第四話 家族のために罪を認めろと、父は言った
その文書を書いた者は、王宮の新暦を知らない。
あるいは、暦が改定される以前から、エステルを罪人にする準備を進めていた。
エステルが指摘した日付の誤りに、部屋の空気が一瞬だけ揺れた。
神託院副院長のボルデは、騎士が差し出した羊皮紙を奪うように受け取った。文書の末尾へ顔を近づけ、何度も日付を確認する。
「確かに……光月二十一日とある」
「今日は芽吹月一日です」
「日付を書き間違えただけではないのか」
ジュリアンが苛立たしげに言った。
エステルは彼へ向き直った。
「誰が、ですか?」
「何?」
「私が書いた文書だとおっしゃるのなら、私が日付を間違えたということになります。私は新暦への移行作業に参加しました。王宮と神殿へ配布する暦表を作成したのも私です。今年の光月に二十一日が存在しないことを、忘れると思われますか」
「人間なら間違うこともある」
「そのとおりです」
エステルはうなずいた。
「だからこそ、間違いを検証する必要があります。私も間違える。神殿も間違える。王家も、騎士も、証拠を発見した者も間違えます。それなのに、なぜ私の失敗だけを前提とし、ほかの可能性を調べようとなさらないのですか」
ジュリアンの口元が歪んだ。
「君は自分の無実を証明するより、他人を疑うことに熱心なのだな」
「無実を証明するために、証拠の矛盾を指摘しています」
「その言い方をやめろ!」
ジュリアンの怒声に、卓上の硝子杯がかすかに震えた。
エステルは肩をすくませそうになり、指先へ力を入れてこらえた。
幼い頃、ジュリアンは大声を出す少年ではなかった。
王太子教育で失敗した日には、庭園の隅へ隠れて泣いていた。エステルが見つけても、最初は何も話さなかった。
しばらく隣に座っていると、ようやく「王になりたくない」と呟いた。
あの少年に、エステルは大丈夫だと言った。
間違えたところを一緒にやり直せばいい。分からないものは調べればいい。自分も手伝う。
それが彼を救ったのだと思っていた。
もしかすると、あの日からずっと、彼にとってエステルは、自分の失敗を知っている厄介な証人だったのかもしれない。
「殿下、今はお声をお抑えください」
ボルデが低い声でたしなめた。
「広間には、すでに大勢の招待客が集まっております」
「分かっている。だから早く片づけたいのだ」
ジュリアンは吐き捨てるように言い、エステルを見た。
「筆にも、墨にも、文書にも君の名がある。執務室から見つかり、筆跡まで似ている。日付が一日ずれていた程度で、すべてが覆ると思っているのか」
「一日ではありません。今年は、その日自体が存在しません」
「同じことだ!」
「違います」
反射的に答えた瞬間、ジュリアンの顔から感情が消えた。
怒りを通り越し、エステルを見放したような目だった。
「本当に、君とは話ができない」
静かな声で言われた。
胸の奥で、何かが小さく裂けた。
エステルはそれを無視し、ボルデへ視線を戻した。
「文書の作成時期は、羊皮紙と墨を調べれば推定できます。新暦の公布以前に作られたものなら、少なくとも本日の婚約発表に合わせて私が用意したという主張は成立しません」
「主張などしていない。調査中だ」
「調査中の者へ、なぜすでに神殿資料への接触禁止命令が出ているのですか」
「証拠保全のためだ」
「では、私を疑っていることは公表せず、婚約発表だけを行うおつもりですか」
ボルデは答えなかった。
答えたのは父だった。
「エステル。少し、私たちだけで話をさせてくれないか」
「私たち、とは?」
「家族だ」
父は神殿騎士とボルデを見た。
「副院長。殿下。娘へ状況を説明し、落ち着かせます。しばらく時間をいただきたい」
「祝宴はどうする」
ジュリアンが時計を見る。
「開会まで、もう二十分もない」
「予定どおりお進めください」
父の返事は早かった。
エステルは、その横顔を見た。
「予定どおり?」
「ミレイユ様の聖女認定と殿下との婚約は、今回の疑惑とは別件です」
ボルデも同意する。
「エステル嬢については、神殿が身柄を預かり、非公開で調査を進める。現時点で罪を公表する必要はないでしょう」
「身柄を預かる?」
エステルが聞き返すと、ボルデは初めて彼女の目をまっすぐ見た。
「調査が終わるまで、神殿の宿舎で過ごしてもらう」
「監禁ですか」
「保護だ」
「出入りは自由ですか」
「それは認められない」
「外部との手紙のやり取りは?」
「検閲を受ける」
「弁護人との面会は?」
「神殿内の問題に、世俗法の弁護人は必要ない」
「では、監禁です」
「言葉を選びなさい!」
ボルデの声が鋭くなった。
エステルは黙り、彼の顔を見つめた。
副院長は息を整えると、以前の穏やかな口調へ戻ろうとした。
「君の安全のためでもある。聖女選定を巡る不正が事実なら、神殿の権威を揺るがす大事件だ。君を恨む者が出るかもしれない」
「私を罪人だと疑っている場所に、私の安全を預けろと?」
「そのような言い方をするから、話がこじれるのだ」
ボルデの言葉に、エステルは思わず笑いそうになった。
笑える状況ではない。
それでも、あまりに見慣れた言葉だった。
エステルが間違いを指摘する。
指摘された者が不快になる。
すると問題は、最初に存在した間違いではなく、場をこじらせたエステルの態度へすり替わる。
「副院長」
エステルは校正筆を布の上へ戻した。
「その器具には触れた者全員の魔力痕が残っています。私の魔力が付着しているか、今ここで簡易検査をしてください」
ボルデの顔が固まった。
「簡易検査では正確な結果が出ない」
「少なくとも、私の魔力が一切検出されなければ、重要な判断材料になります」
「古い魔力痕は消えている可能性がある」
「では、誰の魔力が残っているのか調べてください」
「調査はこちらで行うと言っている!」
「今ここで行えない理由は何ですか」
エステルが尋ねるたび、ボルデの目が少しずつ険しくなる。
かつては頼れる上司だと思っていた。
彼は厳しいが公平で、神託の正確さを何より重んじる人だった。
少なくとも、エステルはそう信じていた。
「もうよい」
父が間へ入った。
「エステル。お前は少し黙りなさい」
「ですが――」
「黙れ!」
父の怒声が響いた。
今度こそ、エステルの身体が震えた。
父は目を見開き、自分の声の大きさに驚いたようだった。それでも謝らず、噛みしめるように続けた。
「これ以上、殿下や副院長を侮辱するな。今のお前は、疑いをかけられている立場だ。正しいか間違っているかではない。態度を慎めと言っている」
「お父さまは、私がしたと思っているのですか」
「そうは言っていない」
「では、していないと思っているのですか」
「今は、どちらでもいい!」
父が言い切った。
エステルは、もう何も返せなかった。
どちらでもいい。
娘が罪を犯したのか、陥れられたのか。
父にとって今は、それほど重要ではない。
ジュリアンが窓の外を見た。
「時間だ。私は広間へ行く」
「殿下」
エステルは呼び止めた。
「私との婚約解消を、どのように発表なさるのですか」
ジュリアンは振り向かない。
「君が体調不良のため、婚約者としての役目を辞退したと説明する」
「事実ではありません」
「また、それか」
「私は辞退していません。殿下から解消を求められ、同意したのです」
「そんなことを公表すれば、王家が一方的に君を捨てたように聞こえるだろう」
「実際にそうではありませんか」
ジュリアンが振り返った。
苦しげな顔だった。
「なぜ、私をそこまで追い詰める」
その問いに、エステルは一瞬、言葉を失った。
追い詰められているのは自分のはずだった。
婚約を失い、職務を奪われ、身に覚えのない罪を着せられようとしている。
それなのにジュリアンは、自分こそ被害者だと思っている。
「私は事実を話してほしいだけです」
「君にとって事実は、そんなに大切なのか」
「大切です」
「人の気持ちよりも?」
エステルは答えようとして、やめた。
どちらが大切かという問いではない。
事実を隠し、嘘をついて守る気持ちが、本当に相手を大切にしていると言えるのか。
説明しても、今のジュリアンには届かない。
「もういい」
ジュリアンは扉へ向かった。
そのあとを、ボルデと神殿騎士が続く。
「副院長」
エステルは最後にもう一度呼びかけた。
「筆と文書を、私の見ている前で封印してください」
「あとで行う」
「証拠品を持ち出す前にお願いします」
「疑いをかけられた者の要求に従う義務はない」
「それでは、証拠のすり替えを否定できません」
ボルデが足を止めた。
振り返った顔からは、かつての親しみが完全に消えていた。
「君は、自分だけが正しいと思いすぎる」
「そうは思っていません」
「いいや、思っている。だから神殿も、王家も、家族も信じない。間違いを見つけることに取り憑かれ、自分の目に映ったもの以外は認めようとしない」
「では、私を信じてください」
エステルは言った。
ボルデが黙った。
「私はその筆を使っていません。その墨を所持していません。その文書も書いていません。副院長は、私が嘘をついていると思われますか」
長い沈黙だった。
広間から、楽団が奏でる祝いの音楽が聞こえてくる。
やがてボルデは目をそらした。
「私は、調査結果に従う」
答えにはなっていなかった。
「そうですか」
エステルが言うと、ボルデは逃げるように部屋を出ていった。
ジュリアンも続いた。
扉が閉まる直前、廊下の向こうから拍手が聞こえた。
婚約発表が始まる。
エステルの婚約が終わったことを知らない人々が、祝福のために手を叩いている。
部屋に残ったのは、エステルと父、母、ミレイユだけだった。
家族だけになった途端、母が大きく息を吐いた。
「どうして、あそこまで副院長に逆らうのです。あの方が庇ってくださらなければ、あなたは今すぐ拘束されていたかもしれないのですよ」
「庇っていたようには見えませんでした」
「神殿の宿舎で調査すると言ってくださったでしょう。普通なら地下牢へ入れられてもおかしくないのです」
「していない罪で、ですか」
「まだ、そのようなことを」
母は苛立ちを隠そうともせず、エステルへ近づいた。
「お願いだから、今は大人しくしてちょうだい。ミレイユはこれから聖女として、国民の前へ出なければならないのです。姉が神託を改竄したなどと知られれば、あの子まで疑われます」
「お母さまも、私の無実より、ミレイユの立場が大切なのですね」
「そんな言い方をしないで!」
「では、違うと言ってください」
「あなたも大切に決まっているでしょう!」
母の声が裏返った。
その言葉を聞いても、胸は少しも温まらなかった。
「私をどう大切にしてくださるのですか」
「だから、家族で助けようとしているのではありませんか」
「どのように?」
母は父を見た。
父は窓際に立ち、祝宴の音楽へ耳を傾けていた。
「お父さま」
エステルが呼ぶと、彼はしばらく返事をしなかった。
広間では、司会役の声が響いている。
聞き取りにくいが、ミレイユの聖女認定について説明しているようだった。
やがて父は、重い足取りで卓上へ近づいた。
「エステル。これから話すことを、よく聞きなさい」
「はい」
「神殿は、すでにお前を主犯とは考えていない」
意外な言葉だった。
「では、なぜ拘束するのですか」
「最後まで聞け」
父は低い声で遮った。
「お前一人で赤い神託墨を作り、聖女選定を操作できるとは、神殿も考えていない。背後に誰かいるはずだと見ている」
「実際に、私を陥れた者がいます」
「そういう話ではない」
「では、どのような話ですか」
父は一度目を閉じ、覚悟を決めるように息を吐いた。
「お前が、何者かに利用されたことにする」
エステルは意味を理解できなかった。
「利用されたことにする?」
「神託院の人間から、赤い墨は聖女選定の誤りを正すために必要だと教えられた。お前は禁制品とは知らず、指示されるまま筆を使った。妹を害する意図はなく、王国のためだと思い込んでいた――そのように証言しなさい」
「それは事実ではありません」
「分かっている!」
父は卓上へ拳をついた。
「分かっているが、そう証言すれば、お前は主犯ではなくなる。処刑は免れる。爵位を剥奪され、国外へ追放される程度で済む」
「程度?」
エステルは、自分の声がひどく遠く聞こえた。
「身分を失い、家族と職を奪われ、国外へ追放されることが、程度なのですか」
「命は残る!」
「していない罪を認めれば、です」
「生きてさえいれば、やり直せる!」
「どこでですか」
「それは……」
「神託改竄を認めた元伯爵令嬢を、どの国が受け入れますか。校正官として働くこともできません。私は一生、聖女選定を不正に操作した罪人として生きることになります」
「では、真実を争って死刑になりたいのか!」
父の顔は真っ赤になっていた。
怒っているのではない。
怖いのだ。
娘を失うことが。
その恐怖だけを見れば、父は確かにエステルを愛しているのかもしれない。
だが、彼が守ろうとしているのは、エステルが積み上げてきた人生ではない。
ただ命だけを残し、ほかのすべてを捨てさせようとしている。
「お父さまは、私が罪を認めたあと、家族として支えてくださるのですか」
父の唇が動いた。
「国外追放となれば、表立って援助はできない。ヴァレリー家まで共犯を疑われる」
「手紙は?」
「神殿の監視がある間は難しい」
「いつか、迎えに来てくださるのですか」
「状況が落ち着けば、方法を考える」
「何年後ですか」
「そんなことは分からない!」
「では、私は一人で国を出て、家名も職も失い、二度と皆さんに会えない可能性があるのですね」
父は何も言わなかった。
代わりに母が、泣きながらエステルの手を取った。
「分かってちょうだい。あなたを見捨てるわけではないの。でも、今ミレイユの聖女認定まで揺らげば、家族全員が終わるのよ」
「私は終わってもよいのですか」
「そうではないわ!」
「では、誰が終わるべきなのですか」
「どうして、そんな残酷なことを聞くの!」
母は手を離し、顔を覆った。
エステルは自分の胸が痛んだ。
泣かせたかったわけではない。
母を苦しめたいわけでもない。
ただ、自分も怖いのだと分かってほしかった。
けれど、家族の中で泣いている者が二人になると、泣かないエステルはいつも加害者になる。
「お姉さま」
ミレイユが、かすかな声で呼んだ。
いつの間にか、妹の涙は止まっていた。
「お願い。お父さまの言うとおりにして」
エステルは妹を見た。
「私が罪を認めれば、あなたは安心できる?」
「そういう意味じゃないわ」
「では、どういう意味?」
「お姉さまに死んでほしくないの」
「私も死にたくないわ」
「だったら!」
「でも、していないことをしたとは言えない」
ミレイユは唇を噛んだ。
「お姉さまは、昔からそう。自分の正しさのためなら、ほかの人がどれだけ困っても平気なのね」
「平気ではないわ」
「今だって、お父さまもお母さまもこんなに苦しんでいる。私だって、今日が幸せなだけの日じゃないのよ。殿下の隣に立つたび、お姉さまの顔を思い出すと思う。それでも国のためにやらなきゃいけないのに、お姉さまは自分だけ何も譲らない」
「婚約者も、王太子妃の立場も譲ったわ」
「そういう言い方!」
「事実よ」
「だから嫌なの!」
ミレイユはとうとう声を荒らげた。
「私は奪ったんじゃない。選ばれたの! 女神に選ばれて、殿下にも選ばれた。なのに、お姉さまがそんな顔をするから、私が悪いことをしたみたいになるじゃない!」
言い終えた妹は、自分でも驚いたように口を押さえた。
父と母が凍りつく。
エステルは、しばらく何も言えなかった。
ミレイユは本当に、そう思っているのだ。
姉が傷ついた顔をすることさえ、自分を責める行為だと。
「ごめんなさい」
ミレイユが震えながら言った。
「今のは違うの。私、そんなことを言いたかったわけじゃ――」
「いいのよ」
エステルは答えた。
「ようやく、あなたの本当の気持ちが聞けたから」
「違うって言ってるでしょう!」
「違わないわ。少なくとも、今はそう思ったのよ」
「また決めつける!」
「そうね。決めつけた。ごめんなさい」
エステルが素直に謝ると、ミレイユはかえって言葉を失った。
姉が反論すると思っていたのだろう。
「私は、あなたに罪悪感を抱かせたいわけではない。でも、私が傷ついていないふりをして、あなたを安心させることもできない」
「私は、お姉さまに幸せでいてほしいの」
「私が罪を認めて国外へ追放されても?」
「だから、それは命を助けるためで――」
「私の幸せではなく、私が生きているという事実だけが必要なのね」
「もうやめて!」
ミレイユが耳を塞いだ。
母が彼女を抱き寄せる。
その姿を見ながら、エステルは不思議なくらい静かな気持ちになっていた。
家族に理解してもらうことを、どこかで諦めたのかもしれない。
父が卓上から一枚の文書を取り出した。
すでに用意されていた供述書だった。
「署名しなさい」
そこには、父が説明したとおりの内容が記されている。
エステルが身元不明の神官に騙され、禁制の校正筆を使用したこと。聖女選定に介入したことを認め、王家と神殿へ深く謝罪すること。
末尾には、情状酌量を求めないという一文まであった。
「いつ作ったのですか」
「昨夜だ」
「私へ疑惑が知らされる前に?」
「神殿から提案された。これなら、お前の命を救えると」
昨夜。
家族は、エステルが眠っている間に、彼女が罪を認める文書を作っていた。
今朝、母は何も知らない顔で支度を急かした。
ミレイユは姉へ笑いかけた。
父は、取り乱すなと約束させた。
「ペンを」
父が差し出した。
エステルは受け取らなかった。
「署名しません」
「エステル」
「私は、その筆を使っていません」
「分かっている」
「赤い神託墨も持っていません」
「分かっていると言っている!」
「文書も書いていません」
「だから何だ!」
父の叫びに、エステルは目を見開いた。
「真実を主張して、家族全員を道連れにするのか。ミレイユの聖女認定が取り消されれば、王家との婚約も破談になる。ヴァレリー家は神殿を欺いた家として爵位を失う。使用人たちも職を失い、領民まで苦しむ。お前一人が罪を認めれば、すべて収まるんだ!」
「私一人が」
「姉だろう!」
父は息を切らしながら言った。
「家族を守るのは、姉であるお前の役目ではないのか」
エステルは、父の手にあるペンを見た。
幼い頃から何度も聞いた言葉だった。
姉だから。
王太子妃になるのだから。
お前は賢いのだから。
我慢できるほうが譲りなさい。
それは褒め言葉の形をした命令だった。
「お父さま」
エステルは顔を上げた。
「私も、家族ではなかったのですか」
父の顔が崩れた。
答えはなかった。
エステルは供述書を手に取った。
父の目に、期待が浮かぶ。
母も顔を上げた。
ミレイユは涙をぬぐいながら、ほっと息を吐いた。
エステルは文書を中央から二つに裂いた。
乾いた音が、部屋に響いた。
「署名しません」
もう一度、はっきりと言った。
「私は、していない罪を認めません。王家にも、神殿にも、家族にも、その嘘を事実として残させません」
父の顔から血の気が引いた。
「何をしたか、分かっているのか」
「はい」
「お前を守れなくなるぞ」
エステルは破れた供述書を卓上へ置いた。
「最初から、私を守る文書ではありません」
広間から、大きな歓声が上がった。
王太子と新たな聖女の婚約が、今まさに発表されたのだろう。
祝福の鐘が鳴り始める。
その鐘の音を聞きながら、エステルは、自分の人生が終わる音にしてはずいぶん華やかだと思った。
やがて扉が開き、先ほどの神殿騎士たちが戻ってきた。
今度は、腰の剣へ手をかけている。
「エステル・ヴァレリー嬢」
先頭の騎士が告げた。
「神託改竄ならびに聖女選定妨害の嫌疑により、身柄を拘束いたします」
父はエステルを見た。
最後にもう一度、考え直せと訴える目だった。
エステルは首を横へ振った。
騎士が彼女の手首へ、魔力を封じる銀の枷をはめる。
冷たい金属が肌へ触れた瞬間、祝福の鐘がひときわ大きく鳴った。
扉の外へ連れ出される直前、ミレイユが追いすがる。
「お姉さま!」
エステルは振り返った。
妹は何かを言おうとしていた。
謝罪か、言い訳か、それとも再び考え直してほしいという願いか。
けれど、結局ミレイユの口から出たのは、たった一言だった。
「どうして、私のために我慢してくれないの?」
エステルはしばらく妹を見つめた。
それから、できるだけ穏やかに答えた。
「今まで、十分にしてきたからよ」
扉が閉まった。
祝福に沸く広間とは反対の方向へ、エステルは連れていかれる。
その日の夕刻、正式な裁判も開かれないまま、王家と神殿の連名による処分が決定した。
爵位剥奪。
神託校正官の資格永久停止。
聖王国リュミエールからの国外追放。
そして翌朝。
エステルは罪人を運ぶ粗末な馬車に乗せられ、吹雪の迫る北の国境へ送られることになった。




