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『妹に聖女の座も婚約者も奪われましたが、神託の誤字に気づいたのは私だけでした 〜追放された校正官は冷酷皇弟と偽りの世界を正します〜』  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第五話 罪人を拾ったのは、北の処刑人でした

 罪人を運ぶ馬車には、窓がなかった。


 正確には、外側から板を打ちつけられた小さな窓が一つだけあった。板と板の隙間から細い光が差し込み、馬車が揺れるたびに、床の上を頼りなく滑っている。


 エステルは、その光を眺めながら膝を抱えていた。


 昨夜はほとんど眠れなかった。


 神殿の宿舎へ移されることも、正式な事情聴取を受けることもなかった。王宮の地下にある待機室へ入れられ、夕刻には処分決定書を読み上げられた。


 爵位剥奪。


 神託校正官資格の永久停止。


 国外追放。


 国外追放は、通常ならば数週間の準備期間が与えられる。私物を整理し、最低限の財産を持ち出し、行き先について隣国と協議する必要があるからだ。


 エステルに与えられた準備時間は、一晩にも満たなかった。


 持ち出しを許されたのは、着ているドレスと、薄い外套だけである。


 着替えも本も、長年使っていた校正筆もない。


 髪をまとめるための櫛すら没収された。


 今朝、王都の門を出るとき、父も母もミレイユも来なかった。


 別れを告げられなかったことを寂しいと思う一方、来なくてよかったとも思う。


 もし母に泣きながら抱きしめられたら。


 父から、これがお前の命を救うためだったのだと説得されたら。


 ミレイユに、どうして最後まで私を責めるの、と言われたら。


 自分が何を答えるのか、エステルにも分からなかった。


 馬車が大きく跳ねた。


 肩が壁へぶつかり、鈍い痛みが走る。


「もう少し丁寧に走れないのですか」


 向かいに座る護送騎士が、御者台へ怒鳴った。


「こっちだって好きで揺らしてるんじゃねえよ! 道が凍ってるんだ!」


 壁越しに、御者の声が返ってくる。


「車輪が外れたらどうする!」


「だったら、お前が降りて押せ!」


「口を慎め!」


「昨夜から何も食わせてもらってない人間に、慎む口が残ってると思うか!」


 エステルの向かいに座る騎士は、舌打ちして黙った。


 まだ二十代半ばほどの、赤毛の青年だった。名はロランと呼ばれているらしい。出発前、年長の騎士がそう呼んでいた。


 その年長の騎士は、御者台にいる。


 護送者二名。


 罪人一人を国外へ追放するには、あまりに少ない。


 しかも、二人とも王宮騎士ではなく、地方警備隊の古びた制服を着ている。


「何ですか」


 ロランが不機嫌そうに言った。


 見つめすぎたらしい。


「いえ」


「何か言いたいなら言ってください。さっきから、人の服だの剣だの、じろじろ見て」


「王家と神殿の重罪人を護送する人員としては、装備が不十分だと思っただけです」


「馬鹿にしてるんですか」


「心配しているのです」


「誰を」


「私たち全員をです」


 ロランはしばらく黙り、それから鼻で笑った。


「自分を捕まえた人間の心配ですか。さすが、元伯爵令嬢はお優しいことで」


「優しさではありません。国境へ近づくほど魔獣の出没率が上がります。現在の人数と装備では、襲撃を受けた際の生存率が低いと言っています」


「そうやって数字の話をすれば、怖くないんですか」


 思いがけない問いだった。


「何がでしょう」


「これから国を追い出されることです」


 ロランは視線をそらし、腰の剣へ触れた。


「俺なら、怖いですけどね。生まれた国から、二度と戻ってくるなって言われるのは」


 エステルはすぐには答えられなかった。


 怖い。


 その言葉を、自分は一度も口にしていなかった。


 家族の前でも、神官の前でも。


 証拠がおかしい。手続きが正しくない。処分が法に反している。


 そんな話ばかりしていた。


 怖いから助けてほしいと、なぜ言えなかったのだろう。


「怖いです」


 エステルが答えると、ロランが顔を上げた。


「ずいぶん素直ですね」


「尋ねられましたから」


「昨日は副院長相手に、一歩も引かなかったと聞きました」


「誰からです?」


「出発前、神殿騎士が話していましたよ。何を聞かれても言い訳ばかりで、最後まで反省しなかったって」


「私は事情聴取を受けていません」


「……は?」


「質問はされていません。罪を認める供述書へ署名するよう求められただけです」


 ロランは目を細めた。


「そんなはずはないでしょう。判決が出たんですよ」


「裁判も開かれていません」


「でも、処分決定書には正式な印が――」


「印があれば、内容まで正しくなるのですか」


「また、それですか」


 ロランは苛立ったように頭を掻いた。


「俺は学者じゃない。神託のことも、裁判の手続きも分かりません。命令されて、あなたを国境まで運んでいるだけです」


「承知しています。あなたを責めているわけではありません」


「だったら、そういう目で見ないでください」


「どういう目です?」


「俺も間違っているって、言いたそうな目ですよ」


 エステルは困った。


「そのようなつもりはありません」


「そういうところでしょうね」


「何がです?」


「王太子殿下が、あなたといると息が詰まると言った理由です」


 胸を刃物で浅くなぞられたような痛みが走った。


 ロランは言ってから、まずいと思ったらしい。唇を曲げ、窓のない壁へ顔を向けた。


「すみません。余計なことを言いました」


「いいえ。皆さんがどう聞いているのか、参考になりました」


「そうやって、平気な顔をするんですね」


「平気な顔?」


「怒るなら怒ればいいでしょう。俺はあなたの婚約者だった人の言葉を持ち出して、嫌なことを言った。なのに、参考になりましたって。腹が立たないんですか」


「立っています」


「見えませんけど」


「見せる必要がありますか」


「そういうところが、少し気味悪いんですよ」


 ロランは言いにくそうに続けた。


「何を考えているか分からない。妹さんは違う。聖女様は昨日、広間に集まった平民一人一人に笑いかけてくださった。怪我をした給仕の手を取って、その場で癒やしたそうです。あの方なら、国中の人が守りたいと思う」


「そうでしょうね」


「怒らないんですか」


「妹が人を癒やしたことに、怒る理由はありません」


「婚約者を奪われたんでしょう?」


「妹だけが奪ったのではありません。殿下が選んだのです」


「……本当に面倒な人ですね、あなた」


「よく言われます」


 エステルが答えると、ロランは一瞬きょとんとし、それから小さく吹き出した。


「そこは否定しないんですか」


「否定しても、あなたの認識は変わらないでしょう」


「ほら、そういう言い方ですよ」


 今度は先ほどほど険のある声ではなかった。


 馬車の外で、風が鳴っている。


 王都を出た頃には薄曇りだった空も、北へ進むにつれて暗くなってきた。板の隙間から入る空気が、時間とともに冷たくなっている。


「国境まで、あとどのくらいですか」


 エステルが尋ねた。


「順調なら、明日の昼です」


「今夜はどこに泊まる予定ですか」


「国境手前の関所に宿舎があります」


「この吹雪で、今日中に着けると思いますか」


「吹雪?」


 ロランは板の隙間へ目を寄せた。


「雪なんて、まだ降ってないでしょう」


「風の音が変わりました。北側から吹き込んでいます。それに、気温が急に下がっています」


「だから何です」


「この地方で、北風と急激な気温低下が重なる場合、大雪になる可能性が高いです。少なくとも、街道を進み続けるのは危険です」


「王都育ちのお嬢様が、北の天気までご存じなんですか」


「五年前、北境の凶作記録を整理しました。降雪と街道封鎖の記録も確認しています」


「記録と実際の空は違うでしょう」


「そうかもしれません。ですから、御者と相談してください」


「止まったら、今日中に関所へ着けません」


「進めなくなってから止まるより安全です」


 ロランは返事をしなかった。


 エステルもそれ以上言わなかった。


 少し経つと、屋根を細かな粒が叩き始めた。


 雨ではない。


 固い雪だった。


 それは瞬く間に激しくなり、馬車の壁へ小石のように打ちつける。


「おい、ロラン!」


 御者台から、年長の騎士が怒鳴った。


「吹雪になる! 次の分岐で猟師小屋へ向かうぞ!」


 ロランが、気まずそうにエステルを見た。


「記録どおりでしたね」


「偶然かもしれません」


「そこは得意そうにしていいところでしょう」


「得意になって雪がやむなら、そうします」


「本当に、面倒くさいな」


 ロランはそう言いながら、今度は少し笑っていた。


 馬車が速度を落とした。


 車輪が雪を噛み、何度も横滑りする。御者が馬を叱咤する声が聞こえた。


 やがて馬車は大きく右へ傾いた。


「何だ!」


 ロランが壁へ手をつく。


 馬の甲高いいななきが響いた。


 続いて、何か重いものが馬車の屋根へ落ちてきた。


 木の枝ではない。


 爪が屋根板を引っ掻く、耳障りな音。


「魔獣だ!」


 御者台の騎士が叫んだ。


「雪牙狼の群れだ! ロラン、囚人を連れて降りろ!」


 ロランは立ち上がり、腰の剣を抜いた。


 馬車が再び激しく揺れる。


 屋根板を突き破り、白い爪が中へ飛び込んできた。


 エステルの顔のすぐ横を掠め、壁へ深く食い込む。


「伏せろ!」


 ロランが爪を剣で叩き、エステルの腕をつかんだ。


 後部扉を開けた途端、雪と風が一気に吹き込んでくる。


 外は、昼間とは思えないほど暗かった。


 横殴りの雪の中で、馬が一頭倒れている。その腹へ、白い狼に似た魔獣が食らいついていた。


 ただの狼ではない。


 牛ほどもある身体を持ち、口元から突き出した牙が青白く光っている。


 街道脇の林にも、いくつもの赤い目が浮かんでいた。


「何頭いますか」


 エステルが尋ねる。


「数えてる場合か!」


「敵の数が分からなければ、逃げる方向を決められません」


「いいから、小屋へ走れ! 林の手前だ!」


「林からも来ています」


「だったら、どこへ行けっていうんだ!」


 ロランの声が裏返った。


 彼は若い。


 地方警備隊とはいえ、魔獣との実戦経験は多くないのだろう。


 御者台にいた年長の騎士が、長剣で一頭を牽制している。


「ロラン! 罪人は捨てていい! お前だけ逃げろ!」


「そんな命令、聞けるか!」


「護送より、生き残るほうが先だ!」


 ロランは歯を食いしばった。


 つかんでいたエステルの腕に、痛いほど力が入る。


「あなたは逃げてください」


 エステルは言った。


「何を言ってるんです」


「私を連れていては、走れません」


「罪人を放置したら、俺まで罪人になる」


「生きて帰らなければ、処罰も受けられません」


「こんなときまで、理屈を――」


 雪牙狼の一頭が飛びかかってきた。


 ロランがエステルを突き飛ばし、剣を横へ振る。


 刃は魔獣の肩へ当たったが、毛皮を浅く裂いただけだった。


 狼の前脚がロランの胸を打つ。


 青年の身体が雪の上へ転がった。


「ロラン!」


 エステルは駆け寄ろうとした。


「来るな!」


 ロランが叫ぶ。


 雪牙狼は彼ではなく、立っているエステルへ顔を向けた。


 赤い目が細くなる。


 獲物を選んだのだ。


 逃げなければならない。


 分かっているのに、足が動かなかった。


 恐怖で身体が固まるという現象を、エステルは記録で読んだことがある。逃げるべき場面で思考だけが異様に速くなり、手足が命令に従わなくなる。


 まさか自分が、その記述どおりになるとは思わなかった。


 雪牙狼が地面を蹴る。


 牙が迫った。


 その瞬間、黒いものが視界を横切った。


 重い衝突音が響き、飛びかかってきた雪牙狼が横へ吹き飛ぶ。


 魔獣の巨体は雪の上を何度も転がり、街道脇の木へ叩きつけられた。


 エステルの前に、一人の男が立っていた。


 黒い軍用外套が、吹雪の中で大きくなびいている。


 背は高く、肩幅も広い。黒髪には雪が積もり、抜き身の剣からは青白い光が立ちのぼっていた。


 男は振り返らず、低い声で言った。


「動けるか」


 エステルは自分へ向けられた問いだと気づくまで、少し時間がかかった。


「はい」


「ならば、倒れている兵を馬車の陰へ運べ」


「ですが、あなた一人では――」


「九頭だ」


「え?」


「林に四頭。街道に五頭。そのうち一頭は今、斬った」


 エステルが数えようとしていたことを、男はすでに把握していた。


「残り八頭だ。私一人で足りる」


 自信ではない。


 天候を説明するような、淡々とした口調だった。


 林の中から雪牙狼が二頭、同時に飛び出した。


 男は剣を構え直すことさえしなかった。


 一歩踏み込み、最初の一頭の首を斬り上げる。その勢いのまま身体を回し、もう一頭の牙を外套の金具で受け流した。


 銀光が走る。


 二頭目の魔獣も、声を上げる間もなく雪へ沈んだ。


「早くしろ」


 男が言った。


 エステルは我に返り、ロランへ駆け寄った。


「立てますか」


「たぶん……肋骨が何本か折れました」


「呼吸は?」


「するたび痛いです」


「話せるなら、肺には刺さっていない可能性が高いです。肩を貸します」


「あなた、腕に枷が――」


「歩けないなら引きずります」


「もっと優しく言えないんですか」


「今、優しく言えば歩けますか」


「……歩きますよ」


 ロランは苦痛に顔を歪めながらも、エステルの肩につかまった。


 二人で馬車の陰へ移動する間にも、剣戟の音が続く。


 だが、それは長く続かなかった。


 最後の一頭が雪の中へ倒れる。


 黒い外套の男は剣についた血を払い、鞘へ戻した。


 まるで、道を塞いでいた枝を片づけただけのようだった。


 彼の後方から、騎馬隊が到着する。


 全員が黒と銀の軍装をまとっていた。


「殿下!」


 先頭の騎士が馬を降り、男へ駆け寄る。


「お怪我はございませんか」


「ない。負傷者を確認しろ。馬車の御者も生きている」


「承知しました」


 殿下。


 その呼び方に、エステルは男の横顔を見つめた。


 黒髪と金色の瞳。


 左の首筋には、火傷のような古い傷がのぞいている。


 隣国レーヴェン帝国の皇弟。


 北境を統治し、敵にも味方にも容赦しないことから「北の処刑人」と恐れられる男。


 アルブレヒト・レーヴェンハイム。


 彼が、なぜ聖王国側の街道にいるのか。


 エステルが考えていると、アルブレヒトは彼女の手首へ視線を落とした。


 銀の枷。


 罪人用の魔力封じ。


「女」


「はい」


「名は」


 エステルは一瞬、ためらった。


 爵位は剥奪された。


 ヴァレリー家の名を名乗る権利も、もうないのかもしれない。


「エステルです」


「それだけか」


「昨夜まで、エステル・ヴァレリーと名乗っていました」


 アルブレヒトの金色の瞳が細くなる。


「神託を改竄したという、王太子の元婚約者か」


「そのように処分されました」


「やったのか」


「いいえ」


 即答した。


 アルブレヒトは黙ってエステルを見つめた。


 その目は冷たい。


 だが、家族やジュリアンから向けられた疑いの目とは違った。


 彼はエステルの表情ではなく、発した言葉そのものを確かめているようだった。


 やがて、アルブレヒトは視線をそらした。


「そうか」


 それだけだった。


 嘘だとも、信じるとも言わない。


「護送命令書を」


 アルブレヒトが言うと、負傷した年長の騎士が懐から文書を取り出した。


「帝国との協議なしに、国境へ罪人を捨てるつもりだったのか」


「わ、我々は、王家の命令に従っただけで……」


「聞いていない。文書を出せ」


 命令書を受け取ったアルブレヒトは、吹雪の中で最初の一行へ目を通した。


 すぐに眉間へ皺を寄せる。


「ひどい文章だ」


 エステルは思わず顔を上げた。


 アルブレヒトは二枚目へ進み、さらに不機嫌そうな顔をした。


「処分理由と護送目的が矛盾している。発行日より先に執行者の署名がある。国外追放と書きながら、受け入れ国も引き渡し先も記載されていない」


 彼は文書を閉じ、エステルを見た。


「これで人を罪人にできるなら、私の国では半日で全員を処刑できる」


 皮肉なのだろう。


 それなのに、エステルは泣きそうになった。


 誰かが初めて、彼女ではなく、彼女を罪人にした文章のほうがおかしいと言った。


 アルブレヒトは、エステルの目元が揺れたことに気づいたらしい。


 わずかに顔をしかめた。


「なぜ泣く」


「泣いていません」


「目に水がたまっている」


「吹雪が入っただけです」


 アルブレヒトの首筋にある古い傷が、突然赤く浮かび上がった。


 彼は痛みに耐えるように眉を寄せる。


 エステルは息を呑んだ。


「傷が――」


「問題ない」


「ですが、急に赤くなりました」


「問題ないと言った」


 アルブレヒトは不機嫌そうに言い、部下へ命じた。


「負傷者と馬を回収しろ。この女も連れていく」


 護送騎士が慌てて口を挟む。


「お待ちください! その者は聖王国の罪人です。我々が国境まで――」


「馬車は壊れ、護送兵は負傷している。このまま進めば全員凍死する」


「しかし、引き渡しの命令が」


「引き渡し先は文書に書かれていない」


 アルブレヒトは護送命令書をひらひらと振った。


「従って、私が拾っても問題はない」


「拾う、とは……」


「街道に落ちていた」


 エステルは思わず訂正した。


「落ちていたのではなく、護送されていました」


 周囲の騎士たちが凍りついた。


 ロランが馬車の陰で、何を言っているんだという顔をしている。


 アルブレヒトだけが、しばらくエステルを見つめたあと、ほんのわずかに口元を動かした。


「訂正できる程度には元気らしい」


 笑ったのかどうか、エステルには分からなかった。


「連れていけ。枷は外すな」


 アルブレヒトは背を向けた。


「この女の罪状書には、確認したい間違いが多すぎる」


 吹雪の中、黒い外套が翻る。


 こうしてエステルは、母国から捨てられるはずだった国境の手前で、隣国一恐ろしいと噂される皇弟に拾われた。


 彼女の言葉を初めて疑わなかった代わりに、泣いていないという小さな嘘だけを、身体の傷で見抜いた男に。


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