第二話 「国のため」という言葉には、主語がありません
最初から説明してほしい。
誰が、いつ、どのような理由で決めたのか。主語を省かずに話してほしい。
エステルがそう求めると、ジュリアンはひどく疲れたような顔をした。
まだ何ひとつ説明していないというのに、すでに責め立てられた被害者のような顔だった。
「君は、こういうときにも尋問を始めるのだな」
「尋問ではありません。私は当事者です。事情を聞く権利があると思います」
「権利の話をしているのではない」
「では、何の話をなさっているのですか」
ジュリアンは答えず、ミレイユの手を離した。
もっとも、握っていたことを恥じたからではないらしい。指先を名残惜しそうに滑らせてから離したのが、エステルにも見えた。
ミレイユは胸の前で両手を重ね、うつむいた。
「お姉さま、私からも説明するわ」
「あなたにはあとで聞きます。まず、殿下から伺いたいの」
「どうして? これは私のことでもあるのよ」
「だからこそよ。二人が別々に話せば、事実関係を確認できます」
「そうやって、また私が嘘をついているみたいに――」
「ミレイユ」
母が妹をたしなめた。
しかし、その声は優しい。幼い娘が言いすぎたときに、そっと肩を抱くような響きだった。
エステルが同じことを言えば、母は「口答えをやめなさい」と命じただろう。
そんな違いを数えている自分が、ひどくみじめだった。
今、考えるべきことはそこではない。
自分の婚約がどうなったのかだ。
ジュリアンは窓際へ歩き、外を眺めた。
広間へ入っていく招待客の姿が見える。彼らは皆、王太子の婚約発表を祝いに来た。今日の主役が誰なのかも知らずに。
「ミレイユが聖女に選ばれた」
ようやくジュリアンが口を開いた。
「正式な神託が下ったのは、十二日前だ。光の女神の祭壇で祈りを捧げた際、聖光が現れた。大司教をはじめ、七名の高位神官が確認している」
「十二日前」
エステルは、その日を思い出した。
家族で夕食を取るはずだった夜だ。
ミレイユは頭が痛いと言って部屋から出てこなかった。母も看病すると言って食堂へ来ず、父は急な仕事が入ったと席を立った。
結局、エステルは一人で冷めたスープを飲んだ。
聖女選定の儀式があったとは聞かされていない。
「お父さまとお母さまは、その日に知っていたのですか」
父は答えなかった。
母が代わりに言った。
「確証が得られるまでは話せませんでした。期待させておいて間違いだったら、ミレイユが傷つくでしょう」
「私に期待を持たせ続けることは、問題ではなかったのですか」
「そういう言い方をするものではありません」
「ほかに、どのような言い方をすればよいのでしょう」
母は眉を寄せた。
「エステル。あなたも、もう子どもではないのです。家族が苦しい決断をしたことくらい察しなさい」
「察するための情報を、私は与えられていません」
「今、こうして説明しているでしょう」
「婚約発表の直前にです」
母の口が閉じた。
エステルは、少し言いすぎたと思った。
母にも事情があったのだろう。ミレイユが聖女に選ばれれば、家の立場は大きく変わる。伯爵夫人として、慎重に動かなければならなかったはずだ。
頭では理解できる。
それでも、十二日間も家族全員が同じ秘密を抱え、自分にだけ何も知らせなかったという事実は、喉の奥に刺さった骨のように消えなかった。
「聖女の選定と、私の婚約にどのような関係があるのですか」
エステルが尋ねると、ジュリアンは振り返った。
「古来、聖女は王家と結ばれ、国を守護する役割を担ってきた」
「必ずではありません。過去三百年間に認定された聖女は十一名。そのうち王族と婚姻したのは四名です。ほかの七名は神殿に残るか、地方領主家へ嫁いでいます」
「だから、そういう話をしているのではない!」
ジュリアンの声が大きくなった。
ミレイユの肩がびくりと揺れる。
それを見たジュリアンは、すぐに声を落とした。
「すまない。驚かせるつもりはなかった」
謝罪はミレイユに向けられていた。
エステルは、胸の奥を指で押されたように感じた。
自分に怒鳴ったことではなく、それで妹を驚かせたことを謝るのか。
こんなときに、そんなことが気になる自分も嫌だった。
「エステル、君はいつもそうだ。私が何を話しても、記録や前例を持ち出して間違いを探す。今は歴史の講義をしているのではない」
「では、前例ではなく、今回の決定理由を教えてください」
「聖女が王太子妃になれば、王家と神殿の結びつきが強まる。北部では魔獣被害が増え、西部では干ばつが続いている。民は不安を感じている。聖女と次期国王の婚姻は、国民に希望を与える」
「それは、王太子殿下と聖女が婚姻する利点です。私との婚約を今日まで伏せたまま解消する理由ではありません」
「同じことだろう」
「同じではありません」
エステルは即座に答えた。
「国民に希望を与えることと、既存の婚約者へ直前まで事実を知らせないことは、別の問題です。婚約解消が必要だと判断された時点で、正式な協議を行うべきでした」
「協議をしたところで、結論は変わらない」
「結論が変わらなければ、手順を無視してよいのですか」
「君はどうして、もう少し穏やかに受け止められないのだ」
ジュリアンは額を押さえた。
本当に分からないという顔をしていた。
「ミレイユは聖女だ。彼女には王家へ入ってもらう必要がある。君は神託にも王国法にも詳しい。ならば、この婚姻がどれほど国にとって有益か理解できるはずだ」
「理解はできます」
「なら――」
「理解できることと、納得することは同じではありません」
ジュリアンの目に苛立ちが浮かんだ。
その表情を見て、エステルはようやく気づいた。
彼は説明したかったのではない。
エステルに「分かりました」と言ってほしかっただけなのだ。
それも、笑顔で。
王国のためなら仕方ありません。ミレイユをよろしくお願いします。私はお二人の幸せを願っています。
そう言って身を引けば、誰も罪悪感を抱かずに済む。
おそらく父も母も、それを望んでいる。
「お姉さま」
ミレイユが、震える声で口を挟んだ。
「私だって、こんなことになるとは思っていなかったの。本当よ。殿下のお相手になるなんて、最初に聞いたときはお断りしたわ」
「最初に聞いたのは、いつ?」
「それは……」
「十二日前?」
「違うわ。聖女だと分かった日は、まだ何も」
「では、いつ?」
ミレイユは困ったようにジュリアンを見た。
その視線だけで、エステルには答えが分かってしまった。
妹は、自分より先に知っていた。
「九日前だ」
ジュリアンが答えた。
「私から話した」
「九日前」
エステルは繰り返した。
九日前、ミレイユはエステルの部屋へ来た。
婚約発表ではどんな髪型にするのかと聞き、宝石箱を一緒に眺めた。青い石より真珠のほうが似合うと勧め、自分の髪飾りまで貸してくれると言った。
そのときにはもう、自分が王太子の隣に立つと知っていたのだ。
「どうして、あの日、私の衣装を一緒に選んだの?」
尋ねるつもりはなかった。
もっと重要なことを確認しなければならない。
婚約解消は誰が承認したのか。正式な文書はあるのか。神殿と王家の間でどのような取り決めがされたのか。
それなのに、口から出たのは、そんな小さな問いだった。
ミレイユは泣きそうな顔になった。
「言えなかったのよ」
「髪飾りを選ぶことはできたのに?」
「だって、何を言えばよかったの? お姉さまの婚約者を私がいただくことになりました、とでも言えばよかった?」
「いただく、という言い方はやめて」
「ほら、また言葉尻を捕まえる!」
ミレイユの声も大きくなった。
「私だって苦しかったのよ。眠れなかったし、食事だって喉を通らなかった。お姉さまの顔を見るたびに、申し訳ないと思っていた。でも、私が聖女になったのは私のせいではないでしょう?」
「聖女になったことを責めてはいないわ」
「同じよ。お姉さまはいつだって、直接は責めないもの。正しいことを並べて、相手が自分で悪いと思うまで追い詰めるの」
「私は、事実を確認しているだけです」
「それが嫌なの!」
ミレイユの青い瞳から涙がこぼれた。
母はすぐに妹の肩を抱いた。
「もうよしなさい、ミレイユ。あなたが責められることではありません」
「でも、お母さま……」
「あなたは選ばれたのです。女神のご意志を拒むことはできません」
父も重々しくうなずいた。
「エステル。ミレイユを責めるのは筋違いだ。これは王家と神殿の決定だ」
「私は、誰か一人を責めているのではありません」
「ならば、もう受け入れなさい」
父の言葉は短かった。
けれど、その中には、この十二日間の家族の結論がすべて詰まっていた。
エステルの気持ちは、検討する項目にすら入っていなかった。
「婚約解消の正式な文書を見せてください」
エステルは言った。
父が、ひどく疲れた顔をした。
「まだそんなことを」
「正式な文書です。王家同士ではありませんが、王太子と伯爵令嬢の婚約は国王陛下の承認を受けています。解消にも陛下の署名が必要です」
「用意してある」
ジュリアンが、卓上に置かれていた革張りの書類入れから一枚の羊皮紙を取り出した。
「発表のあと、君が署名すれば成立する」
エステルは受け取り、最初の行から読んだ。
王太子ジュリアン・ド・リュミエールと、ヴァレリー伯爵家長女エステルとの婚約を、双方の合意により解消する。
双方の合意。
エステルは文書から顔を上げた。
「私は合意していません」
「だから、これから署名してもらう」
「合意することを前提に、発表の準備を進めたのですか」
「拒むとは考えていなかった」
「なぜです?」
「君なら国のために理解してくれると思ったからだ!」
ジュリアンは、耐えきれなくなったように言った。
「君は王太子妃になるため、長年学んできた。国を第一に考えることが何より大切だと、誰より知っているはずだ。それなのに、どうして今になって自分の感情を優先する?」
自分の感情。
まるで、エステルが駄々をこねているような言い方だった。
十年近く続いた婚約を、知らないところで解消された。
家族全員が先に知っていた。
妹は九日前から、王太子はもっと前から、その未来を共有していた。
それでも傷つくことは、国を思わない身勝手なのだろうか。
「殿下は、ミレイユを愛していらっしゃるのですか」
エステルが尋ねると、部屋が静まり返った。
ジュリアンはすぐには答えなかった。
ミレイユが顔を上げる。
その横顔には、期待と恐れが同時に浮かんでいた。
「今、それが重要か?」
ジュリアンは言った。
「重要です」
「政略的な婚姻だ。個人の感情を持ち込むべきではない」
「では、愛してはいないのですか」
「そうは言っていない」
「愛しているのですか」
「エステル!」
父が声を荒らげた。
「妹の前で何を聞いている!」
「妹の前だから聞いています。殿下のお答えは、ミレイユにとっても必要でしょう」
ミレイユは唇を震わせた。
「やめて、お姉さま」
「あなたは知りたくないの?」
「今、殿下を困らせたいだけでしょう」
「困る質問なの?」
「そういうところが嫌なのよ!」
再び泣き出した妹を、母が抱き寄せる。
ジュリアンはミレイユへ近づき、その背中に手を添えた。
そしてエステルを見た。
「そういうところだ」
静かな声だった。
怒鳴られるよりも、その言葉は深く刺さった。
「君は正しいことを言っているつもりなのだろう。だが、正しさを振りかざして人の心を傷つける。祝いの日でさえ、間違いを見つけずにはいられない。誰かが困っていても、納得できる説明が得られるまで追及をやめない」
エステルは黙っていた。
「私は、君といると息が詰まる」
ジュリアンは続けた。
「いつ間違いを指摘されるか、何を訂正されるかと考えてしまう。私が王太子として未熟なのは分かっている。だが、妻となる女性にまで、毎日採点されながら生きたくはない」
「私は、殿下を採点したことなどありません」
「君にそのつもりがなくても、私にはそう感じられた」
その言葉には、嘘がないように聞こえた。
だから、なおさら苦しかった。
エステルはジュリアンを支えようとしてきた。
誤った政策資料を直した。会議で問われそうな箇所には注釈をつけた。外交使節の名前を覚えられない彼のために、家系図まで作った。
彼が恥をかかないように。
彼が立派な王太子として認められるように。
だが、そのすべてが彼にとっては、自分の未熟さを突きつけられる行為だったのかもしれない。
「……分かりました」
エステルが言うと、ジュリアンの表情がわずかに緩んだ。
「分かってくれたか」
「殿下が私との婚姻を望んでいないことは、理解しました」
「エステル、私は――」
「愛情も信頼もない方との婚姻を続けるつもりはありません。婚約解消そのものには同意します」
母が安堵の息を吐いた。
父も目を閉じ、ようやく厄介な仕事が終わったという顔をした。
ミレイユだけが、エステルをじっと見つめていた。
「ただし、この文書には署名できません」
「なぜだ」
ジュリアンの声に、すぐ苛立ちが戻った。
「双方の合意により解消した、と記録されているからです。私は九日前にも、十二日前にも合意していません。今日、発表の直前に知らされました。事実と異なります」
「結果は同じだろう!」
「記録に残る理由が違います」
「誰が気にするというのだ、そんなことを!」
「私が気にします」
エステルは羊皮紙を卓上へ戻した。
「王太子殿下のご意向と、聖女選定に伴う王家および神殿の政治的判断によって婚約が解消された。そのように書き直してください。私は、事実に沿った文書にのみ署名します」
ジュリアンは、信じられないものを見る目を向けた。
「ここまで譲歩しても、まだ私を悪者にしたいのか」
「責任の所在を記録することは、悪者を作ることではありません」
「同じことだ!」
「違います」
ジュリアンは何かを言い返そうとした。
そのとき、控え室の扉が強く叩かれた。
「殿下。神殿より、至急のお知らせがございます」
外から聞こえた声は、王宮侍従長のものだった。
ジュリアンは苛立たしげに扉を見た。
「あとにしろ」
「恐れながら、グラウス大司教猊下より、ヴァレリー伯爵令嬢に関するご報告でございます」
父の顔から血の気が引いた。
母が、ミレイユを抱く腕に力を込める。
エステルは、その変化を見逃さなかった。
「私に関する、どのような報告ですか」
扉の向こうで、侍従長が一瞬ためらった。
「神託院の保管庫より、改竄に使用された可能性のある校正器具が発見されました」
エステルは眉を寄せた。
「保管庫から器具が見つかることは、珍しくありません。校正器具を保管する場所なのですから」
「それが――」
侍従長の声が、さらに低くなる。
「発見された器具には、エステル様のお名前が刻まれていたとのことでございます」
部屋の中で、誰も息をしなかった。
エステルは父を見た。
父は目をそらした。
母も、妹も。
ジュリアンだけが混乱した顔で、エステルと扉を交互に見ている。
「お父さま」
エステルは静かに尋ねた。
「こちらの件についても、皆さんは先にご存じだったのですか」
父の喉が動いた。
だが、答えはなかった。
答えないことが、そのまま答えになっていた。




