第一話 婚約発表の隣に立っていたのは、妹でした
王太子の婚約発表が行われる朝、エステル・ヴァレリーは、祝宴の広間に飾られた建国神託の誤字を見つけた。
よりにもよって、自分の婚約が正式に発表される日に。
「……どうして今日なの」
金糸で縁取られた巨大な垂れ幕を見上げ、エステルは思わず額を押さえた。
聖王国リュミエールの建国神託は、すべての国民が幼い頃から暗唱させられるほど有名な文章である。
――光の女神は十二の星を従え、正しき王へ地上の冠を授ける。
ところが、祝宴のために新しく仕立てられた垂れ幕には、「従え」の古代文字が一画足りなかった。
このまま読み上げれば、「従える」ではなく「見捨てる」に近い意味へ変わる。
装飾用の写しであるため、ただちに何かが起きるとは限らない。けれど、今日は王太子の婚約を女神へ報告する儀式も行われる。神官がこの垂れ幕を見ながら祈りを唱えた場合、どのような影響が出るか分からなかった。
エステルは近くを通りかかった侍従を呼び止めた。
「すみません。あちらの建国神託ですが、三行目の古代文字が一画抜けています。儀式が始まる前に取り替えてください」
若い侍従は立ち止まり、垂れ幕とエステルの顔を交互に見た。
「一画、ですか?」
「ええ。このままですと『十二の星を従え』ではなく、『十二の星に見捨てられ』とも読めます。祝宴の飾りとしても、少々縁起が悪いでしょう」
「ですが、もう招待客の入場が始まっております。あの大きさの垂れ幕を取り替えるとなると――」
「上から布を重ねて隠すだけでも構いません。少なくとも、祈りの際には使用しないよう、司祭へ伝えてください」
侍従は困り果てた顔をした。
エステルは、その表情を見て自分の言い方が硬すぎたことに気づいた。
「あなたを責めているのではありません。仕立て屋が写し間違えたのでしょう。確認に時間がかかるなら、私が司祭へ直接説明します」
「い、いえ。そういうわけには……」
「なぜです?」
「なぜ、と申されましても」
侍従は小声になり、周囲を気にしながら言った。
「本日は、めでたいお祝いの日でございます。皆様がお集まりになる前に、間違いや不吉な話を広めるのは、あまりよろしくないのではないかと」
「不吉なのは、間違いを指摘することではなく、間違えた神託を掲げ続けることです」
答えた途端、侍従の頬が引きつった。
またやってしまった。
エステルは内心でため息をついた。
相手が何を求めているかは理解できる。今日は祝いの日なのだから、小さな間違いには目をつぶってほしいのだ。
けれど、神託の文字は一つ違うだけで意味が変わる。
間違いを見つけたのに黙ることは、エステルにはできなかった。
「お姉さま、また誰かを困らせているの?」
背後から弾むような声が聞こえた。
振り向くと、妹のミレイユが立っていた。
淡い桃色のドレスに身を包み、金色の髪を真珠の飾りでまとめている。春の花をそのまま人の形にしたような、美しい娘だった。
その隣には母もいる。
母は侍従の引きつった表情を見ると、あからさまに眉を寄せた。
「エステル。今日は王家にとって大切な日ですよ。準備をしてくださっている方々を困らせるような真似は、おやめなさい」
「困らせたいわけではありません。建国神託に誤字があるのです」
「誤字くらい、あとで直せばよいでしょう」
「儀式のあとでは遅いのです」
「ですが、今ここで大騒ぎをすれば、せっかくのお祝いに水を差すことになるでしょう?」
母の口調は穏やかだった。
穏やかだからこそ、エステルには反論しづらい。
怒鳴られたなら、間違っている点を説明できる。だが、母はいつも「皆のため」「家のため」「あなたのため」という言葉で、エステルに我慢を求めた。
ミレイユが侍従へ微笑みかける。
「ごめんなさい。この人、昔から細かいところが気になる性格なの。悪気はないのよ」
「ミレイユ」
「だって、本当でしょう? 刺繍の糸が一本違うとか、書類の日付が一日ずれているとか、普通の人なら気にしないようなことまで見つけてしまうんですもの」
侍従は救われたように笑った。
「さすがは聖女候補のミレイユ様。お優しいお言葉、痛み入ります」
「そんな、私は何も」
ミレイユは恥ずかしそうに頬を染めた。
その仕草は嫌みがなく、ごく自然だった。
だからこそ、多くの人は彼女を好きになる。
ミレイユは誰かを安心させる言葉を知っている。
エステルが事実を指摘して相手を困らせたあと、ミレイユは柔らかな言葉で場を丸く収める。幼い頃から何度も繰り返されてきた光景だった。
エステルは垂れ幕を見上げた。
「聖女候補という立場なら、なおさら神託の間違いを軽く扱うべきではないわ」
「また、そういう言い方をする」
ミレイユの笑顔が少しだけ曇った。
「私はお姉さまの味方をしたつもりだったのに」
「私の味方をすることと、間違いをなかったことにするのは違うでしょう」
「なかったことにしようなんて言っていないわ。今でなくてもいいでしょうと言っているの」
「儀式で使われる前でなければ意味がないのよ」
「もういいでしょう、エステル」
母が二人の間に入った。
「あなたは今日、王太子殿下の婚約者として正式に紹介されるのです。神託校正官として働いている時間ではありません。今は伯爵令嬢らしく振る舞いなさい」
エステルは唇を閉じた。
母の言うことも分かる。
今日は十年近く続いた婚約が、国民の前で正式に発表される日だ。
エステルは幼い頃から王太子妃となるために、歴史、法律、外交、神学、礼儀作法を学んできた。神殿で神託校正官として働くようになったのも、王太子妃として神殿の制度を理解するためだった。
ジュリアン王太子を支える。
そのために生きてきたと言ってもよい。
だが、なぜだろう。
祝宴の日だというのに、胸が高鳴らなかった。
むしろ朝から、靴の中に小さな砂粒が入り込んでいるような落ち着かなさがあった。
「分かりました」
エステルは侍従に向き直った。
「騒ぎにして申し訳ありません。ただ、儀式を担当する司祭には必ず伝えてください」
「承知いたしました」
侍従は頭を下げたが、その声には、早くこの場から立ち去りたいという気持ちがにじんでいた。
エステルがそれ以上追及しなかったことで、母はようやく表情を和らげた。
「さあ、控え室へ参りましょう。殿下をお待たせしてはいけません」
「お母さま。私も一緒に行っていい?」
ミレイユが尋ねると、母は当然のようにうなずいた。
「ええ。あなたにも大切なお話があります」
「私にも?」
ミレイユは目を丸くしたあと、ちらりとエステルを見た。
ほんの一瞬、その青い瞳にためらいが浮かんだ。
けれど、それはすぐに笑顔の下へ隠れた。
エステルはその小さな変化が気になった。
「何か聞いているの?」
「何を?」
「今日の発表について」
「嫌だ、お姉さまったら。婚約を発表されるのは、お姉さまでしょう?」
ミレイユは笑った。
しかし、返事をするまでに、わずかな間があった。
エステルは古い写本を読む仕事をしている。
文章の上から削られた文字や、書き手が筆を止めた一瞬の迷いを見つけるのが仕事だ。
そのせいか、人が言葉を選ぶ間にも気づいてしまう。
「ミレイユ」
「本当に何も知らないわ。お姉さまは、すぐに人の言葉を疑うんだから」
「疑っているわけでは――」
「エステル」
母に名前を呼ばれ、エステルは黙った。
三人で控え室へ向かう。
廊下の窓からは、祝宴に集まった貴族たちの馬車が次々と宮殿へ入ってくるのが見えた。
皆、今日発表される王太子の婚約を祝福するために来ている。
その中心に立つのは自分のはずだった。
それなのに、母は一度もエステルのドレスを褒めなかった。
薄い青色のドレスは、母が選んだものではない。今朝、侍女と相談して決めた。
一方、ミレイユの桃色のドレスには、王家の紋章である白百合に似た刺繍が施されている。
聖女候補だから特別に許されたのだろうか。
それにしても、母の態度が妙だった。
何かを隠している。
そう思った瞬間、エステルは自分を戒めた。
また、人の間違いや隠し事を探している。
今日くらいは、素直に喜ばなければ。
控え室の扉の前には、父が立っていた。
ヴァレリー伯爵はエステルたちを見ると、ほっとしたように息を吐いた。
「遅かったな」
「エステルが広間の飾りに誤りを見つけたと言い出したのです」
母が答えると、父は疲れたように目元を押さえた。
「またか。今日は余計なことを言うなと、あれほど伝えただろう」
「建国神託の文字が一画抜けていました。余計なことではありません」
「エステル」
父の声が低くなった。
その場の空気が変わったことを感じ、ミレイユが父の袖をそっと引いた。
「お父さま。お姉さまも悪気があったわけではありません。それより、早く中へ入りましょう。殿下がお待ちなのでは?」
「……そうだな」
父は扉へ手をかけたが、すぐには開けなかった。
「エステル。中へ入る前に、一つだけ約束しなさい」
「何でしょうか」
「どんな話を聞いても、取り乱すな」
エステルは父の顔を見つめた。
「どんな話、とは?」
「今は説明できない」
「なぜです?」
「頼むから、いちいち理由を求めないでくれ」
父の声には、苛立ちよりも怯えが混じっていた。
エステルはますます不安になった。
「私の婚約発表なのですよね?」
誰もすぐには答えなかった。
母が目を伏せる。
ミレイユは父の袖を握ったまま、唇を噛んでいる。
「お母さま」
エステルは母へ向き直った。
「今日、発表されるのは、誰の婚約なのですか」
「エステル、声を落としなさい」
「答えてください」
「このような廊下で話すことではありません」
「では、中で話すのですか。王太子殿下の前で?」
父が深く息を吐いた。
「すべては国のためだ」
その言葉を聞いた瞬間、エステルの胸にあった不安が、冷たい形を持った。
国のため。
家のため。
妹のため。
父と母が、エステルに何かを諦めさせるとき、必ず使う言葉だった。
扉が開く。
控え室の奥に、白い礼装をまとった王太子ジュリアンが立っていた。
エステルが十年近く婚約者として支えてきた男性。
彼はエステルではなく、その隣にいるミレイユを見て、安堵したように微笑んだ。
「来てくれたのだね、ミレイユ」
ミレイユの指が、父の袖から離れた。
そして彼女は、ためらいながらもジュリアンのほうへ歩いていく。
王太子は、その手を取った。
人前では一度もエステルに向けたことのない、柔らかな微笑みを浮かべて。
エステルは二人の重なった手を見つめた。
誰かが何かを言っていた。
父か、母か、それともジュリアンか。
けれど、その声は遠く、よく聞き取れなかった。
ただ一つだけ、はっきりと理解した。
本日、王太子の隣に立つのは、自分ではない。
ジュリアンはミレイユの手を取ったまま、エステルへ向き直った。
「すまない、エステル。今日の婚約発表について、君に伝えなければならないことがある」
彼の顔には、罪悪感と同じくらい、話が早く終わってほしいという焦りが浮かんでいた。
エステルは息を吸った。
泣いてはいけない。
怒鳴ってもいけない。
父と約束したからではない。
まだ、何も正式には聞いていないからだ。
神託校正官は、文章のすべてを読む前に結論を出してはならない。
「承知しました」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「では、最初からご説明ください。誰が、いつ、どのような理由で決定したのか。曖昧な表現を避け、主語を省略せずにお願いいたします」
ジュリアンの顔が、わずかに歪んだ。
まるで、その質問こそが、エステルの罪であるかのように。




