第七話 凍った町は、聖王国の女を歓迎しない
翌朝、エステルが目を覚ましたとき、窓の外はまだ暗かった。
北境の夜明けが遅いということは知識として知っていたが、実際に経験すると、朝になったという実感がなかなか湧かない。
客室に置かれた小さな時計は、すでに六時を回っている。
寝台から身体を起こすと、両手首に鈍い痛みが走った。
昨夜、治療官のエッダが薬を塗り、丁寧に布を巻いてくれた。それでも銀の枷によって傷ついた皮膚は、少し動かしただけでひりついた。
痛む。
そう口に出しかけて、エステルはやめた。
誰もいない部屋で言っても仕方がない。
そう考えた直後、昨日のエッダの言葉を思い出す。
――声を漏らすのと言葉にするのは別だよ。
「痛いです」
試しに呟いてみた。
何も変わらなかった。
当然である。
けれど、自分の身体に起きていることを、なかったことにしなかったというだけで、ほんの少し呼吸がしやすくなった。
エステルは寝台を降りた。
昨夜まで着ていたドレスは乾燥室へ運ばれ、代わりに砦の女性兵が使う服が用意されていた。厚手のシャツ、毛織りの上着、脚へ沿う細身のズボン。
ズボンを身につけるのは初めてだった。
鏡の前でしばらく迷った末、エステルは上着の裾を引いた。
「落ち着きません……」
「何がだ」
突然、背後から声が聞こえた。
エステルは驚いて振り返った。
閉じた扉の向こうから、アルブレヒトの声がする。
「起きているなら、十分後に出る」
「入ってはいませんよね?」
「扉の外だ」
「それなら、先にそうおっしゃってください」
「私が女の着替えを覗く人間に見えるのか」
「殿下について得ている情報が、まだ少なすぎます」
扉の向こうが静かになった。
言いすぎただろうか。
「今のは冗談です」
「お前は冗談を言うのか」
「今、試してみました」
「失敗だ」
「自覚しています」
「十分だ」
足音が遠ざかっていく。
エステルは鏡へ戻った。
ズボン姿は見慣れないが、昨日の薄いドレスよりははるかに動きやすい。上着の襟元には帝国軍の紋章が刺繍されているが、その上から無地の外套を着れば目立たないだろう。
机の上には、小さな革袋が置かれていた。
中身は帝国銀貨一枚。
昨夜の契約で決めた、調査着手分の報酬だった。
まだ何もしていないのに受け取ってよいのか迷い、エステルは袋を手に取った。
袋の下には短い書き置きがある。
――前払い。食事代は別。返却不要。
文字は大きく、形も不揃いだった。
ただし内容に曖昧さはない。
アルブレヒトなりに、エステルが気にしそうな点を先回りしたのだろう。
もう少し整った字で書けば読みやすいのにと思ったが、本人から文字の大きさに口を出すなと言われている。
エステルは書き置きを畳み、革袋と一緒に懐へ入れた。
◇
砦を出ると、雪はやんでいた。
雲の切れ間から薄い朝日が差し、昨日積もった雪が青白く光っている。
ラウゼンまでは馬車で半日ほどだという。
アルブレヒトのほか、護衛騎士が四名、記録官が一名。それに治療官のエッダも同行する。
負傷したロランたちは砦へ残ることになった。
出発前、治療室へ顔を出すと、ロランは寝台の上で不満そうに眉を寄せた。
「俺も行きます」
「肋骨が二本折れていると聞きました」
「一本にひびが入っているだけです」
「二本だよ」
隣で薬を整理していたエッダが即座に訂正した。
「さっき一本だと言ったじゃないですか!」
「一本だと言えば寝ると思ったからね」
「治療官が嘘をついていいんですか」
「患者を大人しくさせるためなら、私は悪魔とも取引するよ」
ロランは悔しそうに毛布を握った。
「でも、この人を一人で行かせるのは」
「一人ではありません」
エステルが答える。
「殿下と護衛の方々がいます」
「そこが心配なんですよ」
ロランは声を潜めたつもりらしいが、部屋の入口に立つアルブレヒトにも十分聞こえていた。
「聞こえている」
「聞かせました」
「元気そうだな。今日から食事を減らせ」
「横暴だ!」
「冗談だ」
ロランが口を開けたまま固まった。
エステルも驚いてアルブレヒトを見る。
「殿下も冗談をおっしゃるのですね」
「今、試した」
「失敗です」
「お前に言われたくない」
エッダが声を上げて笑った。
「案外、お似合いじゃないか。二人とも冗談が下手で」
「何が似合うのですか」
エステルが尋ねると、エッダは薬瓶の栓を閉めた。
「仕事仲間としてだよ。ほかに何があるんだい」
「でしたら、最初からそう言ってください」
「そういうところだよ」
最近、誰からも同じことを言われている気がする。
エステルは納得できないまま治療室を出た。
◇
ラウゼンへ向かう道は、想像以上に険しかった。
雪に埋もれた山道を、馬車がゆっくり進む。車輪が溝にはまるたび、護衛騎士たちが降りて押さなければならなかった。
エステルは車内で、アルブレヒトから渡された資料を読んでいた。
ラウゼンの暖房神託は、およそ二百四十年前に設置されている。
町の地下を流れる温泉水へ神託を作用させ、温めた水を石造りの管で各家庭へ送る仕組みだ。
燃料の乏しい北境では、生命線と言ってよい。
「神託が止まったのは三日前なのですよね」
「ああ」
向かいに座るアルブレヒトは、腕を組んだまま目を閉じている。
「その前兆はありませんでしたか。水温が少しずつ下がった、管が凍結した、祈祷塔から異音がしたなど」
「報告にはない」
「住民から直接、聞き取りを行う必要があります」
「好きにしろ」
「殿下も同席されますか」
「必要ならな」
「殿下がいると、住民が萎縮する可能性があります」
アルブレヒトが目を開けた。
「私に来るなと?」
「聞き取りの際だけ、少し離れていただければ助かります」
「私の領地で、私を邪魔者にする女は初めてだ」
「邪魔者とは言っていません」
「言葉を変えただけだろう」
「殿下がいることで得られる利点もあります。町の責任者へ資料提出を命じる際には、ご同行いただきたいです」
「都合よく使うつもりか」
「契約上の協力者ですので」
「昨夜まで国外追放の罪人だった女とは思えない態度だな」
「昨夜までの身分と、現在の契約は別です」
アルブレヒトは何か言い返そうとしたが、諦めたように窓の外を見た。
「一つ聞く」
「はい」
「町へ着けば、お前が聖王国の人間だと知られる」
「服装だけなら、すぐには分からないと思います」
「話せば分かる。発音が違う」
「そうなのですか」
「今、気づいていなかったのか」
「帝国の共通語は、聖王国語とほぼ同じだと資料にありました」
「ほぼ、だ。お前たちは言葉の端を伸ばす。北では回りくどく聞こえる」
「殿下の話し方は、短すぎます」
「帝国では普通だ」
「先ほどの護衛騎士の方々は、もっと丁寧に話していました」
「お前は、私にだけ遠慮がないな」
「雇用条件について話し合う必要がありますから」
「それで、聖王国の人間だと知られることについては」
話を戻され、エステルは資料を閉じた。
「嫌われる可能性がある、ということですか」
「可能性ではない。嫌われる」
アルブレヒトは淡々と言った。
「ラウゼンでは、十年前に聖王国の神官が起こした祈祷事故で二十七人が死んでいる。その後、神殿は事故の責任を町の管理不足として処理した」
「記録にはありませんでした」
「聖王国側の記録にはないだろう。帝国側でも、外交上の都合で公表されていない」
「その神官は、どの神託を扱っていたのですか」
「町の守護神託だ」
「今回の暖房神託と、同じ祈祷塔にありますか」
「ああ」
エステルは再び資料を開き、建物の見取り図を探した。
「なぜ最初に教えてくださらなかったのです」
「聞かれなかった」
「必要な情報です」
「お前がどこまで調べるか見ていた」
「試したのですか」
「そうだ」
アルブレヒトの傷に変化はない。
正直に認められると、かえって怒りの向け先を失う。
「不愉快です」
「そうか」
「謝罪は?」
「必要か」
「今後、意図的に情報を隠されると、調査へ支障が出ます」
「ならば契約に加えろ」
「今夜、追記します」
「本当に書くのか」
「口頭で済ませろとおっしゃるのですか」
「いや。お前が忘れないように書け」
アルブレヒトは再び目を閉じた。
エステルはしばらく彼を睨んだが、本人は気にした様子もない。
腹が立つ。
しかし、腹が立つと言葉にしてみると、それだけで少し冷静になれた。
家族やジュリアンに対しては、腹が立っても、悲しくても、正しい言葉に直そうとしていた。
この男には、そんな遠慮が不要なのかもしれない。
◇
昼を過ぎた頃、馬車はラウゼンへ到着した。
町の入口には、石造りの門がある。
門柱に刻まれた暖房神託は、半分以上が白い霜に覆われていた。
町へ入ると、異様な静けさがエステルを迎えた。
家々の煙突から煙は上がっている。しかし人の姿がほとんどなく、通りには薪を積んだ橇だけが置き去りにされている。
暖房神託が止まったため、住民たちは各家庭で火を焚いているのだろう。
だが、北境の家屋は地下暖房を前提に作られている。暖炉だけで建物全体を温めることは難しい。
窓の内側まで白く凍った家もあった。
「想定より悪いです」
エステルは馬車から降りながら言った。
「何がだ」
「家の外壁まで凍結しています。単に暖房が止まっただけではありません。何かが町全体から熱を奪っています」
アルブレヒトが門柱を見る。
「神託の暴走か」
「まだ断定できません。ただ、停止しているだけなら、ここまで急速に凍る理由がありません」
「殿下!」
町の奥から、一団の男たちが駆けてきた。
先頭にいるのは、灰色の髭を生やした大柄な男だった。厚い毛皮を着込み、腰には鉱山用の槌を下げている。
「よくお越しくださいました。町長のグスタフです」
「状況は」
「昨夜から、さらに悪化しました。東区の水路は完全に凍結し、今朝までに三軒の壁が割れています。老人と子どもは集会所へ移しましたが、薪があと二日分しかありません」
「神官は」
「一人は意識が戻りません。もう一人は……」
グスタフは言いよどんだ。
「逃げました」
近くにいた若い男が吐き捨てるように言った。
「神託を直せないと分かった途端、夜中に馬を盗んで逃げたんです。聖王国の神官なんて、どいつも同じだ」
「マティアス」
町長がたしなめる。
「事実でしょう!」
若い男はアルブレヒトの後ろに立つエステルを見た。
「そちらの女は誰です?」
「調査を行う校正官だ」
アルブレヒトが答えた。
グスタフの表情に、かすかな希望が浮かぶ。
「帝都から、新しい校正官を?」
「いいや。聖王国から来た」
空気が変わった。
集まっていた男たちの顔から、わずかな期待が消える。
マティアスは露骨に顔を歪めた。
「聖王国?」
「現在は帝国の臨時雇いだ」
「服を着替えれば、過去まで変わるんですか」
「変わりません」
エステルが答えた。
マティアスが驚いたように彼女を見る。
「私は昨日まで聖王国の神託校正官でした。あなた方が聖王国の神官を信用できない事情も、道中で聞きました」
「聞いただけで分かった顔をするな」
「分かったとは言っていません」
「だったら、何をしに来た」
「暖房神託を調べに来ました」
「直せるのか」
「調べる前に断言はできません」
マティアスが鼻で笑った。
「ほらな。また同じだ。十年前の神官も、最初は立派なことを言った。神託は女神の言葉だから間違わない。自分に任せれば町は救われるって。結局、祈祷塔を爆発させて、俺の母親も弟も死んだ」
「マティアス、やめろ」
「今度は何人死ねば、失敗だったと認めるんだ!」
男はエステルへ詰め寄った。
護衛騎士が前へ出ようとする。
しかしアルブレヒトが片手を上げ、止めた。
エステルは逃げなかった。
怖くないわけではない。マティアスの拳は固く握られ、顔には怒りが満ちている。
だが、それはエステル個人への怒りではない。
十年前、行き場を失った怒りだ。
「私は、神託が間違わないとは思っていません」
エステルが言うと、マティアスの眉が動いた。
「神託の文章は、何度も人間の手で写されています。翻訳もされ、修復もされています。人間が扱う以上、誤りは起きます」
「聖王国の人間が、女神の言葉は間違うと言うのか」
「女神の言葉が間違っているのか、人間の書き写し方が間違っているのか。調べなければ分かりません」
「同じことだろ」
「違います」
マティアスの顔が険しくなる。
エステルは言葉を続ける前に、一度息を吸った。
正しいことを謝るな。
ただし、正しい伝え方を考える努力はしろ。
「……申し訳ありません。今の言い方では、あなたのお母様や弟さんの死を、単なる文章上の誤りとして扱っているように聞こえました」
マティアスは黙った。
「私が申し上げたいのは、神託という名前がついているからといって、無条件に信じるつもりはないということです。祈祷塔へ入る前に、十年前の事故記録も確認します。町の方々からも話を聞きます。危険が高いと判断すれば、修復を中止します」
「中止したら、町は凍る」
「無理に動かして町ごと壊すより、生き残る方法を探します」
「そんな都合のいい方法があるのか」
「分かりません」
「何も分からないじゃないか!」
「はい。まだ何も見ていないので」
マティアスは唖然とした。
アルブレヒトが、隣で小さく息を吐く。
笑ったのかと思ったが、横顔はいつもどおり無愛想だった。
「でも」
エステルは続けた。
「分からないことを、分かったふりはしません。成功するとも約束できません。ただ、何が起きているのかは必ず調べます。失敗した場合も、記録を残します。次に来た者が、同じ失敗を繰り返さないように」
マティアスの拳から、少し力が抜けた。
許されたわけではない。
信じてもらえたわけでもない。
それでも彼は、もう一度殴りかかるようには近づいてこなかった。
「口だけなら、誰でも言える」
「そのとおりです」
「だったら、見せてもらう」
「お願いします」
エステルが頭を下げると、マティアスは気まずそうに目をそらした。
町長グスタフが、大きな咳払いをした。
「殿下。校正官殿。まずは集会所へお越しください。町の記録と、祈祷塔の鍵を用意しております」
「エステルで結構です」
「しかし、校正官殿と」
「資格は剥奪されています」
グスタフの目が丸くなった。
周囲の男たちもざわめく。
アルブレヒトが眉を寄せた。
「今、それを言う必要があったか」
「身分を偽るわけにはいきません」
「元校正官なのか」
マティアスが警戒を取り戻す。
「何をして、資格を失った」
「神託改竄の疑いをかけられました」
ざわめきが大きくなる。
町長が青ざめ、護衛騎士たちは頭を抱えた。
アルブレヒトは無言でエステルを見た。
「疑いをかけられただけで、私は認めていません」
「十分だ!」
町の男の一人が叫んだ。
「そんな女を祈祷塔へ入れられるか!」
「殿下、どういうおつもりです!」
「町を実験場にする気ですか!」
声が次々と上がる。
アルブレヒトが一歩前へ出た。
それだけで、男たちの声が止まった。
「この女を使うと決めたのは私だ」
低い声が、凍った通りへ響く。
「異論がある者は、代わりに神託を直せ。できないなら、調査の邪魔をするな」
誰も答えなかった。
恐怖で黙らせるやり方だ。
エステルは、これでは住民が納得したことにならないと思った。
しかし今、再び口を挟めば、話がさらにややこしくなる。
自分でも、少しは学んでいる。
町長が深々と頭を下げた。
「殿下のご判断に従います。ただし、祈祷塔へ入る際は、町の者を立ち会わせてください」
「構いません」
エステルが答えた。
「十年前の事故について知る方にも、できれば同行をお願いします」
マティアスが顔を上げる。
「俺が行く」
「危険かもしれません」
「だから行くんだ。あんたたちだけで、何をするか分からない」
「承知しました」
町長は疲れたように息を吐いた。
「それでは集会所へ。子どもたちも大勢おりますので、騒がせないようお願いします」
一行が歩き始めた、そのときだった。
通りの奥から、女性の悲鳴が聞こえた。
「誰か! 誰か来て!」
厚い扉が開き、一人の女性が雪の上へ転がるように飛び出してくる。
裸足だった。
髪もまとめておらず、外套すら着ていない。
「リーナ、どうした!」
町長が駆け寄る。
女性は息を切らし、震える手で自宅を指した。
「娘が……娘がいないんです」
「娘?」
「朝まで、寝台にいたはずなのに。扉は内側から閉まっていました。窓も凍りついて、開かないのに……」
女性はエステルの腕へすがりついた。
冷え切った指が、治療したばかりの手首に食い込む。
「お願いです、助けてください。家の中から、あの子が消えたんです!」
エステルは女性の背後にある家を見た。
扉の周囲を、白い霜が覆っている。
その霜の中に、細い文字のような模様が浮かんでいた。
暖房神託と同じ古代文字だった。
「殿下」
エステルは家から目を離さずに言った。
「祈祷塔へ行く前に、この家を調べます」
「神託と関係があるのか」
「まだ分かりません」
答えながら、霜に刻まれた文字を目で追う。
読めたのは、わずか一節だけだった。
――温もりを受ける資格なき者を、家より退けよ。
暖房のための神託が、住民を選別している。
そして、資格がないと判定された者を、家の外へ追い出している。
だが、雪の上に子どもの足跡はない。
家から出たのではない。
神託によって、どこかへ連れ去られたのだ。
「急いでください」
エステルは女性の手を取り、凍った家へ向かった。
「娘さんは、まだ生きています」
断言した瞬間、背後にいるアルブレヒトの傷が赤く反応したことを、エステルは見なかった。




