第三話 私の無実より、妹の晴れ舞台が大切なのですね
答えないことが、答えになっていた。
父はエステルの目を見ようとしなかった。母は泣いているミレイユの肩を抱いたまま、唇をきつく結んでいる。
この部屋にいる者のうち、何も知らなかったのはジュリアンとエステルだけらしい。
いや、ジュリアンについては分からない。
彼は本当に知らなかったのか、それとも、自分に都合の悪い話を詳しく聞かなかっただけなのか。
「入ってください」
エステルは扉の向こうへ声をかけた。
「エステル、待ちなさい」
父が止めようとしたが、彼女は扉から目を離さなかった。
「待って、何が変わるのですか」
「せめて、こちらで話を整理してから――」
「私以外の皆さんで、ですか?」
父の顔が歪んだ。
責めるつもりはなかった。ただ確認しただけだ。
けれど、口にしてから、やはり責めたかったのだと気づいた。
どうして教えてくれなかったのか。
どうして一度も、信じていると言ってくれないのか。
どうして家族である自分より、妹の婚約発表が滞りなく進むことのほうが大切なのか。
問いただしたかった。
それなのに、エステルの口から出る言葉は、いつも冷たく整ってしまう。
扉が開き、王宮侍従長と二人の神殿騎士が入ってきた。その後ろには、白と金の法衣をまとった中年の神官が立っている。
神託院副院長のボルデだった。
エステルが神託校正官として働き始めた頃から、何かと世話になった人物である。
初めて重要な写本を任された夜、緊張で食事を取れなかったエステルに、温かなミルクを持ってきてくれたこともある。
そのボルデは今、ひどく青ざめた顔で、彼女と目を合わせようとしなかった。
「ボルデ副院長」
エステルが名を呼ぶと、彼の肩がわずかに揺れた。
「発見された器具を見せてください」
「エステル嬢。まずは、落ち着いてお聞きください」
「落ち着いています」
「そのような言い方をされると、かえって――」
「何が発見されたのか、まだ具体的な説明を受けていません。証拠物を確認させてください」
ボルデは助けを求めるようにジュリアンを見た。
ジュリアンは不快そうに眉を寄せる。
「見せてやれ。本人が見れば、話も早いだろう」
「しかし、殿下」
「婚約発表まで時間がない。いつまでもここで揉めてはいられない」
時間がない。
ジュリアンにとって最大の問題は、婚約者だった女性が神託改竄の疑いをかけられていることではなく、祝宴の開始が遅れることらしい。
エステルはそう思ったが、口には出さなかった。
ボルデが神殿騎士へうなずく。
騎士の一人が、布に包まれた細長い物を差し出した。
エステルは布を開いた。
現れたのは、銀製の校正筆だった。
神託校正官が、神聖文字の誤りを修正する際に使用する器具である。通常のインクではなく、持ち主の魔力を流し込むことで文字を書き換える。
柄の部分には、確かにエステルの名が刻まれていた。
――ESTELLE・VALERIE。
見慣れた綴りだった。
だが、見慣れた筆ではなかった。
「これは私の物ではありません」
エステルが言うと、ボルデは苦しげに目を伏せた。
「名前が刻まれている」
ジュリアンが言った。
「名前を刻むことは、銀細工師なら誰にでもできます」
「では、誰かが君の名を刻んだと?」
「その可能性があります。少なくとも、私が使用している校正筆とは形状が異なります。私の筆は十九歳で正式任官した際、先代院長から贈られたものです。柄の先端に二枚葉の意匠があります。これは三枚葉です」
「葉の枚数など――」
「工房も違います」
エステルは筆を窓から差し込む光へかざした。
「私の物を製作したのは王都東区のローレン工房です。銀へ硬化処理を施したあと、黒曜粉を混ぜた保護剤で仕上げていますから、光を当ててもこれほど白く反射しません。この筆は、おそらく南区の工房で作られたものです」
ボルデが驚いたように筆を見た。
「そこまで分かるのか」
「校正器具の管理も、私の職務の一部でしたから」
「だった、だろう」
ジュリアンが小さく言った。
エステルは彼を見た。
「何でしょうか」
「いや……何でもない」
聞き間違いではない。
だった。
まるで、エステルがすでに職を失ったことが決まっているような言い方だった。
「その筆は、どこで発見されたのですか」
「第三保管庫だ」
ボルデが答えた。
「封印済み写本を保管している棚の下に落ちていた。今朝、管理官が見つけた」
「今朝ですか」
「そうだ」
「今朝は何時に?」
「六時半頃だったと思う」
「管理官の名前は?」
「今、それが必要なのか?」
「必要です。第三保管庫へ入れる者は限られています。発見者が誰で、最後に保管庫へ入った者が誰かを確認しなければなりません」
ボルデは視線を泳がせた。
「事情聴取は神殿が行う。君が行うことではない」
「私が疑われているのですから、確認させてください」
「疑われている者が、自分で調査を行うことは認められない」
「では、利害関係のない第三者を立ててください。神殿内部だけで調査を進めれば、公正性を疑われます」
ボルデの顔に、ほんの一瞬、苛立ちが浮かんだ。
これまでエステルが仕事上の不備を指摘したときにも、彼は同じ顔をした。
それでも以前は、最後には「君の言うとおりだ」と認めてくれた。
今日は違った。
「エステル嬢」
ボルデは、まるで聞き分けのない子どもを諭すような口調で言った。
「君が動けば動くほど、疑いが深まることもある。今は神殿を信じ、調査に任せてほしい」
「信じてほしいとおっしゃるなら、まず調査方法を明らかにしてください」
「その言い方だ!」
突然、ジュリアンが声を上げた。
部屋中の視線が彼へ集まる。
「なぜ君は、誰に対してもそうなのだ。ボルデ副院長は、君のためを思って言っているのだぞ」
「私のため、ですか?」
「君が無実なら、調査によって明らかになる。余計な口を挟まず、静かに待てばいい」
「無実なら明らかになるという保証は、どこにあるのでしょう」
「神殿を侮辱する気か」
「神殿の調査が誤る可能性を指摘しているだけです。人間が行う以上、間違いは起こります」
「神殿は国家の礎だ!」
「だからこそ、検証が必要なのです」
ジュリアンの頬が赤くなった。
彼は昔から、自分が答えられない問いを向けられると、声が大きくなる。
エステルはその癖を知っていた。
知っているから、彼が困らないよう、会議の前には必ず想定問答を用意してきた。
それさえ、彼には採点と感じられていたのだろうか。
「お姉さま、もうやめて」
ミレイユが涙を拭いながら言った。
「皆、お姉さまを責めたいわけではないのよ。ちゃんと調べてもらえばいいじゃない」
「あなたは、私がしていないと信じているの?」
エステルが尋ねると、ミレイユは目を見開いた。
「信じているわ。もちろん」
「では、そう言って」
「今、言ったでしょう?」
「私がしていないと、はっきり言って」
「どうして、そんな言い方をさせるの?」
「聞きたいからよ」
「私を試しているの?」
ミレイユの顔から、悲しみよりも苛立ちが強くなった。
「お姉さまは、いつもそう。信じていると言っても、言葉が足りない、意味が違うって、何度も言い直させる。私だって、ちゃんと心配しているのに」
「心配していることと、信じていることは違うわ」
「そんな細かい違い、今はどうでもいいでしょう!」
「私には、どうでもよくないの」
「それなら、好きな答えを自分で言えばいいじゃない!」
言った直後、ミレイユはしまったという顔をした。
母がすぐに彼女をかばう。
「ミレイユは混乱しているのです。今日がどれほど大切な日か、あなたにも分かるでしょう」
エステルは母を見た。
「私が改竄の疑いをかけられていることよりも?」
「比べるようなことではありません」
「では、婚約発表を延期してください」
母が絶句した。
父が一歩前へ出る。
「それはできない」
「なぜですか」
「各国の使節も招いている。王家と神殿が正式に発表を行うと決めたのだ。今さら中止にすれば、ミレイユの聖女認定そのものに疑念を持たれる」
「元の婚約者が神託改竄の容疑者であることは、疑念を生まないのですか」
「だからこそ、余計な騒ぎを起こすなと言っている!」
父の声が部屋に響いた。
エステルは思わず肩を揺らした。
父もそれに気づいたらしい。すぐに表情を緩めようとしたが、遅かった。
「エステル。頼む」
今度の声は低く、疲れていた。
「家族を思うなら、今日は黙っていてくれ。調査が終われば、必ず無実を証明できる。お前が罪を犯すような娘ではないことくらい、私たちも分かっている」
ようやく聞きたかった言葉が出た。
それなのに、少しも嬉しくなかった。
「分かっているのなら、なぜ私だけが黙らなければならないのですか」
「ミレイユの将来がかかっているからだ」
「私の将来は?」
父は答えられなかった。
エステルは、自分の声が震えなかったことに安堵した。
ここで泣けば、きっと母は抱きしめてくれる。
父も「お前につらい思いをさせた」と謝るかもしれない。
だが、そのあとで、家族のために我慢してほしいと言うのだ。
幼い頃から、いつもそうだった。
ミレイユが熱を出せば、エステルの誕生祝いは延期された。ミレイユが舞踏会で失敗すれば、エステルが厳しく教えすぎたせいだと言われた。妹が泣くたびに、姉なのだから譲りなさいと諭された。
そしてエステルも、妹が泣くなら仕方ないと思ってきた。
今も、ミレイユが不安そうに自分を見ていると、これ以上苦しめてはいけないという気持ちが湧いてしまう。
そんな自分が、何より腹立たしかった。
「校正筆から、改竄の痕跡は確認されたのですか」
エステルはボルデへ尋ねた。
「筆先から、禁制の赤い神託墨が検出された」
「赤い神託墨?」
ジュリアンが聞き返す。
「通常の校正は青い墨で行うのではないのか」
「はい」
ボルデはうなずいた。
「赤い神託墨は、元の文章を修正するのではなく、書かれた事実そのものを上書きする危険な道具です。百年以上前に使用が禁じられ、製法も封印されています」
「その筆を使って、何が書き換えられたのですか」
エステルの問いに、ボルデは再び口を閉ざした。
「答えてください」
「聖女選定に使われた神託だ」
父が言った。
エステルはゆっくり父へ向き直った。
「ミレイユの聖女選定ですか」
「正確には、聖女候補者名簿の一部だ」
ボルデが観念したように説明を引き継いだ。
「十二日前の儀式後、候補者名簿を再確認したところ、記録に不自然な魔力痕が見つかった。ミレイユ嬢の名前の上に、別の名前が記されていた痕跡がある」
「別の名前とは?」
誰も答えない。
ミレイユの呼吸が、急に浅くなった。
「私の名前ですか」
エステルが尋ねると、ボルデは目を閉じた。
「そうだ」
部屋の中で、ミレイユが小さく息を呑んだ。
「つまり、私が自分の名を名簿から消し、代わりにミレイユの名前を書き込んだと疑われているのですか」
「現時点では、可能性の一つだ」
「理由がありません」
「自分より魔力の高い妹を利用し、聖女の奇跡を意図的に発生させたあと、裏から操ろうとしたのではないかという見方もある」
あまりにも荒唐無稽で、エステルは一瞬、言葉を失った。
「私がミレイユを聖女にした、と?」
「断定しているわけではない」
「そして今日、その聖女へ私の婚約者を譲らせるのですか。ずいぶんと非効率的な陰謀ですね」
ジュリアンが険しい顔をする。
「皮肉を言う場面ではない」
「皮肉ではありません。動機と結果が矛盾しています。私が王太子妃の座を望んでいたなら、妹を聖女にする理由がない。妹を操りたかったのなら、自分が追放されるような証拠を残す理由もありません」
「追放など、まだ誰も言っていない」
「では、どのような処分を予定していますか」
ジュリアンは黙った。
父と母が、また目をそらす。
エステルの腹の底が冷えていった。
「すでに、処分についても話し合っているのですね」
「エステル」
父が苦しげに名を呼んだ。
「まだ決定ではない」
「どのような案が出ているのですか」
「今は知らないほうがいい」
「私の処分なのに?」
「お前は、どうして何でも聞こうとするんだ!」
父の声に、今度は怒りだけでなく、追い詰められた者の悲鳴が混じっていた。
「知らなければ、お前も苦しまずに済むだろう! 私たちだって好きで隠しているわけではない。ミレイユの聖女認定、殿下との婚約、神殿の疑惑、そのすべてが一度に起きたのだ。何をどう話せばよかったというんだ!」
「順番に話せばよかったのです」
「それができるほど、簡単な話ではない!」
「簡単でないから、何も言わなかったのですか」
「お前に話せば、こうなると分かっていた!」
父はそこまで言って、息を止めた。
エステルも動けなかった。
こうなる。
エステルが質問をする。矛盾を指摘する。皆が答えられず、空気が悪くなる。
だから、話さなかった。
信頼されていなかったのではない。
面倒だったのだ。
エステルと話すことが。
「……承知しました」
エステルは静かに言った。
父が何か言おうとしたが、彼女は続けた。
「校正筆は証拠品として正式に封印してください。発見時刻、発見場所、発見者、保管に関わった全員の氏名を記録し、複製を私へ渡してください。また、筆に残った魔力痕を第三者機関で鑑定するよう求めます」
「だから、君には調査を――」
「私が調査するのではありません。証拠保全を要求しています」
「エステル嬢」
ボルデの声に、今度は明確な拒絶があった。
「君には、神託院内の資料に触れないよう命令が出ている。自宅の執務室についても、これから捜索を行う」
「私の部屋を?」
「すでに神殿騎士を向かわせた」
エステルは初めて、冷静な顔を保てなくなった。
「私の立ち会いなしに?」
「証拠を隠される恐れがある」
「私は今朝から王宮にいました。隠しようがありません。それに、私の執務室には未整理の機密文書もあります。目録を作らず持ち出せば、ほかの資料が紛失しても確認できません」
「心配はいらない。専門の者が行っている」
「誰ですか」
「また、それか!」
ジュリアンが吐き捨てるように言った。
「誰が、いつ、どこで。君はそれしか言えないのか」
「必要な確認です」
「君が何もしていないなら、何を見られても困らないだろう!」
エステルはジュリアンを見つめた。
その理屈が、あまりに幼く聞こえた。
「殿下のお部屋を、立ち会いなしで捜索してもよろしいのですか」
「なぜ私の部屋を捜索する必要がある」
「何もしていないなら、何を見られても困らないのでしょう?」
ジュリアンの顔が引きつった。
「君は……」
「同じ理屈です」
「私と君では立場が違う!」
「立場が違えば、事実も変わるのですか」
ジュリアンはとうとう言葉を失った。
そのとき、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
扉が開き、一人の神殿騎士が飛び込んでくる。
息を切らし、手には黒い箱を抱えていた。
「失礼いたします。エステル・ヴァレリー嬢の執務室より、新たな証拠が発見されました」
ボルデの顔が強張った。
「何が見つかった」
騎士は床へ膝をつき、黒い箱を開けた。
中には、小さな硝子瓶が並んでいた。
そのうち一本には、血のように濃い赤色の液体が入っている。
「禁制の赤い神託墨です。机の隠し棚から発見されました」
「隠し棚などありません」
エステルは即座に言った。
「私の机は神託院の備品です。構造図も残っています」
「ですが、実際に開きました。さらに――」
騎士は箱の底から、折り畳まれた羊皮紙を取り出した。
「王太子殿下とミレイユ・ヴァレリー嬢の婚姻を無効とし、エステル・ヴァレリー嬢を唯一の王太子妃として認める旨が記された、未完成の神託文書が見つかりました」
ミレイユが悲鳴を上げた。
母が彼女を抱きしめ、父は顔を覆う。
ジュリアンは、もう疑いを隠そうともせずエステルを見た。
「ここまで証拠が揃っても、まだ誰かに陥れられたと言うつもりか」
エステルは答えなかった。
騎士が持つ羊皮紙を見つめていた。
遠目でも分かる。
そこに書かれている文字は、確かにエステルの筆跡に似ていた。
けれど、文章の最後に記された日付が間違っている。
王国歴七百四十二年、光月二十一日。
今日は光月二十一日ではない。
王宮では新年に暦の改定が行われ、今年から光月は一日短くなっている。正しくは、芽吹月一日だ。
その改定を知らない者が、古い暦を見ながら文書を作った。
エステルは顔を上げた。
「その文書を書いた者は、王宮の新暦を知りません」
「何を言っている?」
ジュリアンが眉を寄せる。
「日付が一日ずれています」
「今は、そんな小さな間違いの話をしているのではない!」
「いいえ」
エステルは初めて、はっきりと彼の言葉を遮った。
「今こそ、その小さな間違いの話をしているのです」
自分を陥れようとした者がいる。
そして、その者は王宮の内部事情には通じていない。
あるいは、暦が改定されるより前から、この文書を準備していた。
婚約解消が決まるより前に。
ミレイユが聖女へ選ばれるより、さらに前から。
エステルを罪人にする計画は、今日始まったのではない。
ずっと前から、誰かが彼女の名で文章を書き続けていたのだ。




