りは、アンナさんを見つけたあとで、すべて受けます」
「見つからなかったら?」
エステルは答えられなかった。
そのとき、アルブレヒトが口を開いた。
「私が責任を取る」
「殿下」
「この女を使うと決めたのは私だ」
「でも、嘘をついたのは私です」
「黙れ。今は話を増やすな」
アルブレヒトはリーナへ向き直った。
「娘が見つからなければ、エステルへの処分をあなたに決めさせる。それでよいか」
「そんなことをして、アンナが戻るんですか」
「戻らない」
アルブレヒトは慰めるような嘘をつかなかった。
「だが、今ここで争えば、助けられる可能性まで失う」
リーナは唇を震わせた。
やがて壁へ手をつきながら、道を空ける。
「……行ってください」
「必ず――」
エステルは言いかけて、止めた。
必ず助ける。
そう約束したかった。
しかし、できない約束を重ねれば、また相手の心を利用することになる。
「行ってきます」
それだけを告げた。
アルブレヒトが先に階段を下りる。
エステルも続こうとしたが、頬の痛みと寒さで足元がふらついた。
大きな手が肘を支える。
「歩けるか」
「はい」
傷は反応しなかった。
「今のは本当らしいな」
「殿下は、最初から私が嘘をついたと分かっていたのですね」
「ああ」
「なぜ、あの場で指摘しなかったのですか」
「母親の前で、お前の言葉を否定すれば混乱すると思った」
「では、見逃してくださったのですか」
「違う」
アルブレヒトは冷たい目を向けた。
「あとで必ず話すつもりだった」
「怒っていらっしゃいますか」
「腹が立っている」
「嘘をついたから?」
「自分が傷つく可能性を考えず、他人が欲しがる言葉を差し出したからだ」
エステルは足を止めた。
アルブレヒトも止まる。
「家族にも、そうしてきたのだろう」
「何のことでしょう」
「分からないなら、今はいい」
彼はエステルの肘から手を離した。
「ただし、私の前ではやめろ。確かめていないことを、安心させるためだけに断言するな」
「殿下は、安心させる言葉をお求めにならないのですか」
「要らない」
傷は赤くならない。
「悪い結果でも?」
「知らないまま選ぶよりはましだ」
エステルは、先を歩き始めたアルブレヒトの背中を見つめた。
冷たい男だと思う。
優しい嘘を一つも許してくれない。
けれど、その冷たさの中では、エステルも、相手が望む答えを探さなくてよかった。
家を出ると、町長グスタフが待っていた。
「アンナは見つかりましたか」
リーナの秘密を知っているはずの男が、心配そうな顔をしている。
エステルは、その顔を見ただけで腹が立った。
だが、今は責める時間ではない。
「祈祷塔へ向かいます」
「なぜです?」
「アンナさんが住民名簿にないため、暖房神託によって連れ去られた可能性があります」
グスタフの顔色が変わった。
「誰から、それを」
「今、その話をする必要がありますか」
以前のエステルなら、事実を明らかにするため、その場で追及していただろう。
今は違う。
怒りも責任も、あとで扱える。
少女の命だけは、あとへ回せない。
「祈祷塔の地下に、排熱槽か、余剰魔力を集める部屋はありますか」
「……あります。古い集熱室が」
「案内してください」
「しかし、あそこは十年前の事故以来、封鎖されていて」
「鍵は?」
「神殿から、開けるなと」
アルブレヒトが一歩前へ出た。
「鍵はあるのか」
「あります」
「出せ」
「ですが、神殿との協定が――」
「子どもの命より協定を選ぶなら、今ここで町長を解任する」
グスタフは震える手で、腰の鍵束を取り出した。
その中に、黒く錆びた長い鍵が一本ある。
エステルはそれを受け取り、祈祷塔を見上げた。
町の中央に立つ白い塔。
壁面を覆う霜の下で、無数の神託文字が脈打っている。
その文字の一部が、赤く染まり始めていた。
聖王国で見つかった、禁制の神託墨と同じ色に。
「急ぎます」
エステルは走り出した。
祈祷塔の地下で待っているのが、凍えた少女なのか。
それとも、十年前から誰かが隠してきた別の何かなのか。
今はまだ、誰にも分からなかった。




