第六話 この罪状書は、文章として成立していません
レーヴェン帝国の国境砦へ着いた頃には、エステルの指先から感覚がなくなっていた。
アルブレヒトの騎馬隊が用意した荷馬車には屋根があり、毛布も渡された。それでも、濡れたドレスと薄い外套だけでは、北境の寒さを防ぎきれない。
何より、両手には魔力を封じる銀の枷がはめられたままだった。
枷は皮膚から少しずつ熱を奪い、手首の周囲を紫色に変えている。
「だから外せと言っているんだ!」
砦へ入るなり、護送騎士のロランが大声を上げた。
肋骨を痛めているはずなのに、声だけは妙に元気だった。
「この人は逃げません。逃げる体力もない。こんな物をつけたままにしていたら、手が腐りますよ!」
「罪人の拘束を勝手に解くわけにはいかん」
答えたのは、砦の門を守る帝国兵だった。
「聖王国の枷であっても、正式な引き渡しが済むまでは証拠品だ」
「引き渡し先が書いていない命令書なんでしょう?」
「それでも罪人用の枷だ」
「あなたたち、書類が大事なのか、人間が大事なのか、どっちなんです!」
「お前がそれを言うのか」
帝国兵が呆れた顔をした。
「今朝まで、その女を罪人として運んでいたのはお前だろう」
ロランは言葉に詰まった。
その横で、エステルは小さなくしゃみをした。
二人の男が同時にこちらを見る。
「……すみません」
「なぜ謝るんです」
ロランが言った。
「くしゃみをしたからです」
「くしゃみに謝罪は要りませんよ」
「会話を中断させました」
「そういうところですよ。本当に」
ロランは苛立ったように吐き捨てたが、すぐに自分の毛皮の肩掛けを外し、エステルへ押しつけた。
「使ってください」
「あなたも負傷しています」
「俺は制服の下に防寒着を着ています。あなたは、その飾りみたいなドレス一枚でしょう」
「ですが――」
「俺が寒いかどうかを議論している間に、あなたが凍えるんですよ。素直に受け取ってください」
エステルは少し迷ってから、肩掛けを受け取った。
「ありがとうございます」
「礼が言えるんですね」
「言えます」
「じゃあ、もっと早く言ってください」
「受け取ると決める前に礼を言うのは、承諾と誤解されるので」
「面倒くさい!」
ロランが頭を抱えたところで、砦の奥から革靴の音が近づいてきた。
それまで言い争っていた兵士たちが、一斉に姿勢を正す。
アルブレヒトだった。
濡れた軍用外套はすでに脱いでおり、黒い軍服姿になっている。高い襟元からは、先ほど赤く腫れた首筋の傷がわずかに見えた。
「騒ぐ体力があるなら、治療室へ行け」
アルブレヒトがロランへ言った。
「俺ではなく、彼女の枷を――」
「聞こえなかったのか」
「聞こえました。でも、これは外したほうがいい」
「ロラン」
年長の護送騎士が、担架の上から青年を呼んだ。
彼は脚を負傷しているものの、意識ははっきりしているらしい。
「やめておけ。帝国の皇弟殿下に、我々が口を出せることではない」
「隊長まで、そんなことを言うんですか。俺たちは、この人をここまで連れてきたんですよ」
「連れてきたのではない。助けられたんだ。我々も一緒にな」
ロランは唇を噛んだ。
アルブレヒトがエステルの手首を見る。
「治療官」
彼が呼ぶと、後ろに控えていた小柄な老女が前へ出た。
灰色の髪を乱雑に束ね、薬草の匂いが染みついた前掛けを身につけている。
「なんです、殿下。人使いの荒い男は嫌われますよ」
「嫌われて困る相手はいない」
「そういうことを真顔で言うから、ますます嫌われるんです」
老女はぶつぶつ言いながら、エステルの手を取った。
枷の下へ指を差し込み、皮膚の色を確かめる。
「あと半日つけていれば、指が二、三本使い物にならなくなっていたね」
「外せ」
「最初からそう言いなさいよ」
アルブレヒトの命令で、帝国兵が枷の鍵穴を調べ始めた。
「聖王国式です。鍵がありません」
「切断しろ」
「封印術が施されています。普通の工具では難しいかと」
「持ち主の魔力に反応しているだけです」
エステルが口を挟んだ。
周囲の視線が集まる。
「この枷は、装着時に登録された魔力を抑制します。それ以外の魔力を外側から流せば、一時的に封印式が乱れます。その瞬間に留め具を外せるはずです」
「なぜ罪人が、罪人用の枷に詳しい」
帝国兵が警戒したように尋ねた。
「神託院で、拘束器具の記録を校正したことがあります」
「何でも記録で知っているんですね」
ロランが言った。
「何でもではありません」
「今は謙遜しなくてもいいでしょう」
「謙遜ではなく、事実です」
「はいはい」
アルブレヒトがエステルの前へ立った。
「私の魔力を流す」
治療官が顔をしかめる。
「殿下の魔力は強すぎますよ。この娘の腕ごと焼く気ですか」
「調整する」
「あなたが細かな調整を得意だとは、初耳ですねえ」
「口を閉じろ、エッダ」
「嫌ですよ。口を閉じた治療官なんて、死体と同じです」
老女――エッダはそう言いながらも、エステルの腕をしっかり支えた。
「痛むよ。噛むものはいるかい」
「必要ありません」
「強がりは治療の邪魔だよ」
「強がっているのではなく――」
「じゃあ、この小僧の袖でも噛みな」
「なぜ俺なんです!」
「さっきから、いちばんうるさいからだよ」
ロランが何か言い返す前に、アルブレヒトが枷へ手を触れた。
冷たい金属の内側へ、熱が一気に流れ込む。
「っ……!」
エステルの喉から声が漏れた。
痛い。
熱いというより、骨の中へ細い針を何本も刺されたようだった。
それでも腕を引けば、封印式が乱れる機会を逃す。
「今です」
エステルが歯を食いしばって言う。
帝国兵が留め具へ器具を差し込み、力を込めた。
金属が弾ける。
片方、続いてもう片方の枷が床へ落ちた。
自由になった両手を、エッダがすぐに毛布で包み込む。
「馬鹿だね。痛いなら痛いと言えばいいんだ」
「言いました」
「声を漏らすのと言葉にするのは別だよ」
「……はい」
「そこは素直なんだね」
エッダは呆れながら、エステルを治療室へ連れていこうとした。
しかし、エステルは倒れている護送騎士を振り返った。
「先に、その方を診てください。脚の出血が止まっていません」
「見れば分かるよ」
「雪牙狼の爪には、低温毒があります。傷口の周囲が白くなっているなら、普通の止血だけでは壊死します」
エッダの目が鋭くなる。
騎士の脚を覆っていた布を剥がすと、傷口の周囲は確かに白く変色していた。
「……あんた、治療師かい」
「いいえ。魔獣災害記録で読みました」
「また記録か」
エッダが鼻を鳴らす。
「役に立つ記録を作った人間には、あとで酒でも供えてやらないとね。こっちの男を先に運びな!」
衛兵たちが担架を治療室へ運び込む。
ロランもその後を追おうとしたが、肋骨の痛みに顔を歪めた。
「お前もだ」
アルブレヒトが言う。
「でも、彼女は」
「この女は、私が預かる」
「預かるって、どういう意味です」
「言葉どおりだ」
「殿下の言葉は短すぎるんですよ。連れていって尋問するのか、牢へ入れるのか、それとも聖王国へ返すのか――」
「ロラン」
エステルが呼んだ。
「治療を受けてください」
「あなたまで俺を追い払うんですか」
「肋骨が肺へ刺さってからでは遅いです」
「さっきは刺さっていない可能性が高いって」
「高いだけで、確定ではありません」
「不安にさせるのがうまいなあ、あなた」
「安心させるために、事実と異なることは言えません」
ロランは何とも言えない顔をしたあと、アルブレヒトへ向き直った。
「この人を殺さないでください」
砦の空気が凍りついた。
帝国の皇弟へ向ける言葉としては、あまりにも無礼だった。
エステルも驚いてロランを見る。
「なぜ、あなたがそれを頼むのですか」
「俺にも分かりませんよ!」
ロランは苛立ったように答えた。
「昨日までは、神託を改竄した嫌な女だと思っていました。実際、話していると腹が立つし、自分の間違いを全部指摘されそうで落ち着かない。でも、雪牙狼に襲われたとき、あなたは俺だけ逃げろと言った。自分が助かるための嘘くらいつけばいいのに、それもしなかった」
「逃げるべきだと判断しただけです」
「そういう余計な説明を足すから、せっかくの話が台なしになるんです!」
「申し訳ありません」
「謝るところも違います!」
ロランは額を押さえた。
アルブレヒトが、ほんのわずかに息を吐く。
「殺す予定はない」
「本当ですか」
その瞬間、アルブレヒトの首筋に赤い亀裂のような痕が浮かび上がった。
彼は眉を寄せ、襟元を押さえた。
ロランは気づかなかったらしい。
だが、エステルは見逃さなかった。
先ほども同じことが起きた。
エステルが「泣いていません」と言った直後に。
「予定はない」
アルブレヒトは言い直した。
「ただし、この女が私や帝国に害を及ぼすと判断した場合は別だ」
赤い痕が、それ以上広がることはなかった。
ロランは渋々うなずき、治療官に引きずられるように去っていった。
残されたエステルへ、アルブレヒトは顎で廊下の奥を示した。
「来い」
「どこへですか」
「話を聞く」
「尋問ですか」
「好きな呼び方をしろ」
「呼び方によって、受けられる権利が変わります」
アルブレヒトは足を止めた。
「権利?」
「正式な尋問であれば、記録官の立ち会いを求めます。単なる事情確認なら、答えたくない質問には答えません」
「罪人が、ずいぶん注文の多いことだ」
「昨夜まで伯爵令嬢でしたから」
自分でも、なぜそんな返しをしたのか分からなかった。
疲れているのかもしれない。
アルブレヒトは金色の瞳でエステルを見た。
怒らせたかと思ったが、彼は無表情のまま歩き出す。
「事情確認だ」
「承知しました」
「記録は私が取る」
「殿下ご自身で?」
「人の言葉をそのまま信じる趣味がない」
その言葉を聞いて、エステルは少し安心した。
無条件に信じると言われるより、ずっと信用できる。
◇
連れていかれたのは、砦の執務室だった。
石壁に囲まれた簡素な部屋で、装飾らしいものはほとんどない。机の上には軍事報告書と地図が積まれ、暖炉のそばには濡れた外套がかけられている。
唯一目についたのは、壁一面を埋める本棚だった。
軍事、法律、魔獣、気候、鉱山、医学。
分類はされているようだが、並べ方には統一感がない。背表紙の高さも揃っていない。
エステルは思わず眉を寄せた。
「何だ」
アルブレヒトが椅子へ座りながら尋ねた。
「本の並べ方が気になりました」
「今から自分の罪状について話す人間が、気にすることか」
「目に入ってしまったので」
「直すな」
「触れていません」
「目が直したそうにしている」
そんな目があるのだろうか。
エステルが考えていると、アルブレヒトは向かいの椅子を指した。
「座れ」
「失礼いたします」
「飲め」
机の端に、湯気の立つ杯が置かれた。
中身は薄い香草茶らしい。
エステルはすぐには手をつけなかった。
「毒は入っていない」
アルブレヒトが言う。
「疑っているわけではありません」
「では、なぜ飲まない」
「事情確認の途中で席を立ちたくないので」
「何の話だ」
「温かい飲み物を飲むと、その後に――」
「説明しなくていい」
アルブレヒトは片手で額を押さえた。
エステルは杯へ口をつけた。
冷え切った身体に温かさが落ちていく。香草の苦みが強いが、今はそれすらありがたかった。
アルブレヒトは聖王国の護送命令書を机へ広げた。
「まず確認する。エステル・ヴァレリー。二十二歳。神託院所属、上級校正官。王太子ジュリアンの婚約者だった」
「昨夜、爵位と資格を剥奪されています」
「だから文書には、処分前の身分と書かれている」
「申し訳ありません」
「訂正するなとは言わない。ただし、私が誤っているときだけにしろ」
「今の表現では、現在もその身分であるように聞こえました」
「……分かった。続ける」
アルブレヒトは紙へ何かを書き込んだ。
本当に訂正したらしい。
「神託改竄を認めるか」
「認めません」
彼の傷に変化はない。
「赤い神託墨を所持していたか」
「いいえ」
「妹を聖女にするため、候補者名簿を書き換えたか」
「いいえ」
「王太子との婚約を取り戻すため、妹の婚姻を無効にする文書を作ったか」
「いいえ」
「妹を憎んでいるか」
質問の方向が急に変わった。
エステルは口を閉じた。
「答えたくありません」
「事情確認だ。答えたくない質問には答えなくていいと言ったな」
「覚えていらしたのですね」
「私を何だと思っている」
「冷酷で、敵味方に容赦がなく、気に入らない者を処刑する方だと聞いています」
「どこまで本気で信じている」
「先ほど、雪牙狼を八頭倒すところを見ましたので、敵に容赦がないという点は確認できました」
「気に入らない者を処刑するという部分は」
「今のところ、私は生きています」
「では保留か」
「はい」
アルブレヒトはペンを止め、エステルを見つめた。
「妹を憎んでいるかという質問は、取り下げる。代わりに聞く。妹が聖女に選ばれたことを、喜んだか」
「最初は驚きました」
「喜んだかと聞いている」
「……分かりません」
それが正直な答えだった。
ミレイユが望んでいた聖女になったのなら、祝うべきだと思った。
だが、その直後に婚約者を奪われた。
家族は妹の未来を守るため、エステルに罪を認めさせようとした。
今の感情がどこから始まったのか、もう自分でも整理できない。
「妹には、幸せでいてほしいと思っています」
アルブレヒトの首筋の傷が、じわりと赤くなった。
エステルは言葉を止めた。
「今のは嘘ですか」
尋ねると、アルブレヒトの表情が変わった。
「なぜそう思う」
「私が答えた直後、傷が赤くなりました。街道でも同じでした。私が泣いていないと言ったときです」
アルブレヒトは襟元を閉じ、傷を隠した。
「見間違いだ」
傷がさらに赤く浮かび上がる。
エステルは彼を見た。
アルブレヒトもエステルを見返した。
数秒後、彼は小さく舌打ちした。
「面倒な目を持っているな」
「よく言われます」
「これは嘘に反応する」
あまりにもあっさりと認められ、エステルは驚いた。
「神託による能力ですか」
「呪いだ」
「意図的な虚偽だけに反応するのですか。それとも、事実と異なる発言すべてに?」
「質問は一つずつにしろ」
「すみません」
「意図的な嘘だ。ただし、本人が事実だと思い込んでいる場合は反応しない。比喩や冗談にも反応が曖昧になる」
「先ほど、殺す予定はないとおっしゃったときにも反応しました」
「害があれば殺す可能性を、頭の中で除外していなかったからだ」
「では、私が妹に幸せでいてほしいと言ったのは」
「嘘だった」
エステルの胸が痛んだ。
「私は、妹の不幸を望んでいるのでしょうか」
「私に聞くな」
「呪いで分かるのでは?」
「嘘が分かるだけだ。本心までは分からない」
アルブレヒトは冷たく言い切った。
「お前は妹に幸せでいてほしいと思っている部分もあるのだろう。同時に、今すぐ転んで泥まみれになればいいと思っている部分もあるかもしれない。人間の感情は一つではない」
「ずいぶん具体的ですね」
「妹がいる」
「殿下にも?」
「なぜ驚く」
「ご家族との関係が良好に見えなかったので」
「会ったこともないのに何が分かる」
「ご自身のことを、嫌われて困る相手はいないとおっしゃいました」
「余計な記憶力だな」
アルブレヒトは明らかに不機嫌になった。
だが、話を打ち切りはしなかった。
「罪状に関するお前の返答には、反応しなかった」
「では、信じてくださるのですか」
「いいや」
即答だった。
「なぜです?」
「自分で罪を犯したと認識していない可能性がある。記憶を操作されていることも、別の名目で改竄に関与したことも考えられる」
エステルは落胆しかけ、それから奇妙な安堵を覚えた。
彼は彼女に都合のよい結論を出していない。
可能性を一つずつ残している。
「適切な判断だと思います」
アルブレヒトが怪訝な顔をした。
「疑われているのにか」
「根拠もなく信じられるより、調べていただけるほうが安心できます」
「変わった女だな」
「根拠なく疑われた直後ですから」
「なるほど」
彼は護送命令書の一箇所を指で叩いた。
「この文書が不自然なのは事実だ。お前の罪状は、聖女選定の神託を改竄したことになっている。だが、どの神託の、どの文章を、どう書き換えたか記されていない」
「調査中だからだと思っていました」
「ならば処分は決定できない。さらに、発行日は芽吹月一日だが、執行を命じた署名は光月二十日。存在しない日付を使った偽造文書よりはましだが、命令書の発行前に執行者が同意したことになる」
「私が指摘した新暦の誤りと、同じ人物が関わっている可能性があります」
「それだけではない」
アルブレヒトは紙を裏返した。
「国外追放と書かれているが、国境のどちら側へ送るか指定がない。通常ならば、受け入れ国の許可か、最低でも追放地点が必要だ」
「私をレーヴェン帝国へ引き渡す決定ではなかったのですか」
「帝国は何も聞いていない」
「では、護送騎士たちは、私をどこへ?」
「国境門を越えたところで降ろす予定だったらしい」
エステルは杯を持つ手を止めた。
「吹雪の中で?」
「街道から帝国側の町まで、徒歩で二日はかかる」
「食料も、荷物も持たされていません」
「知っている」
「それは国外追放ではありません」
声がかすれた。
アルブレヒトが静かに答える。
「処刑だ。責任を雪と魔獣へ押しつけただけのな」
エステルは、湯気の消えかけた杯を見つめた。
父は、命だけは残ると言った。
生きてさえいれば、やり直せると。
父は、このことを知っていただろうか。
知らなかったと思いたい。
けれど、神殿と処分について話し合っていた。
国外追放後に援助できないことも、手紙を送れないことも知っていた。
どこまで知り、どこから目をそらしたのか。
分からなかった。
「家族は、お前を助けようとしたのか」
アルブレヒトが尋ねた。
「父は、罪を認めれば命を救えると言いました」
「信じたか」
「……信じたかったです」
傷は反応しなかった。
「今も信じたいか」
エステルは答えられなかった。
信じたい。
信じたくない。
父が知っていたなら、エステルは家族に殺されかけたことになる。
知らなかったなら、娘の処分内容を確かめもせず、罪を認めろと迫ったことになる。
どちらも苦しかった。
「分かりません」
ようやく言うと、アルブレヒトはそれ以上追及しなかった。
慰めもしなかった。
ただ護送命令書を折り、机の脇へ置いた。
「今夜は砦に置く」
「牢ですか」
「客室だ」
「私は他国の罪人です」
「帝国では罪を犯していない」
「逃亡の恐れがあります」
「逃げるのか」
「逃げません」
傷に反応はなかった。
「なら問題ない」
「私の申告だけで決めてよいのですか」
「私には確認する手段がある」
「そうでした」
エステルは納得したが、すぐに別の問題へ気づいた。
「ですが、私には帝国へ滞在する資格がありません」
「今から与える」
「殿下の権限で?」
「北境内では、私が許可できる」
「どのような身分で滞在するのですか」
「保護対象」
「期限は?」
「お前の疑惑を調べ終えるまでだ」
「それでは、殿下に利点がありません」
アルブレヒトはペンを置いた。
「何が言いたい」
「見ず知らずの外国人を保護し、聖王国との外交問題を抱えることになります。私はお礼として差し出せる財産も、身分もありません」
「だから?」
「無償で保護される理由が分かりません」
「人間は、理由がなければ助けられないのか」
「少なくとも、皇弟殿下が外交上の危険を冒すには、相応の理由が必要です」
「お前は、素直に助かったと喜べないのか」
「喜んだあとで対価を請求されるほうが困ります」
「本当に面倒だな」
「申し訳ありません」
「謝って直す気はあるのか」
「必要な確認だと思っています」
「なら謝るな」
アルブレヒトは椅子へ深く座り、腕を組んだ。
「利点ならある」
「何でしょう」
「この砦から北へ半日進んだところに、ラウゼンという町がある」
彼は机上の地図を開き、国境近くの印を指した。
「三日前から、町の暖房神託が止まっている」
「暖房神託?」
「地下水路を温め、各家へ熱を送る古い神託だ。修復を試みた神官は二人。どちらも失敗した。昨日、一人が倒れた」
「原因は分かっているのですか」
「神託文が一部凍結し、読めなくなっている」
エステルは眉を寄せた。
「文章そのものが凍っているのですか。それとも、神託の効力によって祈祷塔が凍結しているのですか」
「違いがあるのか」
「大きく違います。前者なら物理的に解凍できますが、後者なら文章上の矛盾を解消しなければ、熱を加えるほど凍結が強まる可能性があります」
アルブレヒトの目が細くなった。
「見れば分かるか」
「原文と、過去の修復記録、設置時の契約文があれば調査できます」
「資格は剥奪されたのではなかったか」
「資格と知識は別です」
「ならば働け」
あまりに唐突で、エステルは瞬きをした。
「命令ですか」
「取引だ。お前はラウゼンの神託を調べる。私はお前の身分を一時的に保証し、聖王国の罪状を調査する」
「私が神託を直せなかった場合は?」
「調査した分は食事と寝床で払う」
「直せた場合は?」
「報酬を出す」
「金額は?」
「お前は国外追放された直後にも、金額を聞くのか」
「働くのですから当然です」
アルブレヒトは数秒、黙った。
それから机の引き出しを開き、帝国銀貨を三枚並べた。
「調査で一枚。原因特定で一枚。修復できれば、さらに一枚」
「危険手当は?」
「……危険なのか」
「神官が二人倒れています」
「追加で一枚」
「資料の翻訳が必要な場合は別料金です」
「お前は商人か」
「現在、ほかに売れるものがありませんので」
アルブレヒトの口元が、ごくわずかに動いた。
今度こそ、笑ったのだと思う。
「分かった。契約書を作る」
「私が内容を確認しても?」
「校正も好きにしろ。ただし、文字の大きさには口を出すな」
「すでに指摘されたことがあるのですか」
「黙れ」
アルブレヒトは新しい紙を取り出した。
エステルは久しぶりに、書かれたばかりの文章を覗き込む。
インクの匂い。
紙を滑るペンの音。
文字を読むという、昨日まで当たり前だった行為。
胸の奥に、かすかな熱が戻った。
家名も、婚約者も、職位も失った。
それでも、自分の中に残っているものがある。
アルブレヒトが最初の一文を書き終える。
エステルは読み、すぐに口を開いた。
「殿下」
「何だ」
「『神託校正の能力を有する者』では範囲が曖昧です。私が行うのは、現状調査と文書比較です。修復を保証する表現には同意できません」
アルブレヒトはペンを止めた。
「今から全部書き直せと?」
「一行目ですので、今なら被害は少ないです」
「被害と言うな」
「では、修正量が少ないです」
「同じ意味だ」
「表現が柔らかくなりました」
アルブレヒトは深く息を吐き、書いた一行へ横線を引いた。
「エステル」
「はい」
「一つ、先に言っておく」
「何でしょう」
「正しいことを謝るな」
ペンを動かしながら、彼は続けた。
「ただし、正しい伝え方を考える努力はしろ。お前は、相手が理解できないのを相手の責任にしすぎる」
胸に刺さる言葉だった。
だが、ジュリアンに言われたときとは違う。
アルブレヒトは、エステルの正しさそのものを否定してはいない。
「殿下も、命令だけで相手が理解できると思わないほうがよいかと存じます」
エステルが返すと、アルブレヒトは顔を上げた。
「雇う前から、雇い主を批判するのか」
「契約前だからこそ、申し上げています」
二人はしばらく見つめ合った。
先に目をそらしたのは、アルブレヒトだった。
「……明朝、ラウゼンへ向かう」
「承知しました」
「今夜は休め」
「その前に、契約書を完成させてください」
「逃げないと言っただろう」
「口頭の約束と文書は別です」
「お前を拾ったのは、間違いだったかもしれないな」
彼の傷は反応しなかった。
エステルはそれを見て、少しだけ眉を下げた。
「それは、本心なのですね」
アルブレヒトが襟元を押さえた。
「この呪いの使い方を覚えるな」
「善処します」
「それは、やらない人間の返事だ」
今度は、エステルのほうがわずかに笑った。
王都を出てから初めて浮かべた笑みは、ひどく小さく、不格好なものだった。
それでもアルブレヒトは何も言わず、契約書の一行目を書き直した。
その夜、エステルは他国の砦で、罪人ではなく、一人の臨時校正官として眠ることになった。
翌朝、自分が調べる町で、祈りによって家々が凍り始めているとも知らずに。




